荒野に立つ紳士 ROUND2
第2ラウンドを告げる鐘が、鳴った。
雄吾が飛び出す。
セオリーを無視した右フックがロナルドに奔る。
意表をついて流れを一気に持っていこうとしたのだろうが、ロナルドはその拳を肘で落とすや、返しの右を雄吾の顔面に突いた。
鋭い突きだった。
首を逸らしてロナルドのパンチを躱したが、グローブを掠めた頬にカミソリで切ったような切り傷で薄く血が滲んでいた。
構わず、空いた右脇腹を狙って左フック。
空振った。
ストレートを打ちながらも半身残していたロナルドは、バックステップで易々とフックの軌跡から体を外したのだ。
奴の眼差しと、かち合った。
己を見透いているような涼しさだった。
──歯軋り。
「舐めんじゃあ、ねえ……!」
雄吾は、さらに踏み込んだ。
ロナルドの左サイドから猛烈なジャブを起点に、フック、ストレートと得意の近距離ラッシュを畳み掛ける腹積りだった。
獰猛な獣が獲物に喰らいつくような激しさが迸っていた。
「舐めてなどいないよ、私は」
ロナルドの、冷たい声がやたら鼓膜に響いた。
などと気を取られているうちに、頬に衝撃。
起点にしたジャブに、カウンターを合わせられていた。
まるで初めから、雄吾がそう来るとわかっていたかのような左フックだった。
出鼻を挫かれては、得意のラッシュも歯車が狂う。
カウンターを喰らいながらも雄吾の瞳はロナルドという獲物を決して外しはしなかったが、続けて打った拳は苦し紛れも酷かった。
当然、ロナルドにはいなされる。
どの拳も身のこなしだけで空を切らされ、気がついた時にはもうロナルドは雄吾の射程圏外にポジショニングをしていた。
雄吾は、諦めの悪い男だ。
それでいて今は頭に血が上っている、ロナルドをリングに沈めることしか頭になかった。
我を忘れた野良犬は、再び牙をリングチャンプへと突き立てる。
前進で距離を詰めながら、ジャブにジャブ、ストレート。
ステップを細かく刻み、アグレッシブにガードの隙間を探して打つ、打つ、打つ。
怒りが過ぎた拳だった。
怒りに任せたパンチは、見切るのが容易なほど粗かった。
ロナルドは上下左右の振りだけで、噛み付いてくる野良犬の牙に皮膚一枚触れさせない。
コーナー間際に追い立てられても、突進する雄吾のプレッシャーを軽いフットワークで躱し抜き、雄吾のサイドからリング中央へと立ち戻る。
転じて、牽制と様子見のジャブ、時折雄吾の拳にカウンターを被せヒットを加えていく。
懲りずに雄吾は突進を繰り返すが、ジャブに制されてロナルドのペースを覆すことは叶わない。
ならばと、無理矢理に雄吾がインファイトに持ち込もうとした場面もあったが、ロナルドは必ずそれを潰しにかかった。
踏み込まんとする前足の行手を封じるように自身の前足を差し入れると、同時に思い切りの良い左ストレートで雄吾の出鼻を挫きに挫く。
かといって、やはり1ラウンド目と同じように深くも攻め込まない。
ロナルドは、雄吾の得意とする近距離には決して持ち込ませないし、持ち込もうともしなかった。
リングを広く使ったステップで雄吾の前進を翻弄し、一定の距離を保ちながらじわじわと、だが確実に雄吾の体にダメージを重ねていく。
ペースを自身が握っていたとしても、調子に乗らない男だった。
気づけば、雄吾の顔には青痣が目立ち始め、履いているズボンは水を被ったように汗で濡れ始めていた。
2ラウンドももう残り時間が少なくなっている。
燻ったままじゃあ終われなかった。
焦れってえ真似を……ッ!
幾度目にもなる踏み込みを雄吾がかける。
同時に、左が動く。
その一手前に、ロナルドのカウンター。
被せるように撃った左ストレートが、雄吾の頭部目掛けて駆け抜けた。
手応えが、無い。
どころか、雄吾の左すら出ていなかった。
──フェイント。
伸び切ったストレートの真下、雄吾は屈んでこれを躱していた。
何度も同じ手を喰らっていては、リング荒らしなんてできやしない。
むしろ、今まで喰らっていたのを男は布石にしてしまっていた。
何度も繰り返していれば、思い込みが生まれる。
身体がどうしても覚えてしまう。
それこそが、チャンスだ。
雄吾の体がロナルドの懐に入った。
見ろよ、眼前にはガラ空きになった脇腹だ。
雄吾がこじ開けた、チャンスがそこにあった。
エンジンが唸る。
レバーブローが、火を噴いた。
しかし、脳髄が弾けたのは、雄吾の方だった。
衝撃。
反転。
暗転。
────雄吾が気づいた時には、既にレフェリーのカウントは6を数えていた。
リングに膝を着いていた。
側頭部が、焼けるように痛む。
体に力が入りきらない。
視界は歪んでいた。
ニュートラルコーナーで佇んでいるであろうロナルドの姿すら、雄吾にははっきりとしていなかった。
意識も、まだどこか混濁としている。
なのに、レフェリーのカウントだけははっきりと脳髄にこだましていた。
十へとゆっくり、近づいていく。
十を数えられたら、負けるッ
本能だった。
ダメージを刻まれた身体が立ち上がって、ファイティングポーズを取った。
脚は体を支えるのがやっとらしい、今にも膝が沈みそうで頼りない。
構えてみせた腕もそうだ。
ガードは形だけにしかなっちゃいない、パンチ一つ受け止め切れる力強さもそこには無かった。
瞳の焦点も、定まり切っていない。
相当深いダメージだった。
