第2幕第8話 メロウ

 唯一人、メリエルだけが疑念をぶつけた。

「ちょっと待ってディーン。龍皇子マガールの母親が囚われているとしたらそれは何処で、何者なの?それにマガールは長命だったということ?」

 ディーンはこの優秀な学生の存在に満足して微笑んだ。

「大変良い質問です、殿下。《虫使い》と仮称している存在は我々と全く同じ寿命ですし、生殖方法も全く変わらない。つまりはもともと同じ存在です。ただし特性だけが異なる。異なる特性とはすなわちナノ・マシン耐性と情報伝達手段、個体情報の保全です。《虫使い》一族とそれに連なる者たちは強いナノ・マシン耐性を持ち、常にナノ・マシンが有益に働きますし、ナノ・マシンの死骸である“ナノ粒子”も有毒でありません。ですが、既に悲劇と地獄を垣間見られた《鉄舟》やフィーゴ提督、ベルレーヌ卿ならご存じでしょうが、耐性を持たない人間はナノ粒子を一定量吸い込めば血を吹いて即死します。微量でも吸い込み続ければいずれ肺疾患にかかり遠からず死にます。その前段階として生殖機能不全により子孫も作れなくなる。そうした死と現実とは私たちの身近でよくみられる」

 その一言に全員の顔色が蒼白となった。

 既に知っているナファドさえ青白い顔をしかめて十字を切る。

 誰より講義口調でなるべく感情を差し挟まないようにしていたディーン自身が呪いの言葉でもつぶやいたとでもいうようにイヤな顔を隠そうとしなかった。

 咳き込んだトワントの苦しむ姿がディーンの脳裏を過ったのだ。

「つまり、マガールの求めた母とは他ならぬ女皇の血筋です。つまり、我々と彼等は同じ源流から枝分かれした。一方は名前や言葉、文化と文明、信仰といった概念を持つネームド人類。もう片方は信号でやり取りし、龍虫を共生支配し、個を消した群体として生き続けるネームレス人類。ネームレスはピラミッド構造を持つ完全な階層を持ち、《龍皇》を頂点として龍皇に次ぐ通称龍皇子、ネームレスコマンダー、ブリーダーという縦社会を形成しています。そして彼等には個体情報の保全能力があり、《龍皇子》は死んでもまた《龍皇子》として産まれてくる。アリやハチといった昆虫に似た社会構造を持ち、信号強制力により力の優劣が生じる。そして皮肉にも通常時はギルバートが“氏族”と表現した部族単位で生活します。名前はないのですがね」

 名前を持たないのにギルバート・エクセイルが「氏族」と名付けたのはそれが端的に本質を言い表すからだ。

 東方世界でも「氏族」は重要な意味を持つ。

 それだけじゃない。

 ベリアでも「氏族」は重要な意味を持っている。

 フィーゴとアルバートの顔が少しだけ青ざめた。

「それでもなぜマガールに女皇家の血筋が必要だったの?《龍皇子》が《龍皇子》を繰り返しているのなら減ることはないのに」

 メリエルの言葉こそが真相に近かった。

「《龍皇家》は減っていました。ネームドへの帰化です。だから母を得て数を増やそうと考えたのです。でも、それは不可能あるいは酷く残酷な結果を産む。いちどネームド化した女皇一族はあくまでネームド人類です。だから、女皇家の女性とネームレスから産まれるのは混種。つまりはハイブリッド種という新種になってしまう。その例外が《メロウ》と《アリアドネ》でしたが、メロウには子が成せない。アリアドネはネームレスからしたら冗談では済まされない。かつてネームレスたちを戦慄させた魅了の魔女アリアドネはネームド人類への憎しみの象徴です」

 「同士討ち」で多大な損害を出し、ネームドとネームレスの戦いを事実上の痛み分けにさせた二代女皇アリアドネはネームレスたちにとり、絶望と怨嗟の象徴だったし、ネームレスの事実上の指導者だったマガールは自分の能力とアリアドネのそれとがあまりに酷似していることで大いに悩んだのだ。

 あるいは自分の母親とは・・・だった。

「もともと女皇家の《皇の血》は能力保全効果も持ちます。つまり、騎士は騎士として、女皇家の者は女皇家の者として女系中心に生まれる。戦が近くなれば男の子を産みますがそうでないときは原則女性しか産まれません。ですから“皇の血の呪い”とも言います。それ故に逆にゼダの公爵家が全員男性である現在の状態の方が異常なのです。トリエル殿下がそれこそメイヨール公爵だとしたら、エクセイル家の私、ヴェローム家のエルビス、シャナム親子、カロリファル家のトゥドゥール、サイエス家のレオポルト、五公爵家全員が男性です」

