第23話

       ◆


 部屋の壁に安く手に入れた紙を貼り付け、一日ごとにそこに一本ずつ、線を引いていった。

 横線を四つ引いた次にはそれを縦に貫く一本を引いて、これで五日。

 この五つが十二個、出来上がった日の朝はさすがに私も気が重かった。道場で唯一の門人と言っていいウダと稽古をしたが、彼が早々に悲鳴をあげた。

「ちょ、ちょっと、姉さん、やりすぎっす」

 距離を取ろうとするウダとの間合いを即座に詰めたところで、私は足を止めた。

 真剣を振りかぶったまま、彼を見る。稽古着の端々が切れていて、血が滲んでいる。

「ごめん、うっかりした」

「事故で死ぬ奴はいますけど、自分がそうなるのは勘弁です。うっかりで殺されては堪りません」

「だから、ごめん」

 私はゆっくりと全身の力を抜いて、腰の鞘に刀を戻した。ウダには傷の治療をしてもらうように言って、彼が下がっていくのを見送った。今の時間ならホタルがいるから、彼女が手伝うはずだ。

 一人になり、思わず腕組みしていた。

 ついに二ヶ月が過ぎてしまった。長い二ヶ月だったが、こうなってみるといかにも短く感じられる。

 ため息をついて、私はもう一度、刀を抜こうとした。稽古を続けて気持ちを整えようという思いだったが、その前に道場の外へ通じる戸が開いた。

 そちらを見たくないが、見ないわけにもいかない。

「こんにちは」

 忘れようと思っても忘れられない声。別に色っぽい理由ではなく、記憶に焼き付いているだけだ。

「意外に手狭ですね」

「殿下」

 私の言葉に、今は二十歳の青年の姿をしているシシリアン大公が、口の前に指を立てる。

「今の僕はセイルンという人間ですよ、マーガレットさん」

 この遊びはいつまで続くのだろう?

「では、セイルンさん。身支度をするので、待っていてもらえますか? お茶も何も出ませんけど」

「構いませんよ」

 そう言ってから、セイルンがさりげなく付け加える。

「三時間くらいは待てますから」

 ……覚えていたか。

 私はできるだけ早く身支度をして、道場へ戻った。セイルンは板の間に座り込んで待っていた。眠っているように見える。その姿はいかにも無害だ。実際には無害とは言えないけど。

「セイルンさん」

 声をかける彼はゆっくりと瞼を持ち上げ、微笑んで立ち上がった。

「行きましょうか」

 二人で道場を出て、しかし朝食がまだなことに気がついた。

「セイルンさんは何か食べてきましたか?」

「ええ、軽く。マーガレットさんはまだですか? それは、失礼しました」

「いいえ。あとで何か食べます」

 実に自然にそんなやり取りをしているが、私はどうやら彼がシシリアン大公だということを忘れつつあるらしい。まったく、私も迂闊なことだ。

 通りを進みながら、「前の話は考えましたけど」とセイルンが言った時、来たぞ、と私は即座に身構えた。どういうことを言われても問題なく着地できるように、いろいろと想定していたのだ。

「マーガレットさんが妃になってもらえると、僕として心強いですね。ちなみに、誰彼構わずこういう話をしているわけではないですよ、念のために」

「私は今の生活が気に入っています。お城で大人しくするのは、性に合いません」

「城にいるもので大人しくしているのは、ほんの一部です」

 妙なことを言うセイルンの方を見ると、彼はちらっと背後に目をやった。

 私も肩越しにそちらを見たが、その時にはセイルンが私の手を取って走り始めている。意外に足が速い。ちょっと引きずられてから、私も自分で走り始めた。

 背後から二人、いや、三人が追ってくる。

「妃の生活も」隣を走るセイルンが言う。「こんな感じじゃないかなぁ」

 私は怒り半分、呆れ半分で言葉にしなかった。

 また暗殺者か。妃になって暗殺者に狙われ続けるなんて、まっぴらごめんだ。それなら用心棒をしていた方がだいぶマシというものである。

 文句を言いたいが、隣でセイルンは笑っている。

 私はとても笑えないが、確認することはある。

「セイルンさん。現在の状況はまったくの私的な場ですか?」

「どういう意味ですか?」

「あなたを護衛する仕事の一環にしていいか、訊ねているのです」

 疾走しながら、セイルンははっきりと答えた。

「今は仕事としておきましょう」

 なら仕方がない。

 今は我慢するとしよう。

「では後で、契約書にサインしてもらいましょう」

 わかりました、とセイルンが笑う。

 まずは追ってくるものをどうするかだ。それを考えよう。

 用心棒の仕事の始まりだ。



(了)

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女用心棒の彼女は今日もまた振り回される 和泉茉樹 @idumimaki

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