第16話

       ◆


 冷たい風が吹く。

 それは殺気の温度。

 切りつけられた、と思った時には、後ろへ足を送っていた。

 胸元が凍りつく。

 翻る切っ先はよく見えていた。

 半身。

 肩を気配が撫でていく。

 思い切って前に踏み出し、のけぞるようにして次の斬撃を避ける。

 顎を引っ掻かれる感触。

 姿勢を取り直す私を、男はもう攻め立てなかった。

 刀を構えるが、私の構えは普通ではない。常識を逸脱している。

 両手を上に上げ、刀は地面と平行。

 隙しかない構えだった。

 肩と胸元を浅く切られた。顎もだ。

 しかし動きに支障はない。

 男はもう無言。ここから先は剣で語り、剣で主張する領域だ。

 目の前の姿をじっと見た。

 見たこともない構えだが、ブルー流に近い。ブルー流は統一王国で使い手の多い、基礎剣術である。初等学校などでも初歩の稽古が行われるほどだ。

 しかし私が際どく避けた三連撃は、私の知識、経験の中にあるブルー流の動きとは異なる。踏み込み、構え、打ち込み、全てに未知がある。

 剣術の使い手は、最初こそ基礎の術理を体に叩き込むが、研鑽の中で独自の合理性を見出していく。

 何故なら、人間は二本の足、二本の腕が接続された一つの胴で構成されるが、個人によってまったく違う個性を持つからだ。

 腕の長さ、足の長さ、関節の柔軟性、筋力と筋肉のつき方、体の重さ、重心の位置。

 何もかもが違う。その違いが、剣術を練り上げると大きな意味を持つようになる。体の造りによって生きる技と、体の造りによって死んでいく技があり、誰も使わなかった技が見えてくることもある。

 場合によっては、その一人にしか使えない技すらある。

 全ては基礎から始まり、系統立てられ、合理性が追求され、そこに新しい形が見出されていくことが、大抵の剣士はそこへ到達することはない。

 ともかく、目の前にいる男は、形を知っている人物だ。

 これからそれを繰り出してくるだろう。

 切られるかもしれない。

 それは、しかしいつものことだ。

 勝利が約束されている戦いなど、ありはしない。

 運に頼る気もない。

 力の限りぶつかり、どちらが勝るかだ。

 すっと男が切っ先を下げる。足の位置が変わる。知らない構えだ。

 一瞬、視界が眩んだ気がした。

 男が間合いを詰めている。気づいた時にはもう間合いに取り込まれている。

 動きを見逃した?

 まさか。

 そういう足の運びなのだ。

 考えている暇はない。剣が飛燕となり、襲い掛かってくる。

 避けるしかない。元より、防御は捨てている。

 閃いた刃に自ら体を晒し、捻る。

 息が止まる。

 男が剣を振り抜き、こちらに向き直った。

 私はまだ立っている。

 腹部に痛みが走る。見る余裕はない。触れることもできない。

 痛みの感触から、深手ではないとわかった。ただ、あまり長引かせたくはない。

 考えるべきは、負った傷より、相手の剣だ。

 あの歩法は見たことはないが、一部の剣術、そして拳法に存在する歩法だろう。達人ともなれば十歩の距離を一息に渡るというが、実在するらしい。姿勢をほとんど変えないために、錯覚を伴うようだ。

 剣の振りは、とにかく速いということしかわからなかった。正体不明の歩法と合わされば一撃必殺。私が生きているのは、観察に長け、即座に状況を把握したからに過ぎず、それでも完全には避けきれていない。