「それにどんな意味があるというの?」

 メリエルは一度は聞いているゼダ五公爵について再度確認した。

 他の皆に聞かせるためだ。

「既に始まっている《剣皇機関》作戦というのは私とトリエル殿下、トゥドゥール公爵の三人で一人を演じるという意味です。つまり、ゼダ公爵級の三人のいずれかが最前線たる戦場で最高指揮権を持つ。長引く激戦により一人二人欠けても構わないようにという措置です。それも予定外。本来ならトゥドゥール公爵とトリエル殿下はいずれかが参加し、もう片方は本国の政治情勢をコントロールする予定だった。それはなにより兵站のためにです」

 「兵站」という言葉が出たことで全員に緊張が走った。

 十分な備えをしていたというのに現状ですでに兵站に重大な問題を抱えていた。

 二つの想定外の一つはフォートセバーンの陥落だ。

 フォートセバーンを支える軸としてのトレド要塞だったし、更にゼダ、フェリオから集めた兵站補給基地としてのアルマスだった。

 旧メイヨール領は沃土が広がるゼダ屈指の穀倉地帯であり、自分たちとメルヒン《西風騎士団》、ナカリア《銅騎士団》、ミロア《剣皇騎士団》を食わせるぐらいはどうとでもなる。

 問題は敵の手に落ちたベリアからの避難民が思いのほか多かった。

 トレド要塞の備蓄物資で現状こそなんとか賄えているが、数年の長期戦となると心許ない。

 フォートセバーンから回収出来た備蓄物資はほんの一部でしかない。

 なにしろ電撃強襲によりフレアールや公明の回収さえままならなかったのだ。

 せいぜい鉄道二便分の貨物しか持ち出せなかった。

 もう一つがいまだ続く東征。

 いや、《東方戦争》だ。

 口実、地ならしとしての東征は本来の役割を終えている。

 あとはゼダ軍が撤収する体を装って騎士と兵員とを西に振り向けるだけだった。

 しかし、誰かがそれを阻んでいた。

 東征を始めたトゥドゥール・カロリファルではない。

 現状で一番焦っているのが彼だった。

 その次が剣皇カール・ルジェンテだ。

 剣皇機フェルレインと《ブリュンヒルデ》により戦況を打開出来ると踏んだ上でファルマスに籠城し、オラトリエスの《フェルレイン》とフェリオのタイアロット・アルビオレ、剣皇機ゼピュロスにより東征軍を圧倒出来ると考えていた。

 だが、実際に圧倒しても尚、東方戦争は終わりに向かわずにいる。

 それは南フェリオ各領が唐突に参戦を表明したことによる。

 実際、オラトリエス援軍部隊はエドラス・フェリオン国王の直轄部隊たる《フェリオ遊撃騎士団》だけだった。

 緒戦でこそ、オラトリエス国境沿いのシュツッツ、ミュンヘは独自に応戦してあっさり敗退したが、その後は「傭兵騎士団エルミタージュ」を雇い入れて防戦の構えをとった。

 そしてゼダ東征軍による「ウェルリ攻略作戦」を《遊撃騎士団》が失敗させた「茶番」を見計らうかのように、アストリアやロマリアといった連邦南部の各大領が参戦してきたのだ。

 彼等はエドラス王の参戦要請に遅れて応え、ゼダ東征軍と対峙した。

 つまり現状で剣皇たるカール大帝はファルマスで完全に孤立させられていた。

 周囲をゼダ国家騎士団東部方面軍のロムドス隊に包囲されて打って出ることも出来なければ、自国のルートブリッツ騎士団とも、フェリオ遊撃騎士団とも分断されているし、アストリア、ロマリアの部隊はシュツッツ、ミュンヘに増援として駐留している。

 その状況では『剣皇カール』の号令で西の龍虫戦争に参加するという状況にない。

 誰かが仕組みゼダ東征軍、オラトリエス、エドラス王を罠に掛けたのだ。

 それを打開出来るのは特記6号の発動権もつ法皇ナファド・エルレインのみだが、彼等は例外規定を持ち出せる。

 つまり、既に国土防衛交戦中の部隊は特記の例外とみなされるという不文律だ。

 ゼダ本国は東にも西にも物資を流さなければならず、既にパルムでは物価高騰の兆しが見え始めていた。

 そんな状況だからこそ、パルムで前後策をワルトマ枢機卿と謀った皇弟トリエルは送り出したばかりのディーンとすぐに合流しなければならなかった。

 フォートセバーンを一時的に制圧し、フレアール、エリシオンの回収と並行して港湾倉庫群に備蓄されていた戦略物資の回収に乗り出したものの、その大半が既に何者かにより持ち出されていた。

 そして、カールが全幅の信頼をもって送り出したミュイエ王妃の《ブリュンヒルデ》も消息を絶っていた。

 神殿騎士団の総出撃により空っぽに近い状態のミロアの護りをする筈の《ブリュンヒルデ》不在により、ナカリアのセリアン国王夫妻は飛空戦艦マダガスカルと共に消息を絶った。

 同様にロックフォート王家座乗艦のセビリアも消息を絶った。

 おそらくはヒュージノーズ級の龍虫あるいはエルミタージュの特殊飛空戦艦による待ち伏せ攻撃に遭ったのだ。

 ハルファに展開するランスロー・ドレファス大佐のゼダ国家騎士団南部方面軍は増派部隊として既に準備を整えており、最前線たるトレド方面の傷病兵と随時入れ換える算段でいる。

