第二話

荒野に立つ紳士 ROUND1


 第1ラウンドは、残り1分を切っていた。

 リングという名の四角い荒野は、既に数多の汗で濡れていた。

 それもそのはずだ、牙を剥いた野良犬が如く激しく拳を突き立てる男の姿がそこにあった。

 リング荒らし ───雄吾だ。

 鋭くキレのある拳が、この荒野の頂に立つリングチャンプに襲い掛かる。

 小気味よく右へ左へとポジションを変えながらジャブをとめどなく打ち、時折強いパンチでリングチャンプにプレッシャーをかける。

 紙一重まで迫れば、弾けた空気でリングチャンプの頬に波が立った。

 悠々と受けてみせたガードも、よく見れば赤みを帯び、じんわりと焼けているように見える。

 リングを駆ける拳は、隙さえあれば一気に沈めんと言わんばかりに殺気を放っていた。

 リングチャンプは、動じない。

 獰猛な野良犬を前にしても、決して自分のペースを乱してはいなかった。

 七三に分けて整えた髪には乱れがなく、体に染み付いた汗もまだ薄い。

 よく見れば、ボディ、顔面ともにあざというあざは見当たらない。

 雄吾の拳を幾多も喰らい赤く滲むガードも、一向に崩される気配はなかった。

 この2分過ぎの間の攻防でまだクリーンヒットをもらっていないのだ、この男は。

 体格、体重は雄吾とさして差はないように思える。せいぜいリーチが少し雄吾より長い程度か。

 顔つきからして、三十路は超えているだろう。

 三十路を超えるとボクサーとしては下り坂と言って過言はないが、男の四肢は決して衰えを感じさせない張りがあった。

 リングチャンプらしい貫禄も備えている。

 悠々とリズムを刻む体は、余裕を常に残しているようだった。

 真っ白なグローブを着けた拳をオーソドックスに構え、挑発のような雄吾の大振りにも誘われない。

 振り切った体は明らかに隙だらけだが、大振りが鼻先に当たる紙一重までに体を置くだけで、迂闊な攻めには転じなかった。

 見え透いた罠にわざわざ踏み込むなど、愚かな真似をするそぶりすら見せない。

 相手の喉笛を狙う雄吾のギラついた視線に反して、波も立たない水面のような眼差しを浮かべていた。


 癪に触る……ッ!


