金魚

かんたけ

第1話

 僕の金魚は特別だ。少年は鼻を鳴らして、お風呂場に入る。


 彼の日課は決まっている。まず、朝起きて布団を片付け、朝ごはんを食べて歯磨きをする。お昼は畑の手伝いをしてから学校に行き、級友とは話さず、誰よりも早く家に帰る。おやつを食べて宿題をしたら、縄跳びに没頭し、気がつけば2時。

 そして、白い月が空に見えたら、同じく水槽にお札を浮かべ、餌袋の入った桶を持って、えっちらおっちらお風呂場に行く。


 少年は桶の中身を板の床にバラバラ落とし、人一人分入れる桶から湯を掬って体にかけた。牛乳石鹸でフグプク髪と体を洗い、再び桶をひっくり返す。

 大きな木桶の底には日の丸が描かれており、絶えず湯が湧き出、木桶を並々のお湯で満たしていた。

 ふっと卵が腐ったような匂いが顔にかかり、今にも飛び込んでしまいたくなる。


 しかし、少年は入らない。ぐっと堪えて、自分の身長くらいある餌袋を、木桶の中に投げ入れた。

 水柱が上がり、袋はゆったりと陽の光の届かない底へ落ちていく。

 すると、日の丸の後ろから巨大な牙が現れ、餌袋を丸呑みした、かと思えば、餌袋は牙をすり抜けて木桶の底に沈むだけ。牙は青い体を翻し、木桶の中を悠々と泳ぐ。


「綺麗だなあ」


 少年はうっとりとを見つめる。青い体はビー玉のようで、そのまま瓶の中に閉じ込めてしまいたくなる。けれども、この金魚はいつか滝を登るので、少年はその時まで、ここで英気を養ってもらうつもりなのだ。

 彼は上機嫌でお札を取り出し、何もいない水槽を磨く。火照った体を冷ますように、縁側に腰掛けていた。



「なあ、お前んち、金魚いるって本当?」

「…」

「珍しい金魚なんだろ?」

「…」

「今度、俺らにも見せてくれよ」

「…」


 少年は答えない。逆さの本を読みながら、彼らの言葉を無視する。彼らはため息をついて距離を取る。


「…はあ、つまんね。行こうぜ」

「っ……」


 僕の金魚は、特別だ。お湯の中でも生きていられる。本当は、木桶よりも大きいのに、無理して木桶に入ってるんだ。

 だから、彼らはもっと興味津々に聞くべきなのだ。3回無視されたくらいで、飽きるなんてくだらない。もっと、もっと金魚を見たがったって、いいじゃないか。もっと、聞いてくれたって、いいじゃないか。本当は、聞きたいのに我慢してるんだろう? そうじゃなきゃおかしい。いや、きっと、そうなんだ。

 サイダーを飲み干した少年は、ビー玉の入った瓶を、札の貼られた机にコトリと置いた。


 駄菓子屋の前を通り、家に帰る。


 白い月が浮かぶころ、彼は小さくなった餌袋を抱え、大きな木桶の風呂場に向かう。桶の底には相変わらず日の丸があり、暖かそうなお湯が湧き出ていた。


「綺麗だなあ」


 青年は湯船に桶を入れ、湯を被る。

 髪と体をフグプク洗い、小さな桶を放って、木桶を覗き込む。

 カラリと桶が鳴り、中からチョロチョロと水が流れた。彼は気づかずに、餌袋が落ちていく様を薄笑いで眺め続ける。


「綺麗だなあ」


 水槽の中には何もいない。ただ、札が揺れるだけ。

 バシャリと、彼の足元の水滴が跳ね、青年の足に触れる。



 彼の足元には、小さな骨が転がっていた。

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金魚 かんたけ @boukennsagashi

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