 それが現状だった。

 しばし沈黙が流れた。その後の話は更に衝撃的だった。

「我々人類の定住地は確実に狭まっています。剣聖レイゴールの祖国ファルツもフェリオに併呑されたのは生き残った民だけで、国土自体は荒廃地となりました。剣聖リュカインの祖国マルゴーもまた。そして、大戦後に起きた大規模な戦いはフェリオとメイヨールの内戦だけ、それだけ中原世界は逼迫しています」

「それって我々が知らないだけということですか?」

「それと気づかせないことがエクセイル家の使命ですから」と淡々と告げるとディーンは中原地図を広げた。更に分かり易くするために其処に高低図模型を重ねる。「これを見てお気づきの点があればどうぞご意見を」

「って、ディーン確かにこの模型の通りだが」とはスレイ。

「上手い具合になっているな」とベルレーヌ卿が指摘する。「山脈が上手い具合に壁になって各国が分断されている」

「それを東西に血管のように繋げているのが大陸横断鉄道とその支線か・・・」

 さすがに戦略に秀でたスレイが真っ先に気づいた。

 正に生命線たる大陸横断鉄道は東西で戦争が始まっても、その運行を止めていない。

 どの陣営にとっても重要な移送手段なので誰も手出し出来ない。

 国境線を越えるときだけ臨検され、乗務員が入れ替わる。

 それこそお互い様だ。

「中原世界いえ・・・そもそも《エウロペア大要塞》は人工的に作り出された地形なのです。龍虫の侵入を少しでも遅らせ汚染荒廃地を切り離すために山脈を人工的に隆起させた結果、現在の形になったということです」

「《エウロペア大要塞》だと・・・」とスレイは唸った。

「つまり、それは我が祖国メルヒンはナカリアと共に西の要衝だったということですかな?」とベルレーヌが指摘し、ディーンは大きく頷いた。

「はい。北の要衝がファルツ。南の要衝がマルゴー。東の要衝がキエーフ。人類最初の定住地たるフェリオとゼダを中心として同心円状に発展させ、山脈で覆う。《ナコト写本》にはその過程がつぶさに描かれています。しかし、それだと不都合な事実がありました」

「わかったぞ、ゼダとフェリオだけが不公平なほど中心に置かれている。つまりゼダから離れるほど安全ではない地域になる」

「ええ、ですから《ナコト写本》はゼダとフェリオで最初に焚書されたのです。この事実を他国民たちが知れば雪崩をうつようにゼダとフェリオに移住したがるし、外縁国家も中央国家に対する態度が変わる。ゼダが大国ながら他国不可侵なのは、結局、人類最後の砦はゼダになると知っていたからです。大戦以前の歴史においてフェリオとゼダが覇権争いをしていたのは言うならば出来レースであり、両大国が恒常的戦争状態だったのはそれと気づかせないための方便です。フェリオの選王候たちもゼダ女皇も戦争を隠れ蓑にしていた。同時に大事な役割を果たすためでもあります」

「龍虫出現時の対抗勢力たる優秀な真戦騎士たちの確保か?」

「ええ、ですが《龍虫大戦》と《十字軍戦争》とでゼダは醜態を晒しました。専守防衛に特化していった《禁門騎士団》は機動力もなく突出した実力を持つ騎士も輩出しなかった。フェリオの遊撃騎士団の方がすべてにおいて勝っていました。ゼダ陣営で剣聖級の働きをしたのは皆さんご存じの特選隊所属のレイス・ヴェローム公子、兵站面で剣聖エリンを後背支援したラムザール・メイヨール公爵と3つの騎士家だけでした」

「3つの騎士家?」

「レンセン家、アイゼン家、フューリー家。この3つの騎士家は《鷲の目》(イーグルアイ)を持つ戦略的に重要な位置を占め、《十字軍戦争》では正に突出した働きを果たしたのです」

「どういうことだ、ディーン」とフューリー家の現当主たるイアンはディーンに詰め寄った。「何故俺は『そのことを知らされていない』んだ?」

「ディーンよ、何故俺の本当の名がアリアス・レンセンだと知っているんだっ!」

 ベックス・ロモンドの兄弟弟子二人が詰め寄ってもディーンは表情一つ変えなかった。

 ずっと押し黙っていたトリエルがはじめて口を開いた。

 トリエルがディーンのかわりにガエラボルンで戦った。

「《ブラムド・リンク》の艦橋からフォートセバーンでの俺の交戦状況を正確に把握していただろう?本来、そんな真似が出来るのは《鷲の目》の保有者と『アークスの騎士』か『アークスの巫女』だけなんだ。つまり、あの場に居たのはイアン、スレイ、そしてメリエルだけ」

