第一話

荒野をゆく男 ROUND1

 半年ぶりに帰ってきたリングの緊張感は、ひとしおの心地よさがあった。

 試合がまだ始まっていないというのにも関わらず、ロープを潜っただけで漂う空気はリング外のそれとは様変わりだった。

 リングへと続く道は観客達の歓喜と興奮で渦巻いた鬱陶しい熱さがあった。終わらない開拓と鬱屈で出口の見えない貧困生活で底に溜まるしかなかった熱量が、ここぞとばかりに溢れ出ていたのだ。

 満ち満ちた熱に当てられて、脳髄が余計な興奮に侵されそうな気分だった。

 なのにロープで区切られたこの四角い荒野に立つと、一転して硝煙のように渇いた空気が立ち込めた。

 戦場だった。

 ピリピリと弾ける電流のような感覚が肌に奔る。

 身の毛がよだちそうでもあった。

 否が応でも気が引き締められる。

 心に隙があればいつ倒されてもおかしくはない。

 加えて、倒し倒されなければ決して降りることができないのが、この荒野だ。

 降りられたとしても、五体満足なんて保証はどこにだってありはしない。

 下手をすれば、この荒野が墓場になることだって有り得る話だ。

 地球にある本来のボクシングとは違い、火星のボクシングは原始的だ。階級制も無く、日々の鬱屈さからくる抑えきれない野蛮さに、キャンバスに沈んだまま戻ってこれなかった者だって珍しくはない。

