第6話

       ◆


 老人は顔がよく見えない。真っ白い髪の毛が長く伸び、頭を毛玉のようにしている。髭も真っ白で胸の方まで垂れていた。

 前髪の間に覗く黒い瞳が私に向いている。

 彼が師匠であり、養父であるアキヅキ・シルバーだった。齢は自称では八十である。そんな高齢でここまで矍鑠としているのは、剣術を極めたことによる奇跡、としたいところだけど、きっとサバを読んでいるんだろう。

「誰の剣だね」

 アキヅキ師がいいながら、私を見上げる。

 茫洋とした瞳が、私が相手にしていた影を思い描いているのをうかがわせる。

「奇妙な暗殺者と遭遇しました」

 そう言葉にするが、アキヅキ師は無反応。

 私が稽古着の袖で汗を拭って、立ち尽くしていると、やおらアキヅキ師が立ち上がった。

 背丈は私とそれほど変わらないが、高齢のせいだろう、肩幅や体の厚みは頼りなく感じられる。しかし左手に下げていた刀を、右手ですらりと抜くあたりには加齢など感じさせない。

「ちょっと見せてみなさい」

 師の言葉に、私は頷いて距離をとると、刀を抜いた。

 私は暗殺者の構えをそのまま写し取ったように構える。

 アキヅキ師は正眼のまま。

 その体が霞む。

 高速の踏み込み。

 シルバー流の歩法の一つ、「滑歩」。

 私は突き込まれるアキヅキ師の刀を受け流した。

 いや、受け流せなかった。

 体を捻るが、左肩を切っ先が掠める。

 師の動きは止まらないし、私も遅滞なく動き出している。

 二人の立ち位置がめまぐるしく変わる中で、私はアキヅキ師の連続攻撃を流し続ける。齢八十の老人の動きではない。こうなると、我が師たる老人が奇跡の体現者である、という妄言を信じたくなる。

 ただ、老人は老人だ。

 パッと間合いを取って私の牽制の刃を回避すると、さらにスルスルと距離をとる。もう手合わせは終わり、という姿勢だ。

 私は大きく息を吐き、改めて刀を鞘に戻すが、呼吸の乱れは激しい。

 左肩だけではなく、体のそこここに鋭い痛みがあった。浅手とも言えないほどの切り傷の痛みだ。視線をやれば稽古着には切れ目がいくつもあり、何箇所かは血が滲んでいた。

 私の前でアキヅキ師は呼吸も乱さず、鞘に刀を戻すと、フゥム、と声に出して頷いている。

「手強そうでもないが、硬い剣だな」

 それが老人の評価だった。私の剣術への評価ではなく、私が再現し、さらにアレンジした剣術への評価だろう。

「硬い剣というのは、論理に依りすぎる、という意味ですか?」

 こちらからそう言語化すると、我が師は天井の方を見上げる素振りの後、そうさな、と呟いた。呟いてから、もう一度、低く唸った。

「論理としては合理的で、理にかなっているのは間違い無いだろう。ただ、まだ試されてはいない、ということかな」

「試す、というのは、実戦を経てない、という意味でしょうか」

 そう確認しながら、一方で私自身の中では確信に近いものがあった。

 剣術は論理で組み立てることができる。しかし剣術というものは実戦の中で磨かれ、発展する。それは元となる論理が不完全だということではなく、現実の戦いで起こる展開は予想がつかず、また無限に存在するため、技の改良や創出が必須だからだ。

 剣術の発展に実戦が介在しないわけがないが、我が師も私も、そのありえないことが起こっていると考えていることになる。

「そんなことがあるでしょうか」

「あるかもなぁ」

 ぼんやりとした口調で言いながら、アキヅキ師が一つ頷くと「食事をしながら話そう。着替えてきなさい」と言うなり、背中を向けて稽古場を出て行ってしまった。

 私はそれを見送ってから、改めて自分の体を見た。今日はまた、酷くやられたものだ。

 こんなことを当たり前にしているのだから、門人が寄りつかないのも当たり前だ。

 自分の部屋へ戻ろうとすると、台所からホタルが足早にやってきた。手に水を入れた桶を持っている。

「お手伝いします」

 頭を小さく下げる彼女に「よろしくね」と声をかけ、部屋に入った。

 稽古着を脱ぐと、ホタルが湿らせた布で体を拭いてくれる。それが済むと、私の部屋に常備されている軟膏が用意され、全身の切り傷にそれが擦り込まれた。痛みが走るけど、軽いものだ。