 リング荒らしが、さらに深く踏み込む。

 弾く様なジャブで上へと注意を引くや、脇腹に右フックをかけた。

 拳はまたガードで防がれるが、それでいい。

 リングチャンプの視線が、僅かに腹に向けられる。

 顔面のガードが、やや緩くなった。

 隙だ。

 胴体を回しすかさずに突き刺したは、左ストレート。

 息つく暇も与えない疾さだった。

 顔を打った感触は、無かった。

 どころか、次の瞬間鼻を打たれたのは、雄吾の方だ。

 鼻腔に生暖かくドロリとしたものが流れる。

 間も置かず雄吾の頬を叩いたリングチャンプの顔は、薄く笑みを浮かべていた。

 ストレートを完全に読み切って首を軽く逸らしパンチを空へと流して、同時にカウンターを小突いてみせたのだ。

 どころか、最初の視線からしてもう罠だったか。

 雄吾が誘うのを見越して、嵌めてみせたのかもしれない。

 続いて三打目、と行きたいところだったろうが、すかさずバックステップで雄吾は拳が届かない距離に体を置いていた。

 リングチャンプは悔しがりもしなければ、深追いもしなかった。

 チャンスを失ったとは考えていないようだった。

 体でリズムをとりながら、リーチの一歩外から雄吾と向かい合う。

 雄吾は舌打ちの一つでも打ちたくなった。

 攻め入ってきたのなら、逆に踏み込み返して逆襲とでも行こうかと頭の中で算段をつけていたが、このリングチャンプは至って冷静だ。

 試合で高まっていくリングの熱気に頭が浮かされたりなどしちゃいない。

 涼しげな眼差しは、四肢の動きから表情筋のちょっとした仕草まで見極めようとばかりに、目前の雄吾が姿をじっと覗いていた。

 雄吾は、あまり我慢のきく男ではない。

 このような睨み合いは、特に弱い。

 攻めていないと、落ち着かない獰猛な性分なのだ。

 意を決し、前足の左を踏み込み、拳を打つ。


 ──その前に、ゴング。


 左がリングチャンプに当たる寸前で、止まっていた。

 リングチャンプは、眉一つ動かさない。

「……もう少し、落ち着いた方がいいんじゃないか、雄吾くん」

 見透かしたような声音だった。

 構えを解き、雄吾の左を退けてコーナーへと体を向ける。

「さあ、勝負は長い。早く君もコーナーへ戻って休みたまえ。体の調子を整えなければ、このロナルド・ジャーマンには勝てないよ?」

 フッ、と笑みを雄吾に零すと、相変わらず悠々とした足取りでコーナーへと帰っていった。

 いやに気障ったらしい仕草が、鼻につく。

 こういう男からこそ雄吾は勝ちを奪い獲りたくて仕方がなかった。

 思えば、このリングチャンプ──ロナルド・ジャーマンに初めて相見えた時からだった、この感情が渦巻いていたのは。

 雄吾が、ロナルドと初めて会ったのは、ちょうどこのリングのリングチャンプに標的を定め、リングを訪れた時のことだった。

 噂のリング荒らしの突然の来訪に、リングの受付の時点で事態は騒然としていた。

 リングオーナーは頭を抱え、若いボクサーなどは俺の前に上げて叩き潰してやると、早速の喧嘩腰。

 雄吾と言えば、そんなオーナーにも若いボクサーにも興味なんて無い。

 とっととリングチャンプとやらせろとの一点張りだった。

 当然、こんなことで試合ができると簡単には思っていなかったが、自分から動かなければ試合もやってこない。

 何せ、何もしなかったら半年近く試合もできなかったのだ。退屈に時間を浪費するのはもう御免だった。

 事態は遂に一触即発、雄吾と若いボクサーたちが目線をぶつけ合って散った火花で、今にも爆発しかねない有様だった。


「上げればいいじゃないか、リングに」


 その一言だけで、周りの雰囲気は水を打ったように静かになった。

 荒くれ者のボクサーたちですら、押し黙ってしまっていた。

 全ての目線が、ただ一点へと向けられる。

 紳士然とした男が、そこにいた。

 その男こそ、このリングの頂きに立つボクサー、ロナルド・ジャーマンその人だった。

「オーナーも何を怖気付くことがあるのかね。このリングのボクサーは十分に強い。リングチャンプである私はなおさらにね。それともなんだね……そこのリング荒らしに遅れを取るほど私が弱いとでも思っているのかい?」

