左利き

地雷王

左利き

高校最後の夏休み。俺こと片山大智は盆に墓参りのために田舎にある母の実家へと帰省していた。

田舎といっても近年で開発が進み、移住者の受け入れも活発なので人口は増えつつある。帰省する度に近所に知らない人が増えているほどだ。新しく大きな道も近いうちに通るらしい。

墓石の回りを掃除しつつ、祖母のことを思い出す。

俺の村には古い迷信を信じるものがまだ多くいて、祖母もその1人だった。

「夜にツメを切っちゃいかん!」

「夜に笛を吹いちゃいかん!」

「朝の蜘蛛は仇でも逃がせ!」

色々な迷信を信じて周りに強要するため、俺は迷惑に感じて好きではなかった。

中でも俺が嫌いだったのは、左利きは縁起が悪いというものだった。

「厄介なばあちゃんだったなぁ」

俺は祖母のことを想い出し、呟いた。

俺は生まれつきの左利きだったので辛い思いをしたものだ。まあ、それも祖母が亡くなった今では思い出になりつつある。

「兄さん、水くんできたわよ」

一緒に来ていた妹、片山千智の声で俺は過去の思い出の中から現代へと帰って来た。

千智は今年で16歳になる少女だ。白い肌と長い黒髪のコントラストが美しい日本人らしい正統派の美少女で、兄の俺から見ても可愛いと思う。

「ありがとう、そこに置いてくれ」

「いざ2人でするとお墓の掃除も大変ね。母さん、毎年こんなことしてたんだ」

俺も千智も盆に帰省はするが、今年まで墓参りへはあまり顔を出さなかった。

しかし、今年は母が利き手である右手に怪我をしたため、俺たちが代わりに来たというわけだ。

「ホントにな、来年からどうするんだろう?」

「ばあちゃんの家、住む人がいないから売っちゃうもんね」

「空き家だと危ないし、仕方ないのは分かるが…」

「何か、さびしいわよね」

話ながらも作業を進め、墓石の掃除を済ませた。

「よし、後は線香とロウソクだな」


墓参りを済ませた俺たちが、祖母の家に着いたのは夕方だった。

「ただいま」

「お帰りなさい」

家に入ると母、片山恵美が出迎えてくれる。

母は千智にそのまま歳をとらせたような見た目で、歳の割には若く見える美人だ。俺も母に似れば、もう少しモテたのだろうか。

「あれ?手はもういいの?」

千智の言葉を聞いて、俺も母の手を見る。

墓参りに出る前は巻かれていた包帯が外れていた。

「ええ、1日ゆっくりしたら落ち着いたわ。疲れたでしょう?ご飯にしましょう」

台所に行く3人分の食事がすでに用意されていた。しかし、料理が作り置きで冷めたりはしていない。俺たちが帰る時間に合わせて作ったのだろう、さすが母だ。

「いただきます」

いつもの料理も美味しいが、今日の食卓にはこの辺りで獲れた川魚も並ぶ。

「旨い」

「美味しいわね」

「ふふふ、おかわりもあるわよ。春先に来れたら山菜も美味しいんだけどね」

「この家を売っちゃったら、来る機会も減るよな」

「お墓は残しといて、たまには来るようにしない?」

「お墓参りのためだけに来るのはしんどいでしょ?普通に遊びに来ましょうよ」

にこやかな会話の中で俺は違和感を覚える。母のようすが何かおかしい。

よく観察すると原因はすぐに分かった。いつもと逆の左手で箸を持っていたのだ。

「やっぱり、まだ右手の調子悪い?」

「ん?大丈夫よ、なんで?」

「だって左手で…」

いや、よく考えればおかしい。

いつも右手で箸を持っていた人物が、急に左手で箸を持てるだろうか?フォークやスプーンなら分かるが、箸は使うのに慣れがいる。怪我をした当日に使おうとして使えるものではない。

「ああ、これね。さすがに動かし続けるのはまだ痛いのよ。明日には完治してると思うわ」

左手で箸を持っていることを、母は俺に言われてから気づいたように見えた。

母も祖母から右利きを強要されたはずなので、左で箸を持つのは珍しいことはずだ。それを始めた日の内に忘れることなどあるのか?

