荒野をゆく男 FINAL ROUND

 ────地が、鳴った

 リングチャンプが、猛々しく吠える。

 力強い踏み込みだった。

 野良犬をその圧倒的図体で押し潰さんとばかりに、強烈な圧力で雄吾に迫った。

 殺気を纏ったリングチャンプから溢れるプレッシャーはレフェリーも近づけさせない。

 鉛の一言じゃあ軽すぎる。

 常人ならば一歩踏み込まれただけで立つこともままならない代物だった。

 反撃だって与えない。

 左拳が、颶風を巻いて雄吾を狙う。

 頭を振って、躱す。

 カウンターを──狙えなかった。

 正面からプレッシャー。

 頭を置いた位置に飛んできたは再びのトルネードだった。

 そこにくると先を読んでいたと思わずにはいられない振りの疾さだった。

 体を捻り肩でガードを試みるがパワーが違う。

 右ストレートに肩ごと体が弾かれる。

 衝撃は、上体をも仰け反らせる。

 辛うじて脚でリングを掴んではいたが、窮地。

 瞳に映るは、次のトルネードを装填したG・コングの猛々しさよ。

 腹を括るしかなかった。

 トルネードがリングで荒ぶる。

 前進

 突進

 猛突進

 空気を割らんばかりの連打が、次から次へと雄吾に放たれる。

 凄まじい威力だった。

 ガッチリと固めた腕に轟音が響く。

 一打一打のどれもが、骨の芯まで劈いていた。

 次々と爆ぜるインパクトに、肉が焼き切れそうだった。

 お世辞にも速いとは言い難いが、有り余るパワーの連続が雄吾をガードで釘付けにし、他の動きを許さない。

 分厚い肉の乱打が、雄吾の体を無理矢理にロープ際まで押し込んでいく。

 会場はG・コングの勝利を確信してか、湧きに湧き上がる大喝采。

 ″G!″

 ″G!″

 ″コング!″

 ″GO!″

 ″G・コング!″

 我らがヒーロの勝利の瞬間を、今か今かと手に汗を握って瞬きもしちゃいなかった。

 側から見た雄吾の姿は、どう考えたってジリ貧だった。

 逃げ場も無ければ退路も失われようとしている。

 ロープに追い詰められたら、リーチ差にダッキングもスウェーバックも意味を失う。

 四方を塞がれては、とめどない嵐の餌食になるしかない。

 そうだ、これで終わりのはずだった。

 

 なのに、なんでだッ!

 なんでコイツは、負け犬らしい顔をまだ見せやがんねえんだッ!


 見ろよ、追い詰められているはずのリング荒らしの眼差しを。

 野獣のように鋭い眼光を、絶やしちゃいないじゃあないか。

 むしろ、その鋭さはロープ際に追い詰められれば追い詰られるほど磨きが掛かっているようで、不気味だった。

 諦めなんて、とてもじゃないが見えやしない。

 一点もブレない眼差しが、ずっとG・コングを射抜いていた。

 G・コングは、見たことが無かった。

 リングチャンプになって──いや、ボクサーになる前、スラムで暴れ回っていた頃にだってこんな男を見たことが無かった。

 人並外れた図体と自慢のパワーを見せつけてしまえば、誰もが怖気付き尻尾を巻いて逃げていった。

 リングに上がっても同じだった。数えるのも億劫になる程のボクサーにチャレンジャーを相手にしたが、自身の持てる技術が悉く通じないとわかると瞳に絶望の色が宿り、大半が数秒もこらえることが出来ずリングに沈んでいきやがった。

 リングチャンプになってこの方負け知らず、自分に敵わない相手なんてもうどこにもいないのだろうとすら思っていた。

 ……こいつはどうだ。

 差をこんなにも見せつけてやっている。

 油断して食らった一発以外はなんてこともない。

 奴は、G・コングを前にしてなす術は何一つ無い。

 敗北の二文字も突きつけてやっている。

 にも関わらず、1ラウンド時と比べても、奴が放つ闘気は一段も二段も熱を帯びていやがった。

 今この時も、この瞬間も、G・コングの喉笛を喰らおうと牙を研ぎ澄ましているみたいじゃあないか。

 

 ……だから、なんだってんだ

 俺様は、G・コングだッッ!

 このリングで一番強え男なんだッ

 そのリングチャンプが……リング荒らしの野良犬一匹にビビっていられるかってんだッ

 俺は、勝つッッ!

 リングチャンプは、誰にだって勝つんだよッッッ!

 

 譲れないプライドを叫んだ一発に、雄吾の体が大きく弾かれる。

 リングロープが体に叩かれ、大きくたわむ。

 はねつけられた雄吾はバランスを失って、あまりにも無防備だった。


 ──掴んでやるッ!