 しわ一つないシルクのスーツを着込んだ姿は、汗臭さと異様な闘争心でひしめき合っているリングには到底似合うものではない。

 なのに、ロナルドという男はそれをあまりにサマにしてしまっていた。

 ───このリングは私のリングだ、ここでの勝手は許さない

 見渡した眼光が、言葉にするまでもなくそう語っていた。

 自信に満ち溢れていた瞳だった。

 腑が、グツっとした。

「そうかい。テメエは俺に勝つッて言うのかい」

「当たり前だよ、リング荒らし──いや、雄吾くん。でなければ、リングチャンプなどできないだろう?」

 殺気を迸らせた眼でガンをつけられても、ロナルドはどこ吹く風だった。

 むしろ、彼の口は子供を言い聞かせるような口ぶりで、雄吾に語る。

「挑戦するのはいい。このリングは誰にだって開かれている。しかし、いきなりリングチャンプに挑むのは平等ではないな」

「平等じゃあねえだ?」

「ああ、そうだ。平等ではない。少なくとも、三戦だ。ここの実力者に三戦勝利して、初めてリングチャンプに挑戦する権利ができるというものだ」

「……まどろっこしいな」

「三戦勝利する自信が、君には無いのかい?」

 ──ガンッ

 受付の台は、叩かれた雄吾の拳でヒビがピシリとはしっていた。

 怒れる野獣が如く、雄吾の牙が剥き出しだった。

 受付嬢も、ましてや経験の浅いボクサーなども、男の発する殺気に腰がひけている様であった。

「やってやろうじゃあねえかよ。三戦勝ちを獲って、俺はテメエの前に立ってやる。そんでなぁ……テメエからも、勝ちを奪い獲ってやるよ……ッ!」

 こうなると、雄吾はもう止まりようがなかった。

 自信がない、臆病者、そうやって勝手に言われることほど、この男の堪忍袋をつつかないものはない。

 何より、自分が一番強いと思っているような人種からそう言われるのが、一番気に入らなかった。

「テメエが言ったんだ、逃げるんじゃあねえぞ……首ィ洗って待ってるんだな……!」

「もちろん。私は自分の言葉には決して嘘はつかない」

 ロナルドは、獰猛な殺気に当てられても、紳士然とした態度を崩さなかった。

 殺気に殺気を返す様なこともしなければ、冷たくあしらう様な真似もしない。

 真っ直ぐに雄吾の殺気を見据え、並のボクサーとは一線を画す堂々とした眼差しを返すだけだった。


 あんの顔付きが、気に入らねえ……!


 インターバル、雄吾の真向かいで椅子に座り、セコンド陣からマッサージやアドバイスをもらっているロナルドの顔つきは、その時と同じだった。

 涼しげながらも、依然自信に満ち溢れた眼差しで、堂々と次のラウンドを待っている。

 ロナルドの言った三戦、雄吾はその全てを1ラウンドKOで終わらせてみせた。

 1分にも満たない時間で終わらせた試合もある。

 苛烈なラッシュや、十八番のレバーブローなどを見せつけて、ロナルドをビビらせたかったのだ。

 なのに、ロナルドの自信には綻び一つ与えることも出来なかった。

 今そこにある顔が答えだ。

 恐れてくれたっていいはずの戦いを見せつけてやったのに、どうして奴は平然としていられるんだ

 俺が足元にも及ばねえとでも言いてえのかよ、畜生がッ

 グツっとした腑は、ついぞ収まることもなく今の今まで煮えたぎっていた。

 胃液も腸液も沸騰しそうなくらい、もういっそ腹を内側から焼きかねないくらいでもあった。

 1分間のインターバルが、もうすぐ終わる。

 セコンドアウト。

 元よりセコンドをつけていない雄吾側はともかく、ロナルドのセコンド陣はリングからきびきびと降りていく。

 彼らもロナルドの実力に疑いがないのか、1ラウンド目はなんの指示も見せることなくじっと見守っていた。

 2ラウンド目もその姿勢は変わらないらしく、見守ることに徹するらしい。

 ロナルドは、依然堂々とした様子でリングに再び立つや、ファイティングポーズを取って雄吾を見据える。

 観客側からは、けたたましくロナルドコールが響き渡っていた。

 ──とっととその野良犬を倒してくれよ、ロナルドさん!

 ──リング荒らしなんか目じゃないですよ、引導を渡してくださいッ!

 リングチャンプらしく、彼もまたこのリングのヒーローであるらしい。

 事実、彼がリングチャンプになって十年近く、王座を明け渡したことは未だ一度も無い。

 彼らの中では、ロナルドは絶対的な王者なのである。

 敗北なんて、頭の中には全く無い。

 1ラウンド目も主導権を握っていたのは、ロナルドの方だった。

 会場にいる誰もが、ロナルドの勝利を確信していた。

 期待されないのは、いつものことだった。

 むしろ、勝利を望まれないことの方が雄吾にとっては当たり前である。

 リングを散々に踏み荒らし、街の誇りを汚していく雄吾の勝利が望まれるはずもない。

 期待なんか、ハナっから雄吾にとって縁の無い代物なのだ。

 けれど、簡単に負けてくれると思われているのなら、話は別だ。

 リングにも立たねえ奴らに見くびられるのは、我慢ならなかった。

 腑で煮えたぎっていた熱が、遂に脳髄まで侵し始める。

 乱暴に立ち上がった雄吾は、獣畜生同然の荒々しさを纏っていた。

 首輪の無い野良犬に似つかわしい姿であった。

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