「それより、ご飯もう食べ終わったならお風呂先に入って」

違和感はあるが、特に深く突っ込むほどのことではない。俺は母に促されるがまま浴室へと向かった。

「あ!」

脱衣所まで来たところで、台所にスマホを忘れたことに気づく。取りに戻らなければならない。

俺は風呂に入る際にスマホで音楽を流すのを習慣にしている。入浴時にスマホは必須だ。

「千智、俺のスマホ知らな…」

スマホを探しに戻った俺はあり得ないものを見た。

母が千智に手鏡を向けている。そして、その鏡から2本の腕が伸び、千智を掴もうとしていた。

「千智!」

千智と目が合う。恐怖で動けないようだ。

俺はとっさに駆け寄り、母の持っている手鏡を手で弾き飛ばした。

手鏡から出ていた手は、鏡が母の手元を離れた時点で鏡の中に引っ込んで消えた。

「か、母さん?これは一体?」

これだけのことが起きておるのに、母は笑顔を崩さない。張り付けたような笑顔が崩れない。

笑顔とはこんなに不気味なものだっただろうか?

母は動かず、ただ立っている。笑顔のままで微動だにしない。

「千智、何があった?」

「に、兄さん…。分かんない。2人になってすぐ、母さんが急に鏡を取り出して…う、腕が!」

うつむいき、うずくまり、動けなくなる千智。

考えてみれば、俺が風呂に向かってから戻るまでの数秒の出来事だ。当事者とはいえ、千智が状況を理解できているわけがない。千智も被害者だ。

「落ち着け、大丈夫だから」

何の根拠もない。だが、千智を落ち着かせるのにこれ以上の言葉が思い付かない。

自分でも気休めだと分かって言っているが、それでも千智は顔を上げてくれた。

「兄さん!後ろ!!」

顔を上げると同時に千智が叫んだ。

千智の方に気を取られていて気がつかなかったが、母が蹴り飛ばした手鏡を拾い上げていた。

「まずい!逃げるぞ!」

俺は千智の手を引いて、家を飛び出した。

「大智ー!千智ー!どこへ行くの?帰ってらっしゃーい!」

後ろから母の声が聞こえる。いつもの聞き慣れた声に、いつもならば安心感すら覚える声に、恐怖する日が来るとは思わなかった。

知っている道を通って家から離れる。自然と祖母の墓の近くに着いた。

「ここまで来れば…」

周りを警戒しながら千智のようすを確認する。該当も少ないので顔はほとんど見えないが、思ったよりも落ち着いているようだ。

「大丈夫か?」

「私、見たの」

「見たって何を?」

「鏡から手を伸ばしていたのは、私自身だった。鏡に写った私が私と違う動きをして、そのまま鏡の中から手を出してきたの」

「…まさか、そんなことが」

「正直、実際に見た私もまだ信じられない。でも、状況からして、あの母さんの偽物は鏡の中から出てきたんだと思う」

鏡の中の存在?だから左右が逆だったのか?非現実的なことだが、そもそも鏡から手が出てくるの自体がありえないことだし…。

「そういえば、ばあちゃんが左利きは悪魔の使いって言ってたな。悪魔って、あの偽物のことなのか?」

「…そうかもね。最初から左利きだと偽物との見分けがつかないし、ああいうのが昔から村にいたから対策として村人を右利きに調整していたのかも」

