荒野をゆく男 ROUND3
同時に高らかに鳴るゴング、第一ラウンドが終わりを告げた。
KO宣言は、成されなかった。
盛り上がっていた空気が、一気に言葉を失っていた。
気落ち、落胆の雰囲気が場内に漂う。
打って変わって、情けないぞなどといったファンの声が、ところどころからリングへと投げられた。
1ラウンドで強烈なダウンを見たこともあってか、口には出さずとも、俺たちのチャンプが、とショックの色を隠せない者も少なくはない。
それだけG・コングの強さはファンにとって……このリングにとって誇りであったのだ。
普段のG・コングならばここでまた一つパフォーマンスを取って、暗雲とした雰囲気をふっとばさんとするだろう。
常にヒーロー気取り、リングチャンプとして憧れられることに快感を覚えている男である、ファンのことを気にかけるのは当前であった。
それが、今のG・コングにその気配はどこにもなかった。
観客を一瞥もしない。
セコンドに戻っても、眼差しが捉える先はただの一点。
瞳に映っているのは、生意気にも自身を土につけプライドを汚した野良犬一匹。
俺様を馬鹿にした口を叩きやがって、野良犬よう……このG・コング様のリングから無事に帰れると思うなよ……ッ
ダウン前とは比較にならない殺気に、雄吾は背骨からゾクゾクとしたものが迫り上がってくるのを感じずにはいられなかった。
──火を、つけちまったか
我ながら馬鹿な真似をしたもんだと胸中で自嘲する。
裏腹に、顔は喜悦を隠しちゃいない。
元々、気に入っちゃいなかった。
奴は、勝ちを軽く見ていやがった。
KO宣言なんて、勝ちを軽く見ている野郎がすることに他ならない。
勝ちは当たり前に手にすることができる、馬鹿な錯覚を抱いていなきゃできない真似だ。
勝ちってのは、当たり前のもんじゃあないんだ。
血反吐を吐いて何度も汚泥を舐めた先に、ようやく掴めるものなんだ。
雄吾自身が、そうだった。
辿ってきた道は敗北だらけの人生、汚泥を舐めた数も血反吐を吐いた数も数百を下らない。
生まれ育った火星のスラムは、貧困と飢餓の日々。
親のいないストリートチルドレン、ろくに食い物も無くいつも腹を鳴らしていた。
空腹に耐えかねて盗みを働いても、すぐに取っ捕まって暴力の嵐。
栄養が不足したヒョロイ腕に薄い体じゃ、殴り返そうとしても拳が届かない。
弱さというものを、嫌というほど突きつけられた。弱かったから仲間連中にも見下され続けた。
悔しかった。
惨めだった。
涙を飲むなんてしょっちゅうだった。
見える先なんてありもしなかった。
あったとしても、のたれ死ぬ以外の先が見えやしなかった。
──嫌だった。
負けっぱなしの惨めな人生のまま終わるのは、死んだって死に切れやしなかった。
見下した目をする輩どもに、目に物見せてやりたかった。
負けても負けても、何度も挑んだ。
出口が見えない道でひたすら足掻いた。
足掻いた先で、ボクシングに出会った。
お前も強くなれるんだ、そう背中を叩かれた。
強く、なりたかった。
幾度も味わった敗北の味を糧にサンドバックを叩いた。
体が悲鳴をあげるほどのスパーリングを重ねた。
細かった腕は段々と硬い肉で満ちていき、薄い体も気づくとそこらのボクサーと比べても遜色ない厚さと密度になっていった。
そんな身体を飽きずに痣だらけにしていった。
鼓膜が破れかねないくらいに怒声を浴びない日も無かった。
強くなるためならば屁でもなかった。
馬鹿みたいに血反吐を吐き、アホみたいに汚泥を舐め、やっと初めて勝ちを掴んだ。
勝ちを掴むまで、本当に長かった。
初めて勝ちを掴んだ快感は、言葉を尽くしても表せなかった。
極上の、それも脂が滴ったステーキを頬張った時と比べても──いや、この世のどんなものと比べるにも値しないほど、その快感は雄吾にとって衝撃だった。
どれだけの月日が過ぎても、今も体の芯に刻まれていた。
──もう、負けたくはない
勝ちを、俺は獲り続けてやる
トレーニングは苛烈さを増した。
ファイトスタイルは過激さに磨きがかかった。
けれど、常に自身のスタイルが通用するとも思っていない。
焦れったくたって、肌に合わなかったって、勝ちを獲るためならやれることをやってやる。
どうすれば勝ちを獲れるのか、勝ちを獲るためにはどうすればいいか、男は常に全力だった。
だから、そいつを馬鹿にされることだけは、許してやれなんだ。
『臆病野郎』
どうしたって我慢ならなかった。
──勝ちを軽く見ている野郎が分かったような口を叩きやがるなッ……!