 お互いに口を開かない。

 呼吸は最小限であり、体は完全に制御され、一つの装置となる。

 刀剣は体の一部であり、体は刀剣のための道具に過ぎない。

 私は構えをゆっくりと変えた。肩に担ぐようにして、柄頭が僅かに上を向く。片足を引き、腰を落とす。

 まだ不足。

 細い細い呼吸が心気を刀へ流し込み、剣気が収束する。

 お互いがお互いを、ここに至って理解していた。

 踏み込む、とわかった。

 踏み込める、と悟った。

 勝敗はその先にある。

 剣の極致が。

 足が前に出た。

 男が滑るように前に出る。

 同時。

 刃が繰り出される。

 男の刃は斜めに下から上へ吹き上がり。

 私の刃は斜めに、上から下へと打ち下ろされる。

 剣気が宿る切っ先が宙を焦がし、引き裂かれる空気が悲鳴をあげる。

 男の剣と私の刀がぶつかる。

 渾身の剣気が、男の剣を叩き折る。

 そのはずだった。

 強烈な手ごたえ。

 鋼を打った感触ではない。

 堅固であり、柔軟であり、熱く、凍え。

 力が押し寄せる。

 私の刀が軋む。

 男が繰り出した斬撃は、ただの斬撃ではない。

 剣気が練り上げられている。

 私と、同じことをしたのだ。

 奥の手を切ったつもりだった。

 ここに至っても私はまだ男を甘く見ていた。

 剣気に全てを賭けるしかなかった。

 もし男の剣気に飲まれれば、私の刀は折れる。そのまま私を両断することもできる。

 剣気が宿る刃の破壊力なら、人体など問題にならない。

 刀を押し込む。男も押し込む。

 紫電が走り。

 光が瞬き。

 空気が震え。

 ふた振りの刃が弾きあって、離れた。

 刀を引き寄せ、最低限の軌道で振る。牽制だった。姿勢が乱れすぎている。

 男はそんなことはせず、サッと間合を広くとり、一度、構えを解いた。

 二人の力量は違いすぎる。

 勝てる気がしない。

 私は呼吸を整えようとした。しかしうまく息が吸えない。剣気の消滅で全身が鉛のように重くなっていた。刀を構え直し、ぐっと一度、歯を噛み締めて、やっと息を吐けた。

 肩が上下する。

 男は平然としていた。

 その手が翻る。

 剣が鞘に戻っていた。

 なんだ? 何故、剣を引く?

 唐突に周囲の喧騒が蘇った。大勢が騒いでいる。

 男が私に背を向けた瞬間、誰かが背後から組みついてきたのは、全く予想外だった。

 石畳に倒れ込み、「刀を捨てろ! 動くな!」と後ろにいる誰かが叫んでいること、さらに数人が私を抑え込もうとのしかかってくることがわかってきた。

 警察だ、という声も聞こえた。

 まったく想定外だった。男と剣を交えていた時間はどれくらいだったのだろう。

 私は刀を手放したけど、それは諦めの表明でもあった。抵抗する体力はない。疲れ切っていた。男に向かって全力を振り絞ったからだった。

 結局、私はあっという間に縄を打たれ、警察の建物へ連行された。

 一晩くらい拘束されるかな、と私は思っていた。

 思っていたけど、やっぱり予想外のことが起こった。

 事情を聞かれると予想していたのが、待ち構えていた警官が「釈放する」と言ったのだ。これには私を連行した警官も驚いたようだった。私は、いかにも渋々といった態度で解放された。

 しかし、「お客様がお待ちだ」と告げられた。これも予想外だ。

 どうやら拘束されたものを即座に解放した理由は、そのお客様とやららしかった。

「まずは怪我の治療を」

 そう言って、こちらへ、と警官が変に丁寧な調子で口にするのは、いかにも違和感があったが、ついていくしかない。案内された医務室で、中年の医者が私の傷を見て、腹にある傷を手早く縫い合わせた。そこへ軟膏を刷り込み、布を押し当ててきつく縛り上げた。

「明日にはまた医者に見せなさい」

 医者は素っ気なく言って私を警官に戻し、警官は建物の奥へと案内した。

 何のための部屋か、すぐにはわからない部屋だった。狭い会議室、といったところ。

 そこで一人の人物が待っていた。

「あなたは……」

 私は思わず声を漏らしていた。

 そこにいる中年男性は、以前、用心棒として護衛した商人、ルルドだった。



(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る