 リングという名の荒野では、いつだって死と隣り合わせだ。

 だからやはり、雄吾は心地が良かった。

 一人でサンドバッグを叩き、シャドーボクシングに打ち込むだけでは決して味わえない非日常な緊張に、全身を這うような疼きがゾクゾクと迫り上がる。

 だが、心地良くはあれど満ち足りるものだなんて到底言えない。


 ──勝ちも獲ってなければ、まだ殴り合ってもいねえのに


 ここまではまだ前菜ですらないのだ。

 ゴングがなるどころか、まだ対戦相手の姿も見えちゃいない。

 そうだ、始まりにも立ってないのに、満足なんてできたものじゃあなかった。

 雄吾は自身のコーナーへぼろ切れのように草臥れた象牙色のガウンをそのままに身体を預け、唾きを飲み込みながらそれを待つ。

 観客の熱狂がリング内外にこだまするが、アピールだとかリップサービスだとかはくれてやらない。

 無愛想に加え生意気にも見えたのか、あるいはこのリングが雄吾にとってアウェイであるからなのか、四方から飛んだはブーイング。

 それを、雄吾は軽く右から左へと聞き流しだ。

 ボクサーは人気商売でもあるが、雄吾にとっちゃ人気なんてものは何の価値もありゃしない。

 本当に、それこそ喉から手が出るほど欲するあの充実した瞬間と比べたら、そこらの塵にも劣った。

 一々気に留めるのも馬鹿らしい、振り払って前を向け。

 見据えた先は一点、相対するコーナーのさらに向こう側だった。



 ふいに、会場中を照らしていたライトの明かりがぱたりと落ちた。

 同時に、リングの向こう側で噴き上がったは、咆えるような火柱だ。

 火加減を少しでも間違えたらリングどころか会場までも灰と化しそうな噴き上がりぶりだったが、観客はなんのその、真打のお出ましに歓声は一層狂気じみていた。

 さなかに、揺らめく輝きの中を一際大きなシルエットが浮かび上がった。

 太く雄々しい片腕が、高らかに掲げられる。


 リングチャンプのお出ましだった。


 ″G!″

 ″G!″

 ″コング!″

 ″GO!″

 ″G・コング!″

 はからったかのような大合唱にリングロープは叩かれ、ぐらぐらと揺れている。

 リングロープだけではない。明かりの消えたライトや、会場の壁までもが鈍い音を軋ませていた。

 誰も彼もがリングチャンプの姿を目に焼き付けようと、火柱に浮かんだ影に釘付けだ。

 にわかに黄色い声援も飛び交っている。

 最高潮に達し急激に膨張した興奮は、抑えることなんてできないらしい。

 英雄の凱旋じみた光景だった。

 あながち間違ってはいないだろう。

 リングチャンプ──それは火星の街々が一角に必ず一つはあると言っていいリングの頂点に立った男達のことである。

 開拓と労働、貧困の日々に追われた反動か、血生臭いボクシングが地球以上に流行する火星ではリングの数は百も二百も超えていた。

 当然、リングの数だけリングチャンプも乱立する。有象無象という言葉が似合う程に数は増えた。

 たかが一リングのチャンプ、火星全体からすればあまりにちっぽけな存在だ。

 だとしても、街の人間からすればリングチャンプという存在は大きかった。

 彼らは、金が無く行き場も失った者たちが最後に辿り着く負け犬の星──火星で生まれながらも腐らずに這い上がり、拳一つで高みへを目指し駆け上がってみせた。

 青く腫れた顔を晒し、身体を劈く痛みにも耐え、血反吐を吐きながらも頂きに立ってみせた者。

 圧倒的な強さをリングに上がって早々に見せつけ、並み居るボクサーを蹂躙し、リングの王座に座してみせた者。

 どういう形であれ栄光へと至るストーリーを自身の体で描く彼らは、火星の人間からすれば憧れの的だった。 

 負け犬として酷な開拓と鬱屈した貧困に塗れた人生を送るしか無いと思い込んでいた者達に、微かだがはっきりとした希望の光を照らした。

 まさに夢だ。

 リングチャンプという肩書きを背負う男達は、負け犬の星に夢を魅せる『ヒーロー』と言っても過言ではなかった。

 この場に立つリングチャンプも、例外ではない。


 ″ウゥゥッロラララララァァアァァアァッ!″


 観客達の声援に応えるか、リングチャンプは口をがぱと大きく拡げると、並の獣にも出せないような猛々しい咆哮を張り上げてみせた。

 自身に向けられた大合唱や背に背負った火柱にも劣らない、心臓を叩くような衝撃が会場一杯に駆け抜けていった。

 足音を鳴らして勇ましく歩み進むリングチャンプを追って、バッとライトが照らす。


 G・コング──名が体を表したが如きの巨躯だった。


 少なく見積もっても、ヘビー級じみた上背であることは間違いないだろう。

 煌びやかではあるが若干趣味の悪い黄金のガウンに身を包んでいても、奴の大きさは到底隠れるものではなかった。

 態度の大きさにもそれは言えた。

「さあて、今日もショーの始まりだァッ! 俺様の勇姿を目に焼き付けていってくれよォ、みんなァァッッ!」

 男は声高に叫び、大胆に両腕を広げる。

 大仰なセリフだが、これが随分と似合っていた。

 ついでに盛り上げにも一役買ったか、観客達の勢いは一段と熱量を増していく。

 場は、十分温まった。

 G・コングは主役の登場と言わんばかりにリングの上へと舞い上がると、ド派手のガウンを脱ぎ捨てた。

