手遊びで書いた短編など
暮沢深都
再会したふたり
感謝の言葉を口にするタイミングを心得た人間が一番恐ろしいのだ、と十数年ぶりに会った知人が真剣な顔で口にした。
十数年ぶりといっても小学校を卒業して以来なので、まだわたしたちは二十代そこそこである。
︎ 駅ナカのコンビニの店員をしていた佐紀子は、相も変わらず突拍子のないことを言う人間であった。コンビニの店員と客という関係のなかに落とし込まれたわたしたちは、会計を済ませた十五分後に、これまた駅ナカの喫茶店で向かい合っていた。
その開口一番が、あの言葉である。
「佐紀子、なんかあったの?」
「最近そればっかり思うのよ。色んな人見ててもね、ほんとに」
例えばこういう店の店員さんにさ、と佐紀子は口角から泡を飛ばす。
「コーヒーとか持ってきてもらうじゃん? そしたらいちいちね、『ありがとうございます』って言うわけよ。毎回よ? こういう喫茶店だったらいいけどさ、コース料理とか出してくるような店だったらさ、想像してみてよ? 前菜運ばれてきたら『ありがとうございます』、飲み物運ばれてきたら『ありがとうございます』、お冷注いでもらったら『ありがとうございます』って絶対に同じように言うのよ。あたし怖くなっちゃってさ、もうその人と一緒に食事行けなくなっちゃった」
そういう人って何に感謝してるんだろうね、という佐紀子の言葉に、わたしは首を傾げるだけで返事を済ませたということにする。
「具体的にこういうところが怖いってわけじゃないんだけどさ、これさえ言っておけばなんとかなるって思ってる感じしない?」
「でも、その『ありがとうございます』の人は、感謝のタイミングが分かってないんじゃないの?」
そうなのよ、と佐紀子は子供の玩具のように派手に頷いて見せた。わたしの凝り固まった首と肩では不可能な芸当で、少しだけ羨ましく思う。
「言うべきタイミングにしか言わない人ってさ、それだけ場数を踏んでるってことでしょ? なんかさ、そう思ったらあたしの思考回路とかも全部見抜かれてる気がしてさ。このタイミングで叩き込むんだ、って弱点分かってる人なわけよ。無駄撃ちは絶対にしないの。じゃあ目の前に座ってるあたしの弱点とかなにもかもを知られちゃってるんじゃないかって思ってさ、そういう人の方が何段階も怖いじゃん」
マサシさんって言うんだけど、と佐紀子は「何段階も怖い」「場数を踏んだ」らしい人の名前を出した。
「何が怖いって、その人と一緒にご飯食べるの、すごい楽しいんだよね。だってさ、あたしの欲しい言葉をいつも言ってくれてさ、お金出してほしいなって思ってるときは出してくれるし、割り勘でいいやって思ってるときはなぜか割り勘にしてくれるんだよ」
わたしは「ふうん」と気のなさそうな返事をして、佐紀子の顔をまじまじと眺めてみた。化粧っ気は薄く、それは意図してそのようなメイクをしているわけではないように見える。ずっと実家暮らしを続けているのだろう、とわたしは予想した。その割には、唇は着色料を塗りつけたような病的な赤色をして、舌のように艶めかしく動いていた。
「マサシさんとは、付き合ってるの?」
わたしが訊くと、佐紀子は血のように赤い唇を引き絞って首を横に振った。
どうせ、地元のコンパか何かで知り合った相手だ。
佐紀子とは、そういうきっかけがなければ知り合わないような人に思えた。年齢は高くても三十代後半、収入はそこそこあって、女慣れしている。
そういう人が佐紀子に唾をつけている理由は、だいたい想像がついた。
「そいつ、金か身体か、どっちか目当てにしてるよ」
佐紀子には、そのどちらもあった。その両方、という可能性も十分にある。
わたしは正直なところ、「マサシさん」の意図を掴みかねていた。金があると言っても、佐紀子より上の女はいる。身体についても同じことだ。男は顔のいい女子を警戒してどうのこうのとは言うが、あれは間違いなく嘘だ。佐紀子のような女に男が群がることはない。
手を顎に当てていたせいで、危うく親指の爪を噛みそうになった。
給湯室や女子トイレで耳にして蓄積された男の話から似た例を探している間に、佐紀子の耳の先は真っ赤になっていた。
「私、マサシさんに求められてるってこと?」
あるいは、佐紀子も満更ではないのかもしれないとは思っていた。
しかし、佐紀子はこれほどまでに目を輝かせて、身の丈に合わないような言葉を使えるのか、とわたしは眉を顰めた。本当に厭な気分になった。対面して座っているわたしの顔などは眼中にないようで、佐紀子は砂糖の溶け残りしか底に残っていないカップの底をスプーンで救いとり、それを口に運んだ。ソーサーに置かれたスプーンには、赤い口紅がべったりとついていた。