「あっ」とメリエルが声をあげる。

「龍虫どもはそのほとんどが光学迷彩で姿を消していた。戦闘発令所では赤外線レーダーで感知している担当者以外にはヤツらの居所は見えない。騎士因子のある人間でも視認距離はせいぜい100メルテ以下だ。つまり上空500メルテで待機中のブラムドの艦橋からじゃ、ルイスにも公明にも“本当は見えていなかった”」

「俺たちをハメるためにたばかったってことかよっ!?」

 激昂するイアンとスレイをディーンが優しくいなした。

「その必要が何処にあるというのです?私はスレイが養子なのも、騎士を憎む余りに戦術屋を志願したことも知っていましたが、レンセン家の縁者だなんて知りませんでした。真戦騎士として突出しないのに戦術家として女皇騎士団がイアン提督に女皇座乗艦の《ロード・ストーン》以上に最も大事な船たるバルハラを預けたのは《鷲の目》のことを知っていたベックス・ロモンド元副司令。それに大方、ベックス爺さんはスレイの素性とその持ちうる能力にも気づいていました。だから直弟子にしたんです」

「なるほど、そういう事情か」とセダンは納得顔をする。

「《鷲の目》の保有者は我が騎士団にもいます」とアルバート・ベルレーヌ卿が発言する。「いや、正直な話、彼らが居てくれなかったら我々は全滅していました。光学迷彩で姿を消している龍虫の所在をいちいち確認していたら撤退が大幅に遅れて後背に食いつかれていた。信号俯瞰索敵で『居ない』と判っていたので全力で逃げを打てたんです」

「まぁ、ナカリア退却戦でもそうだったさ。《鷲の目》保有者が居てくれたので、俺も《鉄舟》も大いに利用させて貰ったよ」

 フェルナン・フィーゴは睨み据えるように言う。

 その実、鷲でなく《ナミブのハゲタカ》であるフィーゴ自身も《鷲の目》を持っていた。

「《禁門騎士団》の解体時にフューリー家は《女皇騎士団》に組み込みました。ですが、《鷲の目》は平時においては特別役に立つ技能ではありません。ですから国家騎士団内では重用もされず、騎士家としても没落したのです」

「そういうことか・・・」とイアンとスレイは揃ってうなだれた。

「ですから、今後二人は別々の配置になります。戦闘指揮官としてはベックス爺さんが二人にもてる能力を与えるだけ与えています。副司令職の引き継ぎ時に提督の能力をここに居るトリエル殿下にも伝えた」

「ああその通りだ。イアンを先発させたのは操艦能力と指揮能力もあるが、なにより《鷲の目》があるからだ。そして俺の目的は西部方面軍を任されたせいで、正に貧乏くじを引かされた形のレウニッツ・セダン大佐。アンタの支援救出とディーンの補佐だよ。それに東部方面では『兄貴たち』が頑張ってる。それから女房な。入れよジョセフィン」

 会議室の前に控えていたマリアン・ラムジーが厳かに入室する。

「女房のジョセフィン・シェンバッハ。いや、アネキの筆頭女官頭のマリアン・ラムジーだ。メリエル、お前の世話役だからしっくり来る好きな方の名で呼べ。それと臨時で彼女にも復帰願った。エリーシャお前も入ってくれ」

 マリアンに続いてエリーシャ・ハランも入室する。

「二人とも女皇家の騎士だが、基本的には戦闘には加えない。エンプレスガードとしてメリエル、ナファドの在陣中の世話係であり警護役だ。エウロペア大要塞守将たるメリエルと法皇ナファドを命を掛けて守るのがコイツらの仕事だ。そして、ジョセフィンはオラトリエスとの繋ぎ役でもある。カール大帝もアウザール団長も承知している彼等の実の妹だ」

 既にマリアンはリヤドで実戦を戦っていたし、カールやアウザールと再会もしている。

 トリエルが最も信頼している隠密機動だし、もともとアリョーネ女皇の筆頭女官頭だ。

「エウロペア大要塞の難点はもう一つあります。つまり、各国間の行き来が困難で援軍到着がどうしても遅れる。それで大陸横断鉄道という生命線を作ろうと考えた人たちがいた。それが、ゼダの対龍虫戦争国土強靱化計画遂行委員会。通称13人委員会です」

 ディーンの言葉に幹部たちが顔を上げた。

「そうか、《アラウネの改革》って大陸横断鉄道の建設工事がそもそもの発端だった」

「そうですね、《ナカリア退却戦》においても鉄道は重要な役割を果たした」

「我ら《西風騎士団》の退却ルートも鉄道線だった」

 海沿いの沿岸部と山脈を抜けるルートだからこそ、エウロペア大陸横断鉄道は健在でいられた。

「そしてメリエル皇女とナファド法皇の基本的な移動手段も『鉄道』になります。未参戦の各国に説得に行くとしても飛空戦艦だと危険だというのはナカリア王家のマダガスカルと、メルヒン王家のセビリアが人目につかないところで撃沈させられた例を知れば分かる通りです。鉄道も安全だと言い難いが、列車爆破されても生き残れる可能性は高い」