 その拳に勝利を掴まんと、リングチャンプは自慢の右腕を大きく振りかぶった。

 振りかぶるだけじゃあまだ足りない。

 腰をもひねり上げ、身体中のバネをぎちぎちと引き絞る。

 望みならば、応えてやる。

『全力で勝ちを取りに来い』──癪だが、そうしなければ勝ちを譲らないというのなら、言葉通り全力だ。

 己にあるありったけで、この野良犬を叩き潰す。

 憎らしいほどに生意気なツラを今ここで歪ませる。


 俺の勝ちだ……受け取りやがれッ、貴様が馬鹿にした俺様のありったけをよ──ッ!


 解放。

 豪速球の拳が、リングで轟く。

 トルネードストーム──暴れ狂う嵐が如きドライブの効いたオーバーハンドストレート。

 リングが唸るほど重く、当たれば無事じゃあ済まないだろう、破壊力凄まじい一撃。

 それが、雄吾の頭蓋を目掛け、息の根を止めんとばかりに咆える。

 今まで打ったパンチの中で最高峰の一打、その筈だった。


 ────空振り。


 G・コングの拳には、肉を叩く感触も、骨を砕く手応えも無かった。

 なんだったら、確かにそこにあったはずだった雄吾の頭すら瞳に映っちゃいない。

 下だ。

 ずっと下から、G・コングを射抜く殺気。

 体を大きく沈め、構えた拳を忍ばせた雄吾が、そこにはいた。

 鋭さを増した眼光が、一直線にG・コングを見据える。

 拳はG・コングの下顎を一直線に狙っていた。

 背に、冷や汗。

 体は前に傾きすぎてしまっている。

 顎をガードするべき左腕も、先の一撃で思い切り引いてしまった。固める前に、奴の拳が届くのは明白だった。

 雄吾が、息吹く。

 膝が跳ね上がった。

 左拳が勢いに乗って突き上がる。

 顎先寸前にグローブが迫る。

 屈辱が、蘇る。

 奴の拳に訳もわからずダウンを喫した、屈辱の記憶。

 あの屈辱だけは、許しちゃいけない。


 絶対に、許しちゃあならねえ……ッ!!


 G・コングの上背が、突如反った。

 スウェーバック。

 完全に反り切ることはできなくとも、せめてグローブひとつ分。

 この拳を躱せればいい。

 次で確実に決めるために、コイツを凌げ。

 手本は散々目の前で見せてもらったのだ、あとはポテンシャルで補えばG・コングにだって出来ないわけがない。 


 奴にできることが、このリングチャンプの俺様にだってできないはずが……ねェンだッッ!


 雄吾のグローブが、空を切る。

 拳と顎の距離は紙一重だった。

 余りある自信と自負が相手の技術をもものにしたか。


 ……やったッ

 勝った……今度こそ、俺様は勝ったッ!


 G・コングの胸に、歓喜。

 反った上背を弾くように戻しながら、反動を拳に乗せる。

 トルネードストーム、再び。

 勝利の匂いを嗅ぎ取ったとならば、迷わずすぐさま打って出る。

 勝ちに対する貪欲さはやはりリングチャンプ、べらぼうだった。

 舌は、巻かない。

 巻いてやられるほど、貪欲さは雄吾だって伊達じゃない。


 ──わかっちゃいたぜ……

 でもな、俺の方がな……

 勝ちに関しちゃ俺の方がな、ずっとずっと貪欲なんだよッ!

 

 そうだ、男の拳はとっくの昔に構えられていた。

 アッパーで迫り出した左半身に隠れていた、右拳。


 ギアを上げろ

 エンジンを唸らせろ

 嵐が吹き荒ぶよりも、速く

 奴が勝ちを掴み取るよりも、疾く


 牙を、奴の喉笛に突き立てろ──ッ!