「アキヅキさんも」

 嘆き半分、怒り半分といったようにホタルが口を開く。

「女の人にこんなに傷をつけるなんて、何を考えているんでしょう」

「剣術のことを考えているんだと思うけど」

 そうでしょうね! と強い口調で言って、ぐっとひときわ力を込めて傷に軟膏を押し込むホタルだった。ちょっと痛い。

 ホタルはシルバー道場のそばにある長屋に住む夫婦の娘で、年齢はまだ十三だ。数年前から朝と晩にシルバー道場へやってきて料理と洗濯などをこなしていく。下女という表現が正しいかどうか、曖昧な働き方だった。

 彼女が私の体に薬を塗るのも、もう何年も前から行われていることだ。

 最初に私の体を見たとき、ホタルはしばし言葉を失い、次に「アキヅキさんは知っているんですか?」と怖い声を出した。私は、知っている、と答えてから、先生を責めることはない、と付け加えた。

 その私にホタルは食ってかかり、最後は涙まじりに「女の人を傷つけるなんて信じられません」と声を震わせたのは忘れられない。

 ホタルにはわからないだろう、とあの時は思ったし、今も彼女は私とアキヅキ師のことを正確には理解していないだろう。どこかで、剣術の稽古の事故、と思おうとしているようでもあり、これは剣術家の養父と養女の歪な形、と解釈しようとしているようでもある。

 私からすれば、アキヅキ師がやっていることは、正しくはないが、間違ってもいない。

 体に刃を受けるのは、私が弱いからであり、未熟だからだ。

「刃を身に受けることを、感謝しなさい」

 アキヅキ師にはそう言われた。

 理解できたのは、だいぶ経ってからだ。

 刃を受けることは、シルバー流からすれば技を知るきっかけなのだ。究極的には、一見しただけで相手の力量を見抜ければ良い。だがそんな達人がそう生まれるわけもない。だから傷を受け、そこから自分を磨いていく。

 磨く、というより、傷によって剣術の角を欠いていき、最後には真球となった最高位の技が生まれる、というイメージかもしれない。

 私の体に傷痕が増えていくのは私が未熟だった証であり、新しい傷は、まだどこにも達していないことを示すものだった。

 私はアキヅキ師の技を知りたい。それはあるいは、剣術学院で学べたこととは違うだろう。だが、しかしまた別の、有意義な道であるはずだ。

 全身の傷の手当がされ、私は新しい着物に着替えた。ホタルは稽古着を回収していく。洗濯をし、切れ目を繕ってくれるのだ。

 私は彼女と一緒に台所へ向かい、アキヅキ師がぼんやり待っているのに合流した。この道場には居間のようなものがない。アキヅキ師が「面倒だから」と台所で食事をするとずっと前に決めてしまった。

 私はアキヅキ師の横に腰かけ、ホタルは器に飯や汁を盛って運んでくる。卓もないので、かなり手狭だ。しかし私もアキヅキ師もそんなことは歯牙にもかけなかった。ただホタルだけがいつも憮然としている。

 そういうところにホタルの生真面目さ、律儀さが見える。

 食事の途中に、不意にアキヅキ師が話し始めた。

 実戦を経ない剣術があるか、という話題だった。私は口を挟まずに、食事をしながら耳を傾けた。

 話が終わってみると、あるかもしれない、という考えはできるようになった。

 なったけれど、それが現実かはわからない。シルバー流の使い手であるアキヅキ師の想像力、洞察力が出した結論で、それが空想、妄想の域にはみ出していないかは、わからないのだ。

「ま、剣というのはわからんね」

 それが老剣術家の結びであり、要は「気をつけろ」ということだ。

 食事はおおよそ終わっており、ホタルはお茶を用意していた。

 実にのどかな光景だ。

 ここだけ見れば、さっきまで真剣で切り結んでいたとは、容易には想像できないだろう。

 しかし全てが現実だった。

 私の体に時折走るかすかな痛みが、全てを証明していた。

 歪みはここにあり、私たちにとって歪みは歪みではないのだ。



(続く)

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