 それ以上に物資と人員、兵站輸送で鉄道路線ほど定期便が出せる手段も他になかった。

「今回の龍虫戦争は最短最低でも完全撃退に2年かかります。その主軸はゼダの騎士たちです。ファング・ダーイン隊を西風騎士団と銅騎士団に、ベルグ・ダーイン隊を剣皇騎士団に合流させ、フリカッセ、カル・ハーンに随時機種転換します。既に初期タイプ建造に必要な戦略物資はトリエル殿下とルイスがかき集めた。そしてこの場に居ない幹部級たる耀公明、耀犀辰、耀紫苑の三人が中心となりバスラン要塞で建造段階に入っています」

「つまり敗軍の我々に主導権はないのだとおっしゃりたいのですか?」とベルレーヌはディーンを睨んだ。

 フィーゴも睨み据えている。

 だが本心は2人とも真逆で確認事項だ。

「いいえ、『ベリア半島奪還作戦』も含めて我々の作戦行動だという意味です。だからこそベリア騎士向けのポルト・ムンザも建造していますし、シュナイゼルの基礎改修も公明主導で予定に入っています。いずれは誰かしかるべき指導者をその任に充てる予定ですが、両王家の方々の消息が途絶えた今は・・・」

 語尾を濁したディーンの言葉が全てだった。

 ベリア半島の奪還をしたいのは山々だし、そうしなければまた難民問題を課題にしなければならない。

 幸いにしてラームラントの首長たちが陸路で避難してきたが、彼等は現状では戦力でない。

 ラームラントの誇る屈強な猟兵騎士たちこそアテに出来るが、メルヒン《西風騎士団》に合流参加させているし、実態はアルバートがまだ味方にも隠している。

「つまり、奪還作戦の成否は俺たち次第ってことだよな、エクセイル公爵」

 フェルナン・フィーゴはずっと抑えてきたやり場のない憤りをディーンに向けた。

 フィーゴはセリアン国王から事実上ナカリアの現状全軍を任されてはいたが、《銅騎士団》は所詮は半端な騎士見習いたちで実戦に投入など恐ろしくて出来ない。

 ミィ・リッテなどの粒もいたが、その大半は10代後半の若者たちだ。

「どちらにせよ、アルマスまで抜かれたらエウロペアはおしまいです。ベリア奪還どころか龍毒の蔓延と物資枯渇でゼダの中枢が機能不全に陥る。《虫使い》たちはベリアと旧メイヨールに新たな生存圏を構築しますが、かわりに我々はフェリオ連邦に拠るよりなくなり、フェリオの現状をご存じなら事実上の滅亡だと判る筈です」

 400年前の《龍虫大戦》の影響が今も深刻な問題として蔓延するフェリオ連邦各領にエウロペア全土を支える余力は期待出来ない。

 今度の龍虫戦争が始まる以前はメルヒンやナカリアの方が遙かに経済的に豊かで発展していた。

 大陸横断鉄道はアストリアやロマリアにも通すべきだったが財政的に厳しいため見送られ、北フェリオのフェリオン侯都ウェルリまで通すのが精一杯だった。

 なによりフェリオの各領にはゼダへの不信感と怨恨とが今も根強く残っている。

 フェリオ連邦国民に言わせたら龍虫大戦での被害が最も小さく、真相としては《虫使い》たちと単独で和睦しようとした裏切り者たちだ。

 ナカリアとメルヒンも《龍虫大戦》での直接被害は少なかった。

 それでいて『大戦』について偽典史にはフェリオとゼダを中核とする「東軍」が勝利し、メルヒン、ナカリアといった「西軍」が敗北したと記されていた。

「アリョーネ陛下がメリエル皇女を敢えて法皇に預けた真意がそれだと思います。また、紋章騎士・・・つまりは戦地における女皇の全権代理人たる紋章騎士ルイス・ラファールの派遣はアリョーネ女皇も特記6号条項発動に気づいていて、国家騎士たちを鼓舞する意味あいでルイスを寄越したのでしょう。ですが、今はまだゼダ国内の全騎士をこの人類絶対防衛圏に送り込める状況でないという高度な政治的判断です」

「つまり、いずれは?」

「ええ、我々がここで奮戦している間に持てる全戦力を送り込める『口実』を作る。それまでは可能な限り現有戦力をもって撃退と最終防衛線内への侵入阻止に努めよということです。龍虫の戦力が集中している今回ばかりは十字軍のような特別選抜隊の活躍だけでは済みません」

 ナファド法皇を含めた全員がうなだれて沈黙した。それは時期が来るまでは「その場にいる人間だけで死に物狂いで戦え」という意味に他ならない。

「これでディーン・エクセイルゼダ公爵という立場から皆様にお伝えすべきことは全て話しました。エウロペア大要塞絶対防衛線での龍虫侵攻阻止。それしか我々ネームド人類が生き残る道はありません。それに我々がここで撃退する間も、龍毒により要塞域内での一般市民の犠牲は増えるでしょう。しかしそれをそれと悟られたらパニックに陥り、後方支援が全く望めなくなる。つまりは敗北と同じ意味になります。箝口令の徹底と防衛域内への情報遮断。その上で自由に動ける人員は現状でたった3人だけです」とディーンはナファドとメリエルをそれぞれに見据えた。

