第8話
◆
私はシルバー道場からまっすぐに用心棒事務所に向かわなかった。
汗をかいていたし、新しい着物も欲しかった。
というわけで、大衆浴場へ行って汗を流した。私の体には大小の傷跡があるので、大衆浴場ではぎょっとされる。露骨に恐怖を見せる女性も多い。
別にこれから会う依頼主のために体を綺麗にしているわけではなく、むしろ逆だった。いや、汚い体で行くのも気が進まないというのもあったか。それは譲らないでおこう。
逆というのは、わざと時間をかけ、依頼主を待たせているのだ。
大きな湯船に肩まで浸かりながら、湯気に包まれた状態で考えた。
私を指名して呼び出す依頼主というのは警戒が必要だ。
私を指名する依頼主がいないわけではない。そういう依頼主は、普通、一回か二回の仕事で私を評価し、それで私を指名する、という形になるものだ。まさか名前を見ただけで指名するわけもない。そういう酔狂なものもいるけれど。
例外としては、女性の用心棒を是非、手配したい、という手合いだ。
この場合は用心棒事務所に登録している用心棒の少ない女性の中から選ぶから、私を知らなくても、名簿に並ぶ名前の中から偶然に私を指名する可能性がまったくないわけではない。
だからこそ、こうして私は大衆浴場で時間を使っている。
ここで時間を過ごしている間、依頼人が用心棒事務所の待合で延々と私を待つかどうか、それを私は知りたい。
もし私を狙い撃ちしていないのなら、いつまでもこない私を諦めて、別の用心棒を選ぶ。
逆説的に、私をどうしても指名したいのなら、いつまでもいつまでも、限界が来るまで私を待つだろう。仕事には期限があるだろうから、限界は簡単にやってくるはずだ。あるいは日を改めるかもしれないけど、日を改めてまで私にこだわるのでは、何らかの意図があるのが自明になる。
というわけで、私はただ湯船でリラックスしているわけではなく、相手を焦らし、揺さぶりをかけているのだ。どうせ今頃、用心棒事務所からシルバー道場へ小間使の少年が走っているだろう。しかし私はおらず、アキヅキ師が「出かけた」と答えるのでは、小間使は仕事を果たせない。
急いで帰って、マーガレットはいなかった、と報告しなくてはいけない小間使がちょっと不憫だが、しかしそれも仕事と思ってもらおう。
たっぷり時間をかけて体を温めた後、上がってからじっくりと汗が引くまで休み、身支度をしてから大衆浴場のそばの屋台で、よく冷えた牛乳を買った。まったく、優雅なことである。
そこから古着を商う店へ行き、そこそこに綺麗で、見栄えのいい着物を選んだ。会計の後、店の奥で着替えさせてもらう。
新しい着物で表へ出て、もうちょっと時間をかけるかと考えてもみたけど、さすがにえげつないかとやめておいた。既に昼を過ぎている。別に今から食事をして、その上で用心棒事務所へ行っても不自然ではないが、センジョウジキは嫌な顔をするだろう。
用心棒が一匹狼でも、それをまとめている事務所がある以上、あまり勝手はできない。除名されることはないが、用心棒事務所としては私を一押しの用心棒とはしない可能性もある。
計算の上で、私は用心棒事務所の建物の方へ歩いて行った。
それにしても、建国祭の祝いの装飾で街が溢れかえっている。フォンルン統一王国の建国を祝う祭りで、三日に渡って行われる。その中でも三日目は特別で、国中の商店という商店が全て休みになり、全国民が家族と過ごす日に当たる。この日だけは先に食料品をたっぷり買い込んでおかないと、どこかで食べるなどということはとてもできない。
人出も少し普段より多いだろうか。空気は明らかに明るく、浮かれている。いつかの商人、ルルドのことが思い出された。建国祭に関わる商人は、それこそ落ち着かないだろう。一番の書き入れ時であり、うまくやれば莫大な利が上がる。
利益云々などとは関係なく、単純に祭というものが人を浮つかせている部分も間違いなくある。
賑やかな雑踏を抜け、公都を横断して用心棒事務所にたどり着いた。近くに大きな商店もないため、行き交う人の数はぐっと減った。古びた建物は用心棒事務所が建てたのでもなければ、傭兵組合が建てたのでもない。元は病院だったという建物が空き家になっていたのを借りているらしい。
激しく軋む扉を開けて中に入ると、事務員がこちらを振り返り、咳払いする。その咳払いで、自分の席にいたセンジョウジキが顔を上げた。
怒っている、それもかなり怒っている。
カウンターへと進み出ながら、部屋の隅にある待合を確認。こちらに背中を向けて座っている人がいるが、頭が不規則に揺れていて、眠っているようだ。
無視してカウンターに進むと、すでにセンジョウジキが足を引きずりながらすぐそこまで来ていた。
「マーガレット」
センジョウジキの声は抑制されていたが、逆にそこに凄みがあった。
別にそれで圧倒される私でもないけれど。
「何か?」
「仕事の依頼があると、こちらから使いをやったはずだ。その使いは、お前に確かに伝えたと俺に報告した。間違い無いな?」
「ええ、そんなこともありましたね」
「それからすでに三時間が過ぎている」
そんなに? と目を丸くする私と対照的に、センジョウジキが目を細める。火花が散りそうな眼差しが私を見据える。
「逃げなかったのは褒めてやろう。二度目は無いぞ」
「私を解雇します?」
「使える用心棒でも、我々を無視するようでは雇えんな」
「これだけは言っておきますけど」
私はちょっとカウンターに身を乗り出した。センジョウジキも身を乗り出す。二人がぐっと近づいたが、二人の間では空気が圧縮されたようだった。
「私は逃げたわけじゃありません」
センジョウジキが唸るように、低い声で言う。
「客を試すな。それはお前がやることではなく、俺たちがやることだ」
「それは失礼しました」
私の言葉でこの議論は終わりになった。
こんなことをしていれば解雇されるかもしれないが、言っているほどセンジョウジキも強くは出ないだろう。かといって自由にしすぎるのでは、信頼されない。それは事実。用心棒事務所は組織なのだから、統率を無視することは許されない。
今回は、そこに踏み込もうとする過信、慢心を戒めるためのセンジョウジキの脅し、としておこう。
「それで、依頼人は?」
こちらからそう声をかけると、センジョウジキが頷き、「彼だ」と言ったので私は背後を振り返った。
待合の椅子に座っている男性以外、他に人はいないのだ。
彼に歩み寄ると、足音に気付いたのか、気配に気づいたのか、ガクンと頭を落としてからゆっくりとその顔がこちらに向いた。
なるほど、まだ若い。二十歳程度だろう。身なりは立派ではないが小綺麗。かといって貴族や商人の間で流行っている香の匂いが漂うようでもない。銀は持っていそうだが。
「マーガレット・シルバーです」
私がそう名乗ると、彼はゆっくりと席を立った。上背がある方ではない。肩の線などを見ても華奢だ。
彼はぺこりと頭を下げる。
「どうも、眠ってしまいました」
そう言ってから、彼はフニャっと笑った。実に無害そうな表情だった。
「僕はセイルンと言います」
(続く)
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