お年寄りの知恵袋もバカにならないな…でも、理由まで具体的に教えておいてくれよ、ばあちゃん。

「昔からいたとすると、まずいな。他の人たちの中にも偽物が混ざってるかもしれない」

「母さんを偽物と入れ替えた奴もいるはずだしね。兄さん…これからどうしよう?」

「人に助けを求めようにも、その相手が偽物の可能性もあるよな。逃げるのが賢明だろうが、母さんをあのままにはできないし…」

他人の利き手など知るはずがない。この土地の人々は右利きを強要されてきたかもしれないが、最近は他所からの移住者も多い。偽物を区別する術はない。

「大智ー!千智ー!」

遠くから俺たちの名前を呼ぶ声がした。1人ではなく複数人のようで、その中には知ってる声も混ざっている。ご近所さんたちのようだ。

俺たちが家を飛び出したと聞いて、善意で探している可能性もある。しかし、相手が偽物である可能性を考えると、出て行くわけにはいかない。

「偽物を見分ける方法って…本当にないか?」

「状況から考えて、私たちが墓参りから帰ったときには母さんは偽物と入れ替わってたのよね?」

俺は母の偽物のことを思い出す。

鏡を取り出すまでは、仕草、癖、会話、表情、料理の味に至るまで全く同じだった。気がついた違いは利き手が左右で逆だったくらいだ。

しかも偽物と会話した内容から察するに…。

「たぶん、記憶も本物と一緒だな。質問とかで偽物を見分けるのは不可能かもしれない」

「そんな…それじゃあ、どうしようもないじゃない。これからどうする?」

「逃げたい…が、夜に村を出るのは危険だ。それに、母さんを放っておくこともできない…何か手がかりでもあれば…」

「じゃあ、神社とかは?村の古い資料とかは神社で管理してるし、神主さんは昔からの村人だから偽物だったとしてもすぐ分かるわ」

「…他にあてもないし、そうするか」

俺たちは神社に向かった。


墓から神社は近い。ご近所さんたちの捜索を避けつつ、神社が見える位置までたどり着いた。

しかし、その途中で神社の方が騒がしいことに気づく。境内には屋台が並び、人で溢れている。

「そうか、忘れてた。今は夏祭りの時期か」

「マズイわね。こんな人がいたんじゃ、偽者が紛れてても分からない」

田舎とはいえ、祭りには数十人の人が集まっている。偽物が紛れていることを考えると人混みを通るのは怖いが…。

「いや、行こう。母さんの偽物も、俺がいるときは襲ってこなかった。これだけの人がいれば、むしろ偽物も動きにくいだろう」

「なるほど」

俺たちは社を目指してどんどん進む。

偽物が人混みで襲って来ないと考えたのは、あくまでも予想だ。確証はない。偽物が紛れているかもしれない人の中を歩くのは想像以上に神経を使う。

「大智くん、千智ちゃん、こんなところに!」

社にたどり着く前に初老の女性から声をかけられた。

幸いなことに知っている顔だ。名前までは覚えていないが近所の人で、昔から右利きというのは知っている。俺たちを見つけた時に右手を振っていたので、今も右利きだろう。この人は人間だ。