「特記6号発動時にその事実を踏まえた上で自由に動けるのはナファド法皇、メリエル皇女殿下と特例扱いの『カロリファル公爵』だけ。敢えて《剣皇機関》というけったいな作戦案を採用したのはボクもトリエル殿下も『カロリファル公爵』としてなら東の戦況視察に行けます。正直言ってカロリファル公爵本人には行かせられないし、そのことはトゥール本人が一番良く分かっています。妙な話、敵にバレさえしなければ『剣皇ディーン』として前線司令官として居た方が死の危険が少なくて済む。そして危険地帯潜入はボクかトリエル殿下の方が生還確率が高いし、それぞれに人脈があるので現地での協力を得やすい」

 『剣皇ディーン』が三人居てそれぞれ異なる性格を持っている。

 剣皇でなければ剣聖と呼ばれていいディーン・エクセイルは中原の誰もが知るとおり単独戦闘に滅法強い。

 そしてフェリオ連邦に相当な人脈を持つ。

 トリエル・メイル皇子も単独戦闘に滅法強いし、それでいて前線指揮官としても経験豊富で非凡。

 政治力も高く交渉能力と工作力もあるオールマイティな駒。

 トゥドゥール・カロリファル公爵は騎士としてはそこそこだが、軍事組織を切り回す能力と的確に戦況を読む全体司令官としての才能は高い。

 本来、剣皇は後ろにでんと控えているのが理想なので、「本来の形」に持ち込みさえすれば、優秀なディーンとトリエルが駒として動きやすくなる。

 船乗りのイアン・フューリーやフェルナン・フィーゴからしたら、海と空の艦隊戦力運用にも秀でていて、それでオラトリエスを電撃攻略したトゥドゥールこそ全体司令官向きだった。

 便宜上は「艦隊」とはいえ洋上戦力と違い飛空戦艦はあくまで単艦運用となる。

 それこそ、船足と搭載力に優れた事実上の航空母艦たるバルハラは味方艦との連携支援で本来の力を発揮するが、隠密行動に優れたブラムド・リンクは味方艦と連携しにくい。

 光学迷彩稼働による隠密性が売りなので味方のレーダー識別からも消える。

 同様にマッキャオも艦の大きさ、船足の速さと旋回性能が取り柄で、他の飛空戦艦の航行速度に合わせるとそのアドバンテージが死ぬ。

 結局、マッキャオは単艦作戦支援と艦護衛がメインとなり、一度も連合艦隊旗艦にはならずに終戦している。

 そして、大規模な戦闘では本隊に先行して対空戦力に打撃を与えて制空権確保というのがフィーゴの仕事になる。

 つまり切り込み隊長役であり、アルビオレとアパラシアの完成合流後は航空戦力運用艦になる。

 「真戦兵を戦場投下する」のは得意なバルハラと広い甲板で「飛行真戦兵を受け入れる」のが得意なマッキャオとなり、稼働時間が通常真戦兵よりも短いアルビオレとアパラシアには「止まり木」役となった。

 優秀な司令官が立体戦術を全体指揮するとなると、飛空戦艦の爆撃による作戦行動支援や増派、退却支援といった本来の仕事はしやすくなる。

「そして、メリエル皇女にはスターム家の所領たるセスタに、法皇猊下にはヴェローム公国にまずは向かって頂きます。セスタでは万一の場合に備えて私の両親が待機しています。我が父、オーギュスト・スタームの実力は息子の私が保証します。少なくとも剣聖級の働きは出来る。おそらくは我が母アローラ・スターム・・・かつてアラウネと名乗ったアークスの巫女も同様に。勿論メリエルの素性は先刻承知しています。そしてボクらの上司ハニバル・トラベイヨがエルビス公王です。もう一人のアークスの騎士たるシャナム・レオハート・ヴェローム公子、クシャナド・ファルケン子爵卿・・・ファルケン卿は剣聖レイゴールの末裔です。ボクは子爵とは古くからの知り合いですし、子爵は筋金入りの『龍虫狩り』です。まずは彼らを陣営に加えましょう」

「・・・わかったわ」とメリエル。

「善処しましょう」とナファドが応える。

「あ、ファルケン子爵は暗黒大陸に強行偵察中で戻りは少なく見積もっても1年ぐらいかかる」とフィーゴが言い足した。

「えっ?ったく、師匠はとことん団体行動がニガテなんだから。それに居たとしても『くれないの剣聖』なんであんまり期待は出来ません」

 子爵の不在はディーンはとっくに知っていた。

 敢えて言い出したのはある一人に疑いを抱いていたからだ。

「なにその『くれないの剣聖』って?」とベルレーヌが尋ねる。

 合流後にクシャナド・ファルケン子爵は《西風騎士団》に加えられるが、そのときになってアルバート・ベルレーヌはその意味をイヤというほど痛感する。

「《凪の季節》は長いようで短い。《凪の季節》の開けた直後には更に苛烈な侵攻が始まる。量産型エリシオン建造期間も、バスランの防備が完全な間だけになります。前線の将兵は今の間に鋭気を養い、ゼダの国軍は各所の警護と避難民の監視、そしてアルマスでの戦力の受け入れ体勢を整え、情報遮断に徹する」