「だったら別にいいのよ。よかった、私ね、マサシさんに裏切られるんじゃないかなって思っててさ。あたし、そういうの分かんないから。ほら、あんた東京でOLやってるんでしょ? 東京って怖い人が多そうだからさ、ってことは経験豊富なわけじゃん。私なんかより賢かったしさ、今でも覚えてるけど、宿題とか見せてもらってた恩忘れてないからね、あたし。絶対に借りは返すから、あんたは忘れててもいいけど、あたしは絶対に忘れないからね」
そう語る佐紀子の勢いは、猪のように直線的で、そして愚直だった。それがおそらく「マサシさん」に付け入られる隙になるのだ、とは言わないでおいた。
「強烈に覚えてることがあってさ、あんたは覚えてるかな、調べ学習って言うの? それをするときに休み時間でさ、あたし、図書館で本を借りる方法が分からなくて、それであんたに全部教えてもらったんだよ。丁寧に教えてくれたあとにさ、さっさと図書館出ていっちゃったんだよ」
わたしは記憶を探る作業がとてつもなく煩わしかったので、飲み終えて氷だけになったアイスコーヒーの底をじっと見つめていた。
「ねえ、でさ、必要なことだけあたしに伝えて行っちゃったからさ、あたしが困ってるのを未来予知して、あたしのためだけにわざわざ来てくれたのかなって思ったりしたけどさ、でもね、こうも考えれるわけじゃない。別の用事があって、通りかかった図書館であたしが困ってたから仕方なく教えてくれて、つまり用事よりもあたしを優先してくれたってことじゃない」
真夏の日差しから逃げるように入った喫茶店は、肌寒いくらいに空調がきいていた。わたしは無意識のうちに、右手で左腕を、左手で右腕をさすっていた。
「そのどっちなのかは分からなかったけどね、どっちにしてもあたしを助けてくれたことには変わりないじゃん?でも、さすがにそこまでは覚えてないよね?」
「覚えてない」
「あたし、あんたのそっけないところ好きよ」
「そ、ありがとう」
わたしの地元ではこんな言葉が流行っているのかと思うと、背中が粟立つような気がした。ストローを咥えて、コーヒー風味の冷たい水を少しだけ啜った。
逃げ場所がない、と感じる。地元に戻ってもこれならば、わたしはどこに行けばいいのだろう。
佐紀子は、とても幸せそうに見えた。頭が他人よりも足りないという性質は無知につながり、無知は思考を低級なものにする。思考が展開しなければ、人は幸せになれる。そういう論理を組み立ててみても、カフェオレのおかわりが待ち遠しくてメニューに目線を落としている佐紀子がどうしても視界に入ってしまう。
「マサシさん、期待してるような人じゃないよ。裏切られる。絶対に」
こんな性格をしているからわたしには男ができないんだろうな、と思いつつ声に出した。
わたしは、人並に化粧をして、人並にキレイな顔で、料理も人並にできる。だから、男はある程度寄ってくる。けれどそれも、一定の距離を越えてこない。一緒に食事をするところまでしか、関係は進展しない。
「その人は、佐紀子の期待には絶対応えないよ」
言うが早いか、佐紀子は机に両手をついて立ち上がる。「あんたにマサシさんの何が分かるの」アイスコーヒーのグラスが揺れて、底面がテーブルから離れるが、倒れなかった。
「全部分かるよ」
本当は分かっていないのに、わたしは力強く言った。分かっていることは、わたしが口にした内容ですらなく、なにもなかった。
「全部、知ってる。そういう男をいっぱい見たから」
付き合いたてのカップルがそうするように、わたしたちは、互いに思っていることを一方的にぶつけあっていた。同じ言葉を繰り返すうちに、想像していた佐紀子と現実の佐紀子の姿が一致してきて、わたしはなぜか興奮していた。
わたしも、感謝の言葉を言っておけば済むと思っている人間に出会ったことがある。タイミングを弁えた人間に出会って、恐ろしいと感じたこともあった。
「佐紀子、ありがとうね」わたしは唐突に声音を変えた。「わたし、佐紀子のおかげで楽しくなってきた」
「え?」
「そのままの意味だって。佐紀子とこうやって話せて楽しいなって。佐紀子、わたしの名前覚えてる?」
しばらく間があってから、佐紀子は黙って首を横に振った。こういうときのごまかし方を知らないところも変わっていない。
「でも、名前なんてどうでもいいよ。肩書きとか地位とかもどうでもいい」
わたしは、これは佐紀子に説教をしているようで、紛れもない自分自身に言い聞かせようとしているのだと分かりながら、言葉を続けた。
「化粧がうまくなっても、性格は良くならないよ。わたし、佐紀子に会えてよかった」