「2人とも、お祭りに来たかったの?お母さんが心配してたわよ?」

どうやら、この人は俺たちを探していたご近所たちの1人らしい。

「すいません。俺たちは母から逃げてきたんです」

「へ?どうして?」

「信じてもらえる自信がありません。…鏡から偽物が出てくる話とか、左利きの悪魔について何か知りませんか?」

俺の質問に対して、初老の女性は驚き、青ざめた。

「まさか、恵美ちゃんが…」

「何か知ってるんですか!?」

「ええ、私の知っていることなら教えるわ。ここじゃ通行の邪魔だし、こっちに来て」

初老の女性は屋台の裏手へと回り、俺たちを手招きする。千智もそれに続いた。

「兄さん?」

「千智、すまないが、話はお前が聞いといてくれないか?」

「兄さんはどうするの?」

「社に行ってくる。今は少しでも情報が欲しい。でも、母さんの偽物が俺たちを探しているから、ここに長くいるのも危険だ。二手に分かれよう」

「兄さん1人で行くの?危険よ?」

「大丈夫、十分に警戒して行くよ」

俺はそれだけ言うと社へと走る。ただただ走る

千智には警戒すると言ったが、誰が偽物か分からない以上は警戒のしようがない。鏡を俺に向けるだけの時間を相手に与えないことだけが対策だ。

いつもは小さい神社だと思っていたが、今日は社までの距離がやけに遠く感じる。石畳が滑って走りにくい。

「こら、石畳の上で走ると危ないぞ!」

社に着くと、走る俺を見た神主が叫んだ。

いつもは白い和服を着ているだけだが、今日は上から狩衣と呼ばれる布を着ている。祭りのためだろう。

蔵を開けてもらうために神主を探す必要があると思っていたが、手間が省けた。

「すいません、急なお願いなんですが、蔵を見せてもらえませんか?」

「蔵を?別に村人に解放しているし、開けるのは問題ないが…。今日はもう遅い、私も祭りで忙しいことだし、明日ではいかんのか?」

神主さんは面倒そうな顔で断ろうとするが、ここで引き下がるわけにはいかない。

「今すぐに必要なんです!母が鏡の偽者に入れ替わってて!」

「まあ、落ち着きなさい。鍵を探すから少し待って」

そう言うと、神主は右手で懐を探り始めた。俺が急いでいるのが伝わったのだろう。

走ってすぐで興奮していたからか、母の事から来る不安か、千智の元に早く戻らないとという焦りか、無意識に声を荒げてしまったが、それが良い方に転んだようだ。

「ここに入れたはずなんだが…」

神主は懐から財布を取り出した。ただ、どことなく取り出しにくそうに見える。

何かが変だと思い、神主をよく観察するとすぐに理由が分かった。服の左右が逆になっているのだ。

和服というのは、相手から見て右側の布が手前に来るように重ねて着る。左右を逆に着るのは死装束など特殊な場合だけだ。

「神主さん、まさか…」

「ああ、あったあった」

神主は財布から取り出した鍵を右手で見せつつ、左手を懐に入れた。

俺はゆっくりと後退りし、距離をとる。

「どうした?後ろ向きに歩くと危ないぞ?」

神主の言った通り、後ろ向きに動いた俺は後頭部が人にぶつかる。

「すいません!」

謝罪のために俺が後ろを向いた一瞬、視界の端で神主が動いた。

神主の方に目線を戻す。神主は左手で手鏡を持ち、それを俺の方に向けていた。

鏡の向こうでは俺が…いや、俺と同じ姿をした何かが笑顔でこっちを見ている。

「うあああぁぁあ!」

俺は思わず叫んだが、鏡の中の何かは笑顔のままだ。

その鏡の中の何かが腕を俺の方に伸ばす。

それは現実と鏡の境界を水面を通るかのように通過し、こちら側へと伸びてきた。

逃げないとヤバい。だが、恐怖で体が動かない。

「きゃあああぁぁあ!」

何かの手が俺に振れる直前、鏡から手が出るのを見た祭り客が絶叫した。

叫び声に驚いたことで、俺は一瞬だが目の前の恐怖が頭から抜けた。身体が動く。俺は転がり込むようにして、何とか伸びてきた腕をかわした。

「何なのよ!」

さっきの絶叫と同じ声だ。声のした方を見ると、手鏡を持った他の祭り客たちに囲まれていた。

口封じ?偽物の存在を知っている者や見てしまった者は優先的に狙われ、消される?

「な、何だよ…それ!?」

その光景を見た他の祭り客が声を上げた。今度はその者に向かって集団が襲いかかる。

今度はその光景を見た者が襲われ、どんどん被害が広がっていく。

早くここから逃げなければヤバい。俺は千智と分かれた場所へと走った。


「千智ー!」

俺が近くで名前を呼ぶと、千智は茂みの方から出てきた。どうやら1人のようだ。

「兄さんどうしたの?社の方が騒がしいけど何かあった?」

「神主さんがすでに偽物だったんだ。逃げないとヤバい。おばさんは?」

「夏子さんね。社の騒ぎを聞いて、ようすを見に行ったわ」

入れ違いになったのか。だが、待っている暇はない。

「急いでここを離れるぞ!」

「夏子さんは?」

「待ってる時間はない!偽物について知ってるみたいだったし、大丈夫だろ…」

俺は自分で言った言葉に違和感を感じた。

よく考えればおかしい。夏子はあの偽物のことを知っているのに、左利きになった母と会っても気づかずに俺たちを探したのか?

「兄さん?」

あの時、神主は何故に右手で懐を探ったのだろうか?左手で探れば違和感も少なかったというのに。

意識的に右手を使う理由…。まさか、左利きであることを隠そうとした?

「兄さんってば!」

千智が声を荒げるのが聞こえた。俺は手で待てとサインを送り、思考をめぐらせ続ける。

偽物に利き手を偽る演技ができるなら非常にマズイ。だが、母の偽物はそれをしなかった。必要ないと思ったのか、それともできなかったのか…。

少なくとも、さっきまでここにいた夏子が偽物でないという確証は消えた。

だとすれば、ここにいる千智は本物か?