 大きさが、増した。

 背丈もそうだが、厚さも負けず劣らずだ。

 顕になった体躯は、どこも弾力のある肉で覆われていた。

 胸と腹には鍛え上げた筋肉が主張するかのように、張りのある盛り上がりを浮かべている。

 腕は丸太のように太く、背筋も山のように迫り上がっている。Gのタトゥーを彫りこんだ両肩も一個の肉塊にすら思えた。

 派手にあつらえたガウンの上からでも体の大きさが目についたワケだ。

 何より、間近で見ればどの肉も暴力的だ。

 拳をまともに喰らえば、立ち上がることどころか骨が無事で済むかもわからない。

 奴は一度も土をつかずにKOを量産し、リングチャンプを掴み獲って今ここにいるという話だが、その身体を見れば十分納得できた。

 奴自身、自慢の肉らしい。

 リングの上の自身を狙うフラッシュが炊かれたレンズにだって、もっと撮れと言わんばかりにボディビルまがいなポージングで格好づける。

 こうもされては観客は余計に調子付くし、なんだったらG・コングが一番調子に乗っているのかもしれない。アピールタイムは中々終わらなかった。

 やっとひとしきり済んだか、と思えは今度はレフェリーの静止も聞かず、今まで目も向けてなかった雄吾へとずかずかと迫りにいった。

 これも自慢であろう、ワックスで炎の如く掻き上げた黄金の地毛がよく揺れている。

 唇を裏返し剥き出しした口から、これまた黄金にコーティングしたマウスピースを見せつけると、高みから見下ろすように雄吾を見据えた。

 口の端が吊り上がっていた。


「……思ったよりも、ちっちぇえなァ?」


 侮るような口振りだった。

「逃げなかったことには褒めてやるぜ、連戦連勝負け知らず……この、G・コング様からなぁッ!」

 大きな身体がさらにぐんと雄吾に迫る。

 荒く息巻いた鼻息が顔にかかるのが、鬱陶しかった。

 ただ、リングにこうして並んで立つと、数字だけではない差が残酷なまでに明白だった。

 奴と比べると雄吾の体格はどうしたって劣る。

 背丈はやっと奴の喉元に天骨が届くかどうか。肉の厚さなどは、G・コングと比べるまでもないだろう。

 階級としてはウェルター級ぐらいだ。本来、G・コングと試合を行うには無茶にも程がある体格差だ。

 そんな巨体が間近に迫って、殺気の迸る眼差しを向けられているというのに、雄吾は涼しい顔を欠片も崩しちゃいなかった。

「逃げるも何もねえよ、アンタが望むからアンタのリングに上がってやったんだろうが」

「なァるほど、自信はたっぷりってとこかい……リング荒らし、ストレイドッグの雄吾とは、よく言ったもんだぜッ!」

「知ってんのかい」

「知った上で、俺はテメェと闘りたかったんだからなあッ!」

 リング荒らし──リングチャンプを破りその地位を奪い取りながらも、自ら捨ててまた新たなリングチャンプに一挑戦者として喧嘩を売る──まさに、文字通りの意味である。

 本来、リングチャンプとなったからには自身のリングに足を根ざして戦うものだ。

 リングチャンプは、街の住人にとってはあまりにも大きい存在だ。そのリングチャンプが、あっという間に肩書きを捨てて別のリングに上がることなど、面汚し以外の何者でもない。

 リングを取り仕切るリングオーナーだけでなく、リングがある街の住人に対する裏切りにも等しかった。

 それを、雄吾という男は真っ向から無視し、次々とリングチャンプへと喧嘩を売って、容赦無く屠ってきた。

 ついた渾名がリング荒らし──ストレイドッグの雄吾。

 荒らすだけ好き勝手に荒らし周り、誰の首輪にも繋がれず、誰の言葉にも縛られない野良犬。

 それが、雄吾という名のボクサーだった。

 半年間試合から遠ざかっていたのも、自身が拠点とするジム周りのリングでは悪名が祟り、試合を敬遠されていたからだ。

 そもそも、リングチャンプがこのような男を相手に試合をすること自体が異例も異例だ。

 今となっては、リングチャンプ同士の試合ですらリングオーナー達は二の足を踏んでいる。

 リングチャンプ同士の試合が盛り上がるのは火を見るより明らかだ。

 リングチャンプ自身、己の名を名実ともに証明して力を誇示するには、実際にそれ相応の相手を倒すほかない。

 ファンが好き勝手言うランキングはあるが、試合内容によってリアルタイムで変わる者であり、常に地位と実力が見合っているとは言い難い。

 相応の実力者を倒してこそ、自身の名に箔がつく。

 しかし、リングオーナーからすれば他リングとの調整は互いの利益のことが絡んで面倒臭く、加えてチャンプ同士の試合はギャンブルにも近い。

 自身が取り仕切るリングのチャンプが負けでもすれば、今後の儲けや自身の面子にも関わるために、客から望まれてるのを理解しつつも二の足を踏むことが多々あった。

 ましてや、雄吾のような得体の知れない男などもっての外……それを、G・コングは無理矢理に実現させてしまった。

 どのみちリングチャンプと戦えない以上、自身の名を高めるのに挑戦者だけでは役不足。遂には己の前に立とうとする気概がある奴らすら、減っていく始末。

 そんなところに試合がなくて飢えた野良犬がいると聞いては──しかも、そいつが何人もリングチャンプを屠っていると知れば、リングオーナーですら奴の強引さを止めることはできなかった。