 G・コングの顎が、鼻先ごと爆ぜる。

 リングチャンプが撃ち抜かれていた。

 振り上げた拳は放つことすら叶わなかった。

 弾丸じみたストレートは、嵐すら置き去りだった。

 巨躯が揺らぐ。

 レフェリーが固まる。

 観客がどよめく。

 雄吾の四肢だけが、リングで躍動していた。


 狙い澄ましていたのだ、雄吾は。

 アッパーを布石にして確実にG・コングを前に迫り出させ、顎を打つ。

 奴が拳を振り上げたところで、スピードだけは雄吾に敵わない。

 何より、トドメに転じれば奴のことだ、どうしたって顎がガラ空きになるのは予想がついた。

 チャンスは嗅ぎ取るだけではない、自らこじ開けるものでもあるのだ。

 勝ちを獲らんとする男ならば、尚更に。


 ねばっこい血の滴が、G・コングの口から糸を引いて滴り落ちる。

 あんなに見せつけていたゴールドコーティングのマウスピースも、黒々とした赤に染まり上がってしまっていた。

 自身の反動も利用された挙句急所を撃ち抜かれたカウンターは、誰がどう見ても致命的なダメージだった。

 腰が沈む。

 膝が折れる。

 それでも、キャンバスにはつかなかった。

 振り上げた拳も、下ろしちゃいない。

 トルネードストームは、健在だった。

 最後の抵抗に、歯を食いしばる。

 リングチャンプは、己がリングでは常に勝利を掴み取るものなのだ。


 そうさ、この一発さえ当てれば────


 その思考が今度は弾き飛ばされる。

 雄吾の拳が、G・コングの頬を打ったのだ。

 ──いや、それだけでは、ない。

 二発。

 三発。

 いや、それ以上。

 止まらない。

 雄吾の拳が、止まらない。

 火を吹いたガトリングガンの如きラッシュが、リングチャンプを逃さない。

 顎を叩く。

 頬を弾く。

 鼻を潰す。

 眉間を突く。

 こめかみを抉る。

 打つ。

 伐つ。

 射つ。

 撲つ。

 撃つ。

 いつ終わるとも知れない拳が、リングチャンプの顔を容赦なく撃ち立てる。

 威勢と自信に溢れていた顔がみるみるうちにひどく腫れ上がり、血に塗れていく。

 ヒーローの無惨な姿に顔を覆う観客も現れ始めるのをよそに、雄吾はさらに拳を突き立てる。

 苛烈だった。

 喉笛に食らいつくだけでは飽き足らない。

 この野良犬は噛みちぎろうともしていやがった。

 当然だ。

 勝っただなんて、雄吾は微塵も思っちゃいられなかった。

 奴は、まだ負けてなんかいないのだ。

 幾多の拳を浴びせられながらも、このリングに沈んでなんかいないのだ。

 リングチャンプの意地にかけて、積み重なっていくダメージを二つの足に背負い込んで倒れまいと立っているのだ。

 どうして拳を止められる。

 どうして勝っただなんて思っていられる。

 勝ちなんか、まだ掴んじゃいない。

 奴が立っている限り、勝ちはこの手に無い。

 だから、雄吾は拳を打ち続ける。

 この男が沈むその時まで、雄吾は拳を振るい続ける。

 ブーイングが飛んだって構わない。

 誰がどんな文句を言おうと、雄吾はどうでもよかった。

 リングの外でヤジだけ飛ばす奴らの言葉に、価値なんて何一つ無い。

 価値があるのは今この戦いの先にある結果──勝利のみだ。

 ──そいつを獲るには、こんなもんじゃあまだ足りねえッ!

 苛烈さに、また一段ギアが上がる。

 強烈な右アッパーがG・コングの顎をまたしても弾いた。


 ────その時だった、G・コングの右腕が振り上がったのは。


 瞳は虚、もう意識があるのかどうかも解らない。

 なのに、大きく口を開けるや雄叫びがリングを揺らす。

 叩きつけるような拳が、雄吾が顔面目がけて奔る。

 ありったけの渾身が、雄吾に迫る。

 リングチャンプに残った、最後の意地だった。

 

 だから、なんだってんだ

 俺は、勝つ

 その意地ごと叩き潰して、俺は貴様に勝つッ!

 勝ちを獲るのは、俺だッッ!


 次の瞬間、リングチャンプの拳は雄吾の頬を掠めるだけで、あらぬ方へと流されていた。

 スリッピングアウェー。

 首を捻って拳の勢いを外へと受け流す、高等技術。

 男に動じることは無かった。

 勝ちを獲るまで、その貪欲さは──男の執念は一片たりとも動じない。

 目の前でどんな奇跡が起こったって、勝ちを獲ることしか男は眼中にないのだ。

 故に、余りに純度が過ぎた執念はありったけの渾身だって見切り切る。

 勝ちを獲らんと、拳を握ることだって忘れない。

 リングチャンプの拳を紙一重でいなすや否や、重ねるは左フック。

 踏み込み切ったアクセルは、もう誰にも止められない。


 ────クロス、カウンター

 