「まずすべきことは分かりましたよ」

 事情は複雑だ。

 だからこそシンプルに考えるべきだと幹部たちは理解し、単純に自分たちの受け持ちを抜かれない事、つまりはトレドとバスランを死守することだと割り切った。

「各騎士団の司令官、指揮官はそれぞれの担当地域を調整し、部隊の再編を行って下さい。ボクはトレドの剣皇騎士団にルイスはバスランの西部方面軍に合流します。レウニッツ卿はそのつもりでいてください。なにより国土を蹂躙されたくないのは我々ゼダの者たちだ」

 それからすっかり『剣皇ディーン』となったディーン・フェイルズ・スタームは各龍虫種の特徴や戦い方のクセについて話を始めていった。


 スレイ・シェリフィスは会議の終わりにこれからはアリアス・レンセン中尉と名乗るので皆そのつもりで接してくれと宣言した。

 ディーンの説明でスレイが鷲の目持ちのレンセン家に繋がると素性を暴かれていたし、今後スレイ・シェリフィスはパルムに別の形で存在することになる。

 まだスレイ・シェリフィス中尉が完全に浸透していないうちにアリアス・レンセンと改称した方が影響が尾を引かない。

(あのハサンだけが俺をアリアスと呼んでくれることにならないとはな、皮肉な話だ)

 夜半過ぎまで続いた会議の終盤でアリアスはメリエルからホテルシンクレアにあるメリエルの私室に呼ばれた。

 生憎アリアスは幹部でも最下級だったので、この時点では部屋割りされていなかった。

 実際、用意すると言われても断った。

 中尉風情が後方の豪華なホテルを住処にしているなど、トレド在陣中の将兵達の手前悪いし、アリアスは自分の仕事のためにトレドなりバスランに常に在陣しなければならない。

 幹部扱いの偉そうな中尉相当官はその実のところ良くは思われてはいないと自覚もしている。

 ディーンとルイスはツインの部屋を割り当てられていたが二人が一緒に部屋で過ごせる機会は当分ない。

 会議の終盤に実際にディーンが宣告した通り、最大級の決戦が実施出来る段階まではトレドの守備とバスランの守備には別々に相当強い騎士を配しておかねばならず、当然だがディーンとルイスは其処に離して配置せねばならない。

 新婚夫婦には可哀想な話だがそれが現実だし、龍虫がなぜか組織的侵攻をやめる雨期こと《凪の季節》はより忙しくなる。

 部隊の大掛かりな再編と連携訓練、各真戦兵のオーバーホールもこの時期にしか出来ないし、その後の長期的な作戦計画も練り直さなければならない。

 もっとも部隊再編と実戦訓練準備はセダンやアルバートと進めていたし、アリアスは正式にトリエル、ルイス、ティリンス、セダン、アルバートらと共にバスランに着任する。

 耀家のドールマイスターたちを護りつつ、練度が低く戦力の掘り起こしが可能だが、代表のフィーゴには鍛える暇のないナカリア銅騎士団を教導騎士ティリンス・オーガスタと共に鍛えつつ、新型改修機への機種転換訓練やラムダス樹海に潜伏中の龍虫部隊の迎撃に当たる。

 現時点で『剣皇ディーン』は二人で、最大で三人体制になる予定だが何処に居ようが多忙を極めるのはわかりきっている。

 過労や睡眠不足で倒れられたりしたら困るので、前線を離れ「ホテルシンクレア」に用意された執務室で休養を兼ねた後方待機期間も必要になる。

 ただ、アリアスはもう少し先に手痛い思いと引き換えに部屋を割り当てられることになる。

 それにこの時点ではまだアリアスはメリエルを女性だとは意識していなかった。

 自身の仮面を交換し、大軍師アリアス・レンセン“大佐”として戦ううちに自分の置かれた立場と期待されていた本当の役割に気づき、更に悪意の向こう側に居た「敵」の正体を知り、為さねばならない自分だけの仕事をしようとし、ディーンにルイスがついていたように自分には想いを同じくするメリエルが居たんだと自覚して、心からメリエルを愛するようになる。