レフェリーの再開の合図と同時に、ゴングが鳴ったことだけが救いだった。
1分間のインターバルが挟まれる。
雄吾は、立っているのもやっとの足取りでコーナに戻っていく。
ボロボロだった。
息を荒げながらだらしなくコーナーに寄りかかる姿は、観客が笑い飛ばすのに十分な無様さだった。
……ホントに無様だな、今日の俺は
雄吾は、自嘲する。
2ラウンド目も、完全にリングチャンプに支配され切っていた。
インファイトへと繋げる踏み込みは、全てあのリングチャンプに封殺されていた。
拳が肉を打った手応えもまだ無い。
こじ開けたと思ったあのチャンスも、奴が仕掛けた罠だったのか。
喰らったのは撃ち下ろしの右フック、
自慢のレバーブローにすら奴は初めから分かっていたとばかりに、絶妙なタイミングでカウンターを被せてきやがった。
強烈だった。
テンプルを穿たれ、脳を効かされた。
ダウンを取られたことに気づくのに数秒かかるほどの威力だった。
このまま座ってでもしてみろ、もう脚は立つことすらできないかもしれなかった。
ジャブを喰らい続けたことも相まって、このインターバルでダメージが回復する見込みは薄かった。
次のラウンドをまともに戦えるかも怪しかった。
戦えたとしても、程なくリングに沈められるかもしれない。
セコンドがいれば、タオルを投げただろうか。
しかし、雄吾にセコンドなどはいない。
独りだ。
傷の手当ても、アドバイスをくれる者もいない。
代わりに、勝負を投げるも続けるも、全て雄吾の手に委ねられていた。
セコンドアウトのブザーが鳴った。
ロナルドのコーナーではセコンドがリングを降りて、ロナルドが準備万端とばかりに構えをとった。
自信満々、堂々とした姿は3ラウンドになっても変わらない。
むしろ、この試合を完全に支配し切っているのだ、堂々さは試合開始以上だろう。
それでいて、雄吾に向けたリングチャンプの眼差しは冷めた風も、ましてや呆れた色もない。
狩人のそれであった。
奴にとって雄吾は、未だ狩るに値するボクサーであるということか。
────畜生……ッ
数多の傷を背負ってなお、雄吾は身体を奮い立たせる。
脳はまだ揺れていた。
足取りもおぼつかない。
拳に全力が乗るかも分からない。
無茶無謀極まりない状態だった。
だとしても、雄吾は勝負を捨てるほど利口な男ではなかった。
負けを認めるなんぞ、雄吾には出来やしない。
どんな屈辱を受けるよりも、自分で負けを決める方が何よりの屈辱だ。
自ら負けを選ぶくらいなら、死んだ方がずっとマシだった。
今日負けても明日がある、などと語る口も男は持たない。
今、勝ちを獲らなきゃしょうがない。
それによ、こんままやられるってのは負ける以上に無様なんだよ……ッ!
第3ラウンドが幕を開ける。
ロナルドが出るが、やはり中距離以上には攻め込まない。
一定の距離を保ちつつ、ジャブで様子を探る。
雄吾に勢いは失われていた。
パンチ一つ打ってこない。
完全に足がキャンバスに着いており、ステップもフットワークもあったものではなかった。
近距離に一気に踏み込んでくる素振りも見受けられない。
かろうじてできていることといえば、ジャブに反応してガードで受け止めるくらいだ。
死に体だ。
テンプルをあれだけ強烈に打ってやったのだ、そうでなければ目の前のこの男は化け物以外の何者でもない。
負けを認めろと、観客たちが騒ぎ立てている。
レフェリーも、これは止めた方がいいかと様子を伺っているようだった。
なのに、ロナルドだけがジッと雄吾を見据えて、構えを解かない。
相変わらず涼しげではあるが、男は狩人の眼差しをやめなかった。
一直線に見据えた雄吾の瞳は、未だギラギラとした光を失ってはいなかった。
ロナルドの眼差しが、俄に鋭くなる。
拳が奔った。
ワン、ツー
ジャブにストレートがガードごと雄吾を弾く。
疾さが、増していた。
猛攻だ、ダッキングする余裕も挟ませなかった。
よろめきながらも雄吾は体勢を立て直そうとするが、ロナルドの追撃は止まらない。
ストレートで捻った身体を返し様に、低空軌道の左フックが雄吾のボディを叩く。
防がれていた。
アルマジロのように固めたガードで、拳を阻んだのだ。
しかし、続けてアッパーが差し込まれる。
ガードが脇腹に寄ったことで、正面がわずかに開いたのをロナルドは見逃していなかった。
ブレのない正確な軌道が、雄吾の鼻先が弾いた。
顔面が上がった。
刹那、閃光じみた一閃。
腰だけじゃない、肩をも回して威力を上げた左ストレート。
リングに赤い飛沫が散る。
ロナルドの白いグローブには血が滲んでいた。
グロッキー相手にも、このリングチャンプは容赦がなかった。
確実に仕留めんと、先のラウンド以上に男のストレートは力強かった。
一歩、二歩──顔面にストレートを貰った雄吾の体がもつれ、下がる。
膝は、着かなかった。
肩で息をしながらも仰け反っていた身体が戻る。
歯を食いしばり揺らぐ軸を正すと、拳を構え直してロナルドに再び対峙した。
ぼたぼたと、赤い雫がリングに落ちる。
口周りは鼻腔から溢れた血に塗れていたが、瞳はロナルドを捉えて離さない。
雄吾の瞳は、まだ死んじゃいない。
ずっと奥に、煌々と揺蕩う焔が灯っていた。
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