第5話

      ◆


 早朝、自然と目が覚めた。

 鳥が鳴いている。部屋の天井が見えた。雨漏りのせいで無数のシミが消えずに残っている天井板。

 あくび一つでもう眠気は消えた。

 身支度をして狭く暗い廊下を進む。先から人の気配がして、歩を進めると炊事の匂いが漂ってきた。

 廊下の先は台所だけど、半分は土間だ。今、幼いと言っていい少女が慌ただしく炉の前を行き来している。

「おはよう、ホタル」

 声をかけると少女が振り返る。日に焼けた肌をしていて、黒目がちな目には力がある。

「おはようございます、マーガレットさん」

 彼女の発する声は活気に満ちていて、張りがあった。

 頷き返して、土間を突っ切って建物の裏手に出る。井戸で水を汲んで顔を洗い、歯を磨いた。まだ空はまだ濃い青をしている。口をすすいでから台所へ戻り、そのままもう一度、部屋に戻って稽古着に着替えた。愛刀を手に取った。

 廊下を台所とは逆へ進めば、そこは板の間の稽古場になる。飾りっ気が少しもない、がらんとした空間だった。床板は長い時間で自然と磨かれていて、ささやかな光を反射している。

 進み出て、私は帯に刀を差し、素早く抜いた。

 構え、一呼吸で心気を統一し、動き始める。

 シルバー流の型。

 逆巻き。蟷螂。一文字。雷突き。影捻り。

 まったくバラバラの動きが途切れなく連続する。

 烈火。狼牙。飛燕。旋風。

 最後に上段から打ち下ろす型、椿落とし。

 切っ先は床に触れる寸前でピタリと停止して、停止は全身に及んでいる。

 細く息を吐いて、構え直す。

 目を閉じた。

 頭の中で前日の記憶を振り返る。

 暗殺者を思い描く。

 得物は短剣。構えもすぐに像を結んだ。間合いの取り方、視線の配り、気迫、さらに相対的な位置関係、光の差す方向さえも再現される。

 シルバー流という剣術は、極端に実戦的でありながら、同時に極端に検討を要求する流派だった。

 その信条は「見ろ、そして思い描け」と表現されることさえある。

 私は短い時間の観察から、初めて遭遇した暗殺者の全てを思い描くことができた。全部を見たわけではなくとも、想像、洞察から思い描くことはできる。過小評価をしないことも身に染み付いている。

 目の前に暗殺者が立っている錯覚。

 どう攻めてくるか。

 剣を合わせたのは二人にそれぞれ一度だけ。

 一人は私の剣を防いだ。

 一人は私の剣を避けた。

 まずは防いだ方だ。頭の中でもう一度、私が剣を突き込む。そして再現として、思考の中で暗殺者が剣を受ける。私の剣は逸らされ、虚空を貫く。

 もう一度、最初から。

 突き、逸らし。

 もう一度。突き、逸らし。

 もう一度。

 そうやって繰り返しているうちに、崩し方が見えてくる。同じ刺突でも、もっと際どいところを狙っていけば相手は受け流すのに苦労したのではないか。

 その想定で、改めて像を思い描く。仮定の私が突き出した刀を相手が受け流す。

 像が無数に重なり合う。ある像では刺突は相手の肩を掠め、ある像では際どく受け流され、ある像ではもっと大胆に回避し、逆襲に転じてくる。

 それぞれの虚像を把握しようとすると、徐々に私という主体が薄れていくのがわかる。

 私はあるところでは暗殺者を仕留め、あるところでは手こずり、また別のところでは手痛い反撃を受ける。

 今までに何度も繰り返してきたことだ。

 敵を徹底的分析し、自分の技、そして相手の技を検証し続ける。

 しかし、と一歩離れた私は考えていた。

 暗殺者の剣術は見たこともないものだが、その姿勢、構え、重心の移動には本格的な使い手のそれがある。長い研鑽、長い研究、果てしない試行錯誤の気配がするのだ。

 だがそれは暗殺者本人のそれではなく、その向こうに見え隠れする誰かの気配だろう。

 つまり暗殺者には師匠にあたる人物がおり、その人物は、並みの使い手ではない?

 暗殺者組合のことは知っているつもりだけど、暗殺者を教育するものは数が知れている。暗殺者の大半は荒事慣れしている連中で、職業的に暗殺者をやっているとはいえ、それは職人芸とは程遠い。

 一部の暗殺者は暗殺というものを突き詰めて考え、様々な技を編み出している。建物に侵入する技能、気配を消す技能、人を効率よく仕留める技能、そんなところだ。

 昨日の暗殺者はどうだろう、と思うと、技能の気配はあっても、真っ当な技能だ。

 なんだろう。私は幻の私と暗殺者を俯瞰して、激しく躍動する両者の動きを検証した。

 暗殺者の剣は、どこか剣士のそれに近い気がする。

 剣士と呼ばれるものは限られる。兵士か、傭兵か。用心棒ということもあることにはある。

 剣技は癖が強いものが多い。その癖が見られないのも、いかにも不自然だった。

 論理的に組み立てられている?

 想像の中の私が、暗殺者の大抵の動きに対応できるようになってきた。ただ、それで安心などはできない。実際に対峙したわけではなく、実際の技を受けたのではない。想像しうる限りの最大の脅威と想定していても、現実は想像を容易に超越してくる。

 危険を犯せば、定石を外せば、想像など容易に破壊されるのだ。

 それも私は繰り返し体験してきた。

 細く息を吐いた時、私の中から幻は消え、意識が一つに戻る。道場に一人きりで立っており、両手は刀の柄を柔らかく握り、正眼に構えている。

 前を見据える。

 構えを変え、ゆっくりと繰り出す。

 それは想像した暗殺者の技に対して、有効だと思える筋を走った。

 反復し、次の動きへ。それも反復し、また次の動き。

 一通りを終えると、今度は一撃ではなく、いくつもの動きを繋げていく。停滞なく、滑らかにつながるように。

 この間も想像の結果を反映させ、隙を生まないように、集中を継続する。

 うまくいかない動きに修正を重ね、やがて繋ぎの技を見出し、そうでなければ姿勢の変化、間合いの加減も交えて振りを繋げていくことができるようになった。

 数えられないほど暗殺者の剣を思い描き、自分の技にどう対応されるかをまた想像した。

 目を瞑らず、刀を動かし続ける。

 剣技は常に変化する。固定された剣術など存在しないし、戦いは不規則以外の何物でもない。

 私がしているのは、不規則を想像することだった。

 不規則さえも制圧する。それができれば勝利は堅い。

 どれくらい体を動かしたか、道場は明るくなっていた。

「飽きんのかね」

 のんびりとした背後からの声に、私は刀の構えを解き、鞘に戻す。呼吸が不意に乱れ、全身に汗が噴き出した。

 ゆっくり振り返ると、床に正座して老人がそこにいる。



(続く)

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