俺は千智をよく観察してみるが、いつもと変わらないように見える。

「な、何よ?」

千智が偽物と入れ替わればどうなるだろうか?

俺たちの得ている情報や今の状況が偽者にもバレる?その上で俺を騙す演技が可能?

「早く逃げないとマズイんでしょ?」

千智が近づいてくる。本物か確かめなければならない。何か方法は…。

「千智、ほら!」

俺はポケットにあった自分のスマホを投げ渡した。

それを左手で受け取る千智。

どれだけ演技でごまかそうとしても、とっさの行動にはボロが出る。まさかとは思ったが、千智は偽物だ。

「夏子さんの時点から騙されてたのか…千智…ごめん」

「え?何?どうしたの?」

突然に謝られて驚いた顔をする千智。それを見ていると、もしかして本物なのではという感じがしてくる。

ただでさえ母に続いて妹が消えたというのに、限りなく本物に近い何かが目の前にいる。こんな状態で2人の喪失を受け入れなければならないのか。

「クソッ!」

俺は危険を承知で千智の偽者に背を向けて走り出す。千智の姿を見たままだと、本当に信じてしまいそうだったから。

しかし、その行為は失敗に終わった。

「しまっ!?」

走り出してすぐ、俺は神社の石畳で足を滑らせた。

「だ、大丈夫!?」

慌てた声で駆け寄ってくる千智…の偽物。

つい返事をしそうになるのを堪えて振り返る。千智の手には他の偽物たちが持っていたのと同じ手鏡が握られていた。

起き上がって逃げるには距離が近すぎる。

「兄さん?そんなに怯えてどうしたの?」

そう言いながらも俺に鏡を向けてくる偽物。その顔は本気で心配しているようにも、俺をからかっているようにも見える。

こいつ、俺をバカにしているのか…それも千智の姿で!

「うああぁぁぁあ!」

俺は足を振り上げ、鏡を飛ばすことに成功する。

手を蹴られた偽物は、声を上げるでも、手を押さえるでもなく、その場で固まっている。明らかに異常だ。人間の反応ではない。

俺は偽物が動き出すよりも先に鏡を確保しようと動く。偽物が硬直していたおかげで予想よりもあっさりと取れてしまった。

「返せ!!」

偽物が叫んだ。年配の男が喉を潰しながら怒鳴ったような、低く、太く、大きな声だった。仮にも千智の姿のまま発せられたとは思えない。

もはや偽物であることを隠す気もないようだ。

「そ、そんなに大切なら…固まってないで…」

軽口を叩こうとするが、言葉がうまく出ない。

本能的な何かが俺の頭の中で警鐘を鳴らし続ける。戦ってはいけないと。

俺は鏡を抱えて走る。

千智の偽者から逃げて、社の方から叫び声を聞いて集まって来た偽者たちからも逃げて、近所の人たちの捜索からも逃げて、とにかく走った。

走って、走って、走って、力尽きたとき、俺は村のはずれまで来ていた。

夜中に村を出ると危険だと思っていたが、偽物たちに追われている今は村に留まる方が危険だ。俺は村から出るために再び歩みを進める。

「え?」

村から出ようとした瞬間、俺は手に握っていた鏡を落とした。だが、手が滑ったわけではない。何かに弾かれたような感覚がした。

鏡を拾い、もう一度。今度は慎重に行く。すると鏡を落とした原因が分かった。

村を出ようとすると、見えない壁のようなものに鏡が弾かれるのだ。俺の身体や他の持ち物は問題なく通れるが、鏡だけが通れない。

どうしたものかと周囲を見渡すと、道の脇に小さな祠があるのを見つけた。

俺は祖母に聞いた話を思い出す。

道祖神…村の境や分かれ道などで奉られる神。災いをなすものを遮ろうとするもので、この村でも全ての通り道に祠がある教えられた。

災いを遮ると聞いたときは、外から村に災いがやって来ないように、村を守っていると思っていた。しかし、逆だったのかもしれない。

外から中ではなく、中から外に災いを出さないため、この村の中だけで封じ込めるために奉られているのだろう。そうならば偽物が持っていた鏡が村から出せないのにも説明がつく。