頭の中で沸いた熱に、体が突き動かされていた。
結果として馬鹿をやっちまった。
己はどうしようもない馬鹿野郎だと、雄吾は笑っちまいたくなった。
ジンジンと頰を焼く拳跡。
ダメージが無い、そんなわけがなかった。
インターバルで座っちまってでもしてみろ、今も残る痛みとぐらついてしまった軸に意識が遠のいちまいそうだった。
口に水を含み、ついで頭から派手にぶっかける。
セコンドがいない雄吾ができた、せめてもの気つけだ。
勝ちは軽く見ていやがったのに、パンチはものすごい重さだった。
喰らわなくても分かっちゃいたが、まともに喰らってみると実感というものが嫌というほど身に沁みる。
見かけ倒しなんかじゃあない、体の軸を重く揺るがした痛みが言葉も無く物語っていた。
怒りに駆られて勝ちを取るためのやり方をかなぐり捨てなければ、こんなダメージを負うことはなかっただろう。
もっと、楽に試合を進められていたかもしれない。
……後悔は、無かった。
ハナっから勝ちを取ることが並大抵のことじゃあないことは知っている。
それに、どうせ勝ちを獲るなら強者からだ。
勝ちを軽く見ている野郎に勝つよりも、本気で勝ちを取ろうとしている野郎から勝ちを奪う方が、ずっとずっと気持ちがいい。
このインターバルの中、相対したコーナーから殺気のこもった視線がずっと自身を射抜いてきてる。
沈めてやるだけじゃあ、済まさねえッ──
その眼差しは、散々口喧しく語り散らしていた大きな口よりも力強く語ってきているような気がしていた。
「……これだ。やっぱ、ボクシングっていいなァ」
ゾクゾクと迫り上がったものが、心臓を何度も叩いていた。
体を巡る血流が加速する。
熱を帯びてきた肉が疼きを覚えて、抑えるのも一苦労だ。
唇もめくりかけていた。
鼓動が昂るほど、今にもコーナーから飛び出して牙を突き立てたいという衝動に駆られそうになる。
血に染まったマウスピースを剥き出しにして、今すぐにも殴り合いたかった。
もうあと少しでインターバルが終わるというのに、ほんの10秒どころか1秒だって惜しかった。
そんな長く……途方もなく長く感じたインターバルが、終わる。
────ゴング
二匹の獣が、コーナーリングから飛び出した。
待ち望んでいた時がきた、我慢なんざ置いてきぼりだった。
G・コングの拳が、先を取った。
左ストレート。
殺気がど正直に雄吾の顔面を撃ってきた。
豪快さに容赦のなさで磨きをかけた拳は、必倒から必殺へと昇華されていた。
恐ろしい、が正直すぎた。
雄吾には当たらない。
真っ直ぐに飛んだ拳を躱し、懐。
拳を構える。
狙いは、顎先。
しかし、飛び込んだ懐に待ち構えていたは右拳。
体ごと捻って斧の如く振り切られた。
バックステップ。
半身下げてこれを凌ぐが、反撃は狙えずじまいだった。
G・コングの顎先が、グローブと右肩で固められていたのだ。
良いガードだった。
そこについで、追撃。
リーチの長いG・コングの左腕がプレッシャーを伴って飛んでくる。
しかも、単調じゃない。
顔面狙いの拳を腰を沈めて凌いだところに、圧。
咄嗟に上体を反らすと、コンマ1秒遅れて雄吾の頭があった場所をフックが刈った。
グローブの上から受けても、脳を揺らしてロープまで吹っ飛ばしかねないパンチだった。
胸に震えが疾った。