「悪党極まりないテメェを、俺がこの場でぶっ倒すッ! ……格好いいストーリーだろォ? お前さえ倒せば、俺の名がまたデカくなるって筋書きさ……! ただな、それだけじゃあ足りねぇんだよなァ……」


 言うや否や、G・コングは踵を返すと今度はレフェリーからマイクを奪い取る。

 そのまま徐にリングの中央へと立つと、思い切り息を吸った。

 パフォーマンスは、終わらない。


「おうおうおうッ、聞けェッ! 1ラウンドだァッ! 1ラウンドで俺は、こんのリング荒らしの野良犬を沈めてみせるぜェッ!」


 KO宣言。

 グローブをはめた拳をビッと雄吾に突きつけている。

 自信たっぷりの笑みだった。

 どっと、波が立った。

 期待に胸を躍らせた歓声が、場内に波を巻き起こさせたのだ。

 我らがヒーローが悪名ボクサーを退治する。わかりやすく明朗だが、だからこそ熱くならざるを得ないであろうストーリーに立ち会えることがもう、たまらなかったのだ。

 ″G!″

 ″G!″

 ″コング!″

 ″GO!″

 ″G・コング!″

 熱気のタガが、また一つ外れた。

 大合唱は、もう止まることを知らない。

 期待と歓声とを背負い、胸を堂々と広げたリングチャンプの姿は、身体以上のスケールだった。


「……しらけさせるなよ」


 アウェイで独り、雄吾には本来いるべきセコンドも誰一人とてついちゃいない。

 背負う応援も掛けられる期待も無かった。

 圧倒的不利な体格差もあって、この場の誰もがリングチャンプに楯突く、ちっぽけで命しらずの野良犬とでも思っているだろう。

 勝ちの目の薄いギャンブルに身を投じるようなものに見えてもおかしくなかった。

 だというのに、この男は臆した様子なんざ全く見せちゃあいなかった。

 そうだ、ギャンブルとボクシングは決定的に違うものがある。

 ボクシングにおいて、勝ちを掴むはいつも己が拳だ。

 積み重ねてきた技術と経験。

 いじめ抜き鍛え上げてきた己が肉体。

 それら全てを発揮させるだけの精神。

 何もかもを自分で握って、勝負を賭ける。

 勝負は時の運というなどという言葉は、雄吾にとってはでまかせだ。

 全てが己に委ねられる。

 運なんかに勝ちを獲らせない。

 勝ちを獲るのはいつだって、己の拳だけだ。

 セコンドは必要ない。

 声援もいらない。

 期待なんかはなから望んでもいない。

 何度も泥を舐め、血反吐を吐いたトレーニングの日々と、そうして作られた体一つさえあれば、臆する理由なんてどこにもなかった。

 草臥れたガウンを勢いよく脱ぎ捨てれば、無駄な肉は削ぎ落とされよく締まった体躯がそこにはあった。

 どの肉も筋張って、やすやすと刃物をも通さない印象以上の硬さを思わせる。

 逆に関節はしなやかだ。余計に太くすることはせず、最高速、最威力のパンチを打てるように鍛えたのであろう、ボクサーらしい腕をしていた。

 それでいて、無造作に伸ばした髪から覗いた瞳は、孤高に生きる野獣の如く鋭い。

 その眼中にあったは、獲物であるリングチャンプただ一人。

 爪で捉え、牙を突き立て、確実に喉笛を喰らう。

 野生に生きる獣臭さを漂わせていた。

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