俺は後悔した。俺が母も助けたいと思ったせいで、千智と一緒に村から出ることができなかった。村から出てしまいさえすれば、偽物は追ってくることもできなかったというのに。

俺は膝からその場に崩れ落ちる。恐怖から解放されたこともあるのだろう。家族を一夜にして2人失ったという事実を思いだし、俺はひたすらにうなだれた。

だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。村の危機を外に知らせられるのは自分しかいない。助けを呼びに行くことが、逃げ延びた自分の義務だと思った。

新たな決意を胸に山を駆け下りる。街灯すらない山道は暗く、自分の足元すら見ることができない。整備されていない山道の悪路と相まって走りにくい。

何度も転び、何度も立ち上がり、麓にある隣村を目指して走る。

熊や野犬、蛇などに襲われる危険もあるが、暗闇では警戒すらできない。出会わないように祈りながら、恐怖心を抑えて、ただ走る。


隣村についたのは夜明け前のことだった。

俺は駐在所へと向かい、呼び出しボタンを連打した。

「こんな時間にどうしたんだ?」

駐在の警察官が眠たそうに出てきた。今まで眠っていたのだろう、口元にはよだれの跡がある。

「大変なんです!実は…」

俺は昨晩の出来事を全て正直に話した。

「君は私をからかっているのか?名前と住所、電話番号をここに書いてくれ、親御さんに来てもらう」

警官は俺の話を一切信用せず、身元を確認してくる。まあ、俺が逆の立場でも信じるのは難しいだろう。

俺が素直に身元を答えると、警官はますます不信そうな顔をした。

「それじゃあ、親御さん呼ぶから」

俺が教えた電話番号に電話をかける警官。母の偽物は家に戻っていたようで、すぐに電話に出た。

だが、偽物は電話に出ることはできても、村から出ることはできない。放っておけば、警官は自ら村に行くしかなくなる。そうなれば、村を出れない村人や鏡などの事態の異常さを伝えられる証拠はいくらでもある。

「お母さんが来てくれるそうだ。良いお母さんじゃないか、あまり迷惑をかけるなよ」

電話を終えた警官はそう言って笑った。

しかし、それから2時間が経過したが母が来ることはない。偽物は村から出られないので当然だ。

俺は悪路を徒歩で来たので何時間もかかったが、車があれば何時間もかかる距離ではない。

「親子で私をからかっているのか?それとも、さっきの電話番号がイタズラ仲間のものだったのか?」

「だから、偽物は村から出れないって行ってるじゃないですか!」

警官の機嫌がどんどん悪くなっていく。うまく村まで連れ出せれば良いが…。

「おはようございます。息子がご迷惑をおかけして」

俺が警官を連れ出す方法を考えていると、入り口から聞き覚えのある声がした。

母…いや、母の偽物だ。ドアを閉めるのも、身分証を取り出す手のも、書類にサインするのも左手で、もはや隠す気すらないらしい。

「すいません。いつもの道が通行止めだったので、新しい道を使って来たら迷ってしまって」

新しい道という言葉を聞いて俺はピンと来た。近日中にできると聞いていた新しい道には道祖神がいないのだろう。

それは偽物が村から外に出れるということを意味していた。どこへ逃げても安全な場所などないのかもしれない。

「ほら、親御さんが来たぞ。今日は何もなかったことにしてやるから帰れ」

「良かったわね、大智。帰るわよ」

嫌がる俺を車に引っ張る母。後部座席には千智の姿も見える。

「待って!本当に偽物が!」

「これ以上暴れるなら公務執行妨害になるぞ!」

「逮捕して下さい!その方がまだ…」

「何を行ってるんだ!おとなしく帰れ!」

警官の力も加わり、俺は車へと押し込められた。

妹の手元には例の手鏡。迫り来る鏡の向こうの自分。もはや俺は手遅れだ。

俺は最後の力を振り絞り叫んだ。

「お巡りさん!後ろ!!」

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左利き 地雷王 @ziraiou

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