 激甚劈く。

 フルスロットルにドライブを効かした拳がG・コングの顔面を抉り抜く。

 ──だけでは終わらない。

 針が、振り切れる。

 拳は、奴の巨躯ごと残った意地を砕き折り、そのままキャンバスへと叩き付けた。

 リングが地鳴る。

 血と汗とがライトの下で弾け散る。

 赤黒く染まったゴールドコーティングのマウスピースが、ごろりとリングに転がった。

「……ち、き……しょう」

 譫言のように呟いた言葉が最後だった。

 カウントを数えるまでもなく、リングチャンプの意識は途絶えていた。

 会場中が、水を打ったようにしんと静まる。

 茫然とした視線が、倒れているリングチャンプに向けられていた。

 現実を受け入れらない……眼差しだけでもそれを十全に物語っていた。

 レフェリーもあまりの凄惨さに腰を抜かしたか、立つことすらままならない。

 その最中で煌々としたライトの元、拳を掲げる男がただ一人。


 ──雄吾だ。


 勝利を堂々と宣言するように、高らかに拳を掲げていた。

 勝ちを握った拳は、力強かった。

 好物の肉を食らう以上の充実感を噛み締めていているようだった。

 だが、男の勝利を讃える者は誰もいなかった。

 祝福の拍手一つかけられない。

 このリングのヒーローを完膚なきまでに痛めつけ、惨たらしい敗北を突きつけるだけ突きつけた。

 そのくせ新たなリングチャンプにもならず去っていくだろうリング荒らしだ、栄光も名誉も与えられるはずもなかった。


 ───────どうだっていい


 そう言わんばかりに一人勝利を語る男の背中は、異様なほど清々しかった。

 リング荒らしに祝福なんざいらない。

 栄光や名誉だって、興味一つ無かった。

 そんなものがあったのなら、雄吾はリング荒らしなんてしちゃいない。

 リングチャンプにでもなって挑戦者相手に戦い続けていれば手に入るのだ、そこで倒れ伏している男のように。

 雄吾は、それを選ばなかった。

 リングチャンプになったところで、戦う相手を自由に選べるわけでもない。

 リングオーナーの都合にも左右されるし、儲けと観客の手前自由に挑戦を受けられるわけではない。

 ましてや、他リングのリングチャンプとの試合も敬遠されるのが今の時代、雄吾にとって魅力なんて感じるものではなかった。

 リングチャンプは、火星に数多あるリングの一番強い男だ。

 雄吾にとってそれはなるものではなく、勝ちたい相手でしかない。


 ──俺と一戦も交えないで何が一番だ、勝手に俺に勝ったつもりか

 ──どうせ名乗るなら、俺と一戦交えてからにしろ


 無茶苦茶な理屈だと分かっていても、雄吾はどうしたって業腹だった。

 一番を名乗る男どもには、牙を剥かずにはいられない。

 それが難しいリングチャンプの立場なんか、こっちから御免だった。

 首輪に繋がれた飼い犬ボクサーなんて雄吾の望むところではない。

 祝福も名誉も栄光も、全部ドブに捨ててやる。

 誰一人勝利を讃えてくれなくとも、己が一人掴み獲った勝ちを噛み締めていれば、雄吾はそれで充分だった。


 そうさ、だってこんなにも気持ちがいいモンがほかにあるか

 この瞬間に勝るモンなんて、何一つだってねェだろ


 ひとしきり勝ちを味わいきると、誰が言うでもなく勝手にリングを降りていく。

 倒したリングチャンプに、一瞥も無かった。

 後ろを振り返るより、向く先はひたすら前だ。

 勝利の味は確かに格別だ。

 どんなステーキ肉よりも分厚く、旨味も濃くて何度も噛み締めたくなるような噛みごたえがあった。

 だとしても、たった一度の勝ちで満ち足りるほど雄吾の飢えは浅くはないらしい。

 リングを降りれば、余韻はすっかり冷めてしまっていた。

 今日だって、振り返れば自身の戦いぶり全てに納得がいっているわけではない。

 体格差故に得意のレバーブローが通用しなかったのはしょうがない話でもあるが、今更に悔しさが体の奥からジクジクと疼いてくる。

 すぐにでも、トレーニングをしたくて堪らない。

 こんなもんじゃあないと、証明せずにはいられない。

 それに、火星のリングは百を優に超える。

 リングの数だけ、リングチャンプがそこにいる。

 荒らしたリングはやっと二桁を超えたところか。

 今日はその数にたった一つだけ足されただけだ。

 勝ち足りない。

 勝手に自分よりも強いと大口を叩いてる奴らがのさばっているのも、我慢がならなかった。


 リングを去っていく背中は、果てのない無尽の道を歩いていくようだった。

 そこに一番を名乗って立っている輩がいる限り、男の歩みは終わらない。

 突き進む足を止めることなんて、誰にもできやしないだろう。

 燻った眼差しは既に、次の荒野を見据えていた。

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