第9話

       ◆


 セイルンと名乗った青年は私が予想していた感情を微塵もうかがわせなかった。

 三時間も待たされて、それで怒り狂わないとはどういうことか。

 苛立ちの一つも見せず、罵声を浴びせたり皮肉や嫌味を言わないとは……?

「お腹が空きましたね」

 それが彼が真っ先に言ったことで、すみません、と私はとっさに謝罪していた。その謝罪にも彼はふにゃふにゃ笑っているだけで、咎めるようではない。

 ちょっと、と声をかけてきたのはセンジョウジキだった。

 彼の元へ戻ると「契約書にまずサインしろ」と書類が差し出される。

 本来的な契約書だったけど、小さなメモが添えられていて「要注意」とだけ書かれている。センジョウジキの顔をさりげなく見たが、憮然とした顔のままだった。何も知らなければ、大遅刻に腹を立てているように見えただろう。

 要注意とはどういう意味か。この状況では言葉で問いかけることはできない。セイルンに聞かれてしまう。彼に悟られないように私にメモを見せたのだ。

 仕方ない、要注意というのだから、注意しておこう。

 書類を提出し、すでに玄関の前へ移動しているセイルンの元へ戻る。

「遅れて申し訳ありませんでした、セイルンさん。改めて、よろしくお願いします」

 目尻を下げて、青年が柔らかい表情で応じる。

「いいえ、お気遣いなく。よく眠れました。気持ちよかった」

 座り心地が良くない椅子で眠った感想を、気持ちよかった、と表現する人間は稀だろう。痩せ我慢、皮肉かと検討してみるがそんなものは一切含まれていない。

 根っからの善人。

 どこかのおぼっちゃまか。

「マーガレットさん、まずは食事にしましょう。どこか、いいお店を知っていますか」

 喋りながらセイルンは表へで行く。彼についていきながら、「落ち着いて食べますか?」と確認した。用心棒仕事は本来的には護衛になるが、依頼者の中には観光案内人のような役割を求める者もいる。私も自然と公都の飲食店には詳しくなっていた。

 顎に手を当てながら、セイルンは斜め上を見ている。その間も足は先へ進み、大通りへ向かうようだ。

「気安くて、簡単に食べられるものがいいですね。何かありますか?」

「気安い、というと、例えば?」

「立ち食い、そうじゃなければ、屋台でしょうか」

 ちょっと意外だった。すでに真昼を数時間すぎているから、彼は空腹を強く感じていると想像していたのだ。ここで軽く済ませ、夕食にしっかり、ということか。先ほどに署名した契約書に目を通した時、契約は今日の夕方までになっているのを確認している。私がいる状況より、一人、ないしは気心の知れた相手がいるかもしれない夕食の方が自由度が高い、かもしれない。

「では、屋台の店で気に入っているところがありますから、行きましょう。こちらです」

 私は彼の横に並び、少しだけ先に立つ。護衛対象より前に立つと、背後からの襲撃に対応するのに困難が生じる。なので常にセイルンの立ち位置を把握しながら、周囲に目を配らないといけない。

 ともかく私たちは大通りを横断し、公都の公園のひとつへ出た。人々がそれぞれに過ごしている中を抜け、屋台が何軒か密集しているところへ入る。セイルンがしきりに周囲を見ている。

「セイルンさんはどこの出身ですか」

 さりげなく問いかけてみると、「郊外の出です」と返事があった。視線を少しだけ向けて表情を見るが、ニコニコと緩んだ顔をしていて、心は読み取れない。

 公都の郊外の人間か。言葉には訛りはなく、言葉遣いにも特徴はない。だから地方の人間が素性を偽っているわけではない。挙措からすると階級はそれほど低くないはず。

 屋台の一つで、薄く焼いた生地に肉やチーズ、野菜を包んだものを手に入れた。辛いソースがかけられている。日陰に置かれたベンチを示すと、彼は抵抗する様子もなくそこに座り込み、食事を始めた。私も自分の分を食べながら、周囲を見るふりをして彼を観察した。

 軽食を食べるにしては仰々しい丁寧さだけど、それが育ちというものだろう。

 公都の郊外の出身というのは偽りで、例えば、そう……、王都から来た、とか?

 契約では商談の場における助言が含まれていたのは、忘れていない。

 商談の詳しい内容は知らない。これは契約の段階で明示しなくてもいいのが、用心棒事務所のある種の柔軟性だった。仕事の内容を徹底的に管理すると、その窮屈さから忌避されることがある。そのためにある程度の曖昧な内容でも受け入れるようにしているのだ。

「どちらに用事があるのでしょうか、セイルンさん」

 それぞれに食べ終わったところで確認すると、うん、と包み紙を丸めていたセイルンが一度、頷く。

「刀鍛冶を紹介してほしい」

「刀鍛冶、ですか」

 考えるべきことは多い。

 まず第一に、セイルン自身が刀剣を求めるような人間には見えないこと。刀鍛冶に刀を打ってもらうとして、誰が使うのか。

 第二に、私がただ、適当な公都にある鍛冶職人の工房に彼を連れて行くだけでいいのか。

 私が彼に手のひらを差し出すと、彼は嬉しそうに包み紙を置いた。そして首を傾げる。

「無理な依頼ですか」

「無理ではありません。刀鍛冶と言っても、公都には私が知る限り八つの工房があります。力量もそれぞれなら、値段もそれぞれです。ご予算はどの程度ですか? 仕上がりまでの期限は?」

「予算は気にしないでいいんです」

 その言葉にただ頷く演技をするのには、相当な自制心が必要だった。

 予算を気にしないで刀を欲しがる?

 私の疑念に気づかないのか、セイルンは私の腰を指差す。そこには刀があった。私の刀だ。

「それを見せてくれますか。それもダメですか?」

 いいえ、と答えて私はベンチから立ち上がると、真っ直ぐに立って刀を抜いた。

 その刃を、セイルンによく見えるように角度を変え、光にかざした。

 食い入るようにセイルンが視線を注ぎ、黙った。

 それはどれくらいの時間だったか、「ありがとう」という声とともにセイルンが跳ねるように立ち上がる。私は素早く刀を鞘に戻した。

「その刀はなかなか悪くない。その刀を打った職人は?」

 自然な流れの会話だけど、果たして目の前の青年に審美眼があるのか。あるいはまるっと演技で、最初から私を伝手にして鍛冶職人に繋がろうという腹かもしれなかった。

 まぁ、あの職人は人を選ぶ。私が拒否しなくても、職人の方で拒否する可能性もあろう。

「この刀は」

 私は左手で刀に触れた。

「黒霜という職人の作です」

 よし、とセイルンが相好を崩す。

「その職人のところへ連れて行っておくれ」

 分かりました、と私は聞き分けのいいふりをした。私はただの用心棒で、交渉人ではないし。

 二人で歩く昼間の公園には子どもの姿が多かった。親たちが車座になって笑いあっているのも見えた。

 恵まれた階級の、恵まれた人たち。

 豊かな人たちの日常だった。

 途中で、セイルンが私に問いかけてきた。

「マーガレットさんは、どうして剣術を学ぼうと思ったのですか?」

 こういう質問をする依頼人がいないわけではない。

 女で、まだ若いのに、腰に刀を下げて用心棒などをしている。

 興味を持たない方がおかしいとも言える。

 私は少し呼吸を整えて、言葉を検討した。



(続く)

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