笑みに、マウスピースが剥き出しだった。
──うまいこと、誘い込んできやがったッ
ディフェンスだってそうだ、攻めの中に拳がくることを意識している。
第1ラウンドのような闇雲で力任せ一点張りの奴は、もういない。
ディフエンスに終始したところで、奴が動きに雑さを見せることはもうないだろう。
上等だった。
雄吾は、真っ直ぐにG・コングを見据える。
対するG・コングも止まらない。
雄吾の踏み込みに合わせて、リーチの長いシャブにフック。
続けて、撃ち下ろしにアッパー、ストレート。
左右上下の打ち分け、前や後ろの体の振りにも対応した三次元的コンビネーションで、雄吾の喉笛を狙う。
喉笛を狙ってんのは、お前だけじゃあねェんだよッ
上体を柔らかく使い次々と襲い掛かった拳を躱し切ると、ストレートに合わせて懐に鋭く踏み込みをかけるや、左の連打。
フックで顔を叩き、刺すようなアッパーがボディ、またボディ──と見せて、再びの顎先。
……が、届かない。
パンチが、奴のグローブに押さえつけられる。
庇うように添えられた奴のグローブが、依然顎先への道筋を阻んでいたのだ。
1ラウンド目の顎に喰らった一撃を体が嫌というほど覚えたか、いくら意識を上下に散らそうとしても顔面の硬さを崩す素振りも見せない。
ボディはなんとノーガード。
そうだ、顔とボディを捨てたところで何らG・コングに問題は無いのだ。
首の太さ、肉の厚さ、体格の大きさ。
この三重の壁が、雄吾の拳を易々と通しはしない。
守りは急所の攻撃のみに集中すればいい。
ついで、背筋に流れた冷えたもの。
直感に拳を下げる勢いで再びのスウェーバック。
瞬間、雄吾の鼻先紙一重に噴き上がったは猛烈なトルネード。
恐ろしく逞しい右腕が突き上がっていた。
チャンプと雄吾との間にある三重の壁と、怯まず拳を返す打たれ強さを十全に利用した、当たれば必殺のカウンターだった。
予想を一つも二つも上回る攻めっぷり、先のフック以上に肝が冷やされていた。
────痛快だった。
侮っていたのは、どうやら雄吾も同じらしい。
技術は荒削りながら、それを自身のポテンシャルで見事に補っている。
態度と図体がデカいだけ、恵まれた体だけで成り上がっただけの男だとはもう思えない。
特に、チャンスを逃さない貪欲さは光るものがあった。
ここぞというタイミングで、常に迷いの無い拳が繰り出されている。
その貪欲さからくる嗅覚と恐ろしいくらいな自前の体格とパワーで、幾多の勝利を掴んできたのだろう。
勝つことが当たり前になってしまうのも、今となっては頷けてしまうところがあった。
『リングチャンプ』、この肩書きを背負うだけあって奴は伊達じゃない。
G・コングは、王者らしいどっしりとした佇まいで、ジリジリとにじり寄る。
雄吾がサイドへと出ようとしても、フットワークを上回る自慢の図体で道筋を潰し、常に正面で対峙させる。
逃れることは、できない。
自身の持てる全てを剥き出しにしプライドを拳に握り、勝ちを獲らんと牙を剥く。
油断の一切を捨てて眼前に立ち塞がるリングチャンプには、鉛のようなプレッシャーがあった。
……たまらねぇなァ、オイ
血が沸いて肉が躍る。
熱量を持った喜悦が身体中を燃やしていた。
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