テーブルの側面に刻まれた植物の紋様、磨りガラスの向こうに見える信号機の鮮やかな点灯、佐紀子の唇に走る縦の皺、そういったものが、途端にきらびやかなものとして目に映っていた。
わたしは、ベッドで事を済ませた後のように恍惚としていた。もう何年もしていないけれど、あの独特の感覚を、鮮明に思い出していた。
「あたしは化粧も下手で性格も悪いってこと? あんた、ねえ、そういうことが言いたくてさ、あんたをいじめてたあたしに声かけてきたの?」
「覚えてくれてたんだね」
わたしは素直な心で「ありがとう」と感謝の言葉を述べた。
「ごめんね、あたし、あれが悪いことだって思ってなかったし、宿題を見せてもらうのも、みんなやってたことだったから」
「もう、いいよ」
佐紀子は終わらない話を続けながら、なにを考えていたのだろうかと想像した。罪悪感をごまかすためなのか、それとも別の理由があったのか。喫茶店のなかは、大した特徴のないBGMが聞こえるくらいに静かになっていて、わたしは、長らく味わっていなかった「嬉しさ」に再び触れることができた。
「ごめんね、コンビニで働くのってすごい大変って聞くのに、すぐに会おうって言っちゃってさ」
佐紀子は真っ赤な唇を少しだけ噛みながら、黙って席を立った。その手元から小銭がちゃりちゃりと机の上に散らばる。2人分でも、一銭も出さないわけでもなく、自分が注文した分だけをきっちり440円。
結局、おかわりはもらわないまま、佐紀子は帰ってしまった。
わたしはいつもの癖で、佐紀子の服装をさっと見る。スーパーマーケットで売っていそうなよく分からない柄の半袖のTシャツに、もんぺのような、全体がまとまらないワイドパンツのような水色の何か。黒髪は毛先がはねていて、背伸びした女子小学生が持っているような赤色のショルダーバッグ。アクセサリーはひとつも身につけず、靴は叩き売りされていそうなスニーカー。
アルバイトだかパートだか知らないが、佐紀子はこういう格好を選ばざるを得ないのだろう。
「お下げいたしますね」と店員が言って、佐紀子のカフェオレのカップと私のアイスコーヒーのグラスが去っていく。案の定、佐紀子の白いカップには口紅が少しだけついていて、気をつけて飲んでいたのだろうなと可愛らしく思った。
では一体、佐紀子は何の存在を意識していたのかと考えてみたが、わたし以外には思いつかなかった。
わたしの服装は、何がいいのか分からないまま選んだ代物で構成されている。モノトーンでまとまっているように見えても、それだけだった。
自然に蘇る記憶。
図書館に来て、と佐紀子に言いつけられて向かうと、貸出カウンターに置かれていた徳川家康についての史実を扱った漫画や江戸時代の資料集を示された。
「宿題の答えさ、こういうのに載ってると思うけど、あたし分かんないから、やっといてくれない?」
あたし分かんないから、というのが佐紀子の口癖だった。
「夏休みの宿題で、歴史上の人物をひとり紹介する新聞を作るっていうのがあるから、来週ぐらいまでにそれもやっといて、終業式の日には完成させといて」
小学生のとき、わたしは、佐紀子がよく着ていた、肩を出したり背中を開けたりした服や、膝丈よりも短いスカートが流行なのだと思っていた。流行を追うとはつまり、大人の女性であるということ。そんな思いをずっと抱いていた。
きっと、そういう意識が根底にあって、大人になったわたしのファッションが作られているのだろう。そして今日も、わたしはモノトーンでつまらない服を着ていた。買ったときはそんなつもりがなかったはずなのに。
私は''ちゃんとした''黒く艶のあるワイドパンツの裾をつまみ上げて、ため息を吐いた。
東京では、こういった服が好まれた。わたしは、夢のような場所だと思いながら、十年弱の期間をそこで過ごした。
本当に、夢が降りてきたような場所だった。なのに、付き合いたいと思っていた相手が離れていって、そこは悪夢が現実となった世界なのだと気づかされた。
わたしの目の前には、地元に戻るという選択肢しか残されておらず、もしかすると、単に隣の区へ引っ越すこともありえたかもしれないが、わたしは実家に帰ってきたのだった。
しかし、駅ナカにコンビニができていたことも知らなかったし、喫茶店なんて洒落たものがここにあるとは思いもしなかった。
なのに、不思議なことに、佐紀子はまったく変わっていなかった。大人びて見える小学生が、身体だけ大きくなったような。ランドセルは似合わないけれど、答えを他人に聞くようなところは変わらない。
そうでも思い込まないと、わたしは、手の中に握られた伝票をぐしゃりと潰してしまいそうだった。
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