 だが、それは正に避けようのない悲劇だった。

 結果的に多くの間違いを犯し、そのことで自分たちが誰よりも傷つき、果ては多くの人々を失望させることになる。

 それでもアリアスには自分自身の運命も含めて、何一つ変えることが出来なかったことがなにより最大の悲劇だった。

 シャワーを済ませたメリエルが上気した面持ちでゆったりとしたバスローブ姿でアリアスを出迎えても、アリアスはまったく動揺しなかった。

「メル、なんだい話って?」

 お互いに立場も呼称も微妙に変わっている。

 だが、スレイとメルは今もスレイとメルのままだった。

 契約関係が成立した段階から二人の間でとりかわされることに関しては何一つ変わらないというのが二人の間にある不文律だ。

「もうちょっと照れたりしてくれないかな」

 風呂上がりで上気したメルははにかんだ。

 前から思って居たがスレイはメルを紳士的に年相応の女性扱いはしても、一人の異性として見る気は全く無いらしい。

「なにいってんだ。俺はついこの間、キミを子供に仕立て上げたんだぜ。そういうゲスなシュミはないよ」

 パルム脱出時の変装について持ち出され、メリエルはそれが遠い昔の出来事に思えて少し笑った。

 差し向かいにソファーに座るや、アリアスの方から切り出した。

「やはり、俺たちはこの戦争の間、凪の季節を除いて一緒に居ることが出来ないようだ」

「私がセスタに赴くから?」とメリエルはアリアスの言葉の真意をはかりかねたが、アリアスは小さくかぶりを振った。

「いいや違う。やはり虫使いは戦略を熟知していやがる。だからハサンが殺されてしまった」

 スレイが副官に任じてイアン少佐から譲り受けたハサン・レーグニッツは《凪の季節》に入る直前の戦闘中に殺害されてしまった。

 ある意味、最初から口封じもあっての副官選抜だった。

 《蒼きエリシオン》の秘密をやたらと口外されたくない。

 それには監視の意味も込め、側に置くのが一番適当だと判断した。

 だが、ハサンはアリアスが思っていた以上に優秀な副官として力を貸してくれていた。

 結果的にアリアスの弾除けとしてハサンは戦死した。

「ハサンてイアン少佐から貰った部下だった人のこと?」

 メリエルはそれがどうしたという態度でいた。

 人の死になんの痛痒も感じない。

 不感症なのだとか、サイコパスだからとかではない。

 「人は必ず死ぬもの、生まれ変わるものなのだ」という真理を知っているだけの話だ。

「生きていればもっと力になってくれた筈のアイツが死んだのは本当に残念だが、かわりに物凄く大事なことを教えてくれたよ。俺たちは戦闘中に遠目から狙われている。狙撃と呼ばせて貰うことにしたが、おそらく1キロメルテ近くの射程から常に狙われていると思った方がいい。それに視覚情報、聴覚情報は小型龍虫が常に収集している。聞かれていそうなところで迂闊なことは言わない方がいい」

 通常の「敵」なら、後方で全軍の戦闘状況を確認している戦術士官など狙いはしない。

 だが、《虫使い》はそれをやる。

 逆の立場でもアリアスならそうする。

 つまり、戦場内における重要性に数値を割り振り、その数値が高い標的をチャンスがあればすみやかに排除しようと試みる。

 戦略的重要目標の排除はその場での相対的敗北もチャラにする大金星になる。

 だが、どれだけ存在価値が高かろうが優秀な騎士であるディーンやルイスは敵に騙し討ちのチャンスなどそうそう与えないし、戦場では真戦兵で鎧われている。

 それでもあの二人は離して配置するべきだとアリアスは考えていた。

 おのおのが戦域いっこを担当出来る。

 ディーンにトレドを守らせるなら、ルイスにバスランを守らせる。

 そして、最重要拠点であるアルマスの安全を確実にするため、二人にも匹敵するという亜羅叛を動かさない。

 ディーンとルイスは二人で組めば実力は跳ね上がるが、まだそうした状況が必要なほどの強力な敵が出てきていないし、あまり二人とそれを自在に指揮する自分をアテにされ過ぎるのも困る。

 ディーン自身いまはまだ緒戦であり、互いに戦力分析、つまり情報精査の段階なのだと言い切っている。

 アリアス自身その通りだと考えている。

 砲撃被害を抑えるためにハウリングワーム種を、空襲被害を抑えるためにストライプス種を重点攻撃対象にはしているが、それ以上は考えていない。

 相手の考え方や狙いが完全に分かった上で、なにを犠牲にしてなにを叩きに行くか考える。

 まだその段階ではなかった。

「前線で戦っているディーンもまだ手探りで相手を分析している段階だと言っていた。にもかかわらず、俺を消しにきた。トレド視察時に突然フライアイが襲ってきたのもそうじゃないかと。あるいはそれが出来るのだと示して、俺たちを動揺させようとしている」

「それがディーンの言っていた心理面への打撃?」

 会議の終盤でディーンは《虫使い》はネームド人類側の心理打撃も考える厄介な敵だと指摘していた。

「狙われたのが俺なのにそう言い切るのは正直気持ち悪い。だが、そうとしか思えない。少なくとも主戦場から1キロメルテ離れた場所で俺の近くにいたハサンが狙撃で即死させられた。戦術指揮官の重要性を『敵』が認識している。メルだって迂闊な場所に立っていてみろ。『敵』の格好の的にされる。イアン提督だってフィーゴ提督だってブラムドやマッキャオに乗っているから他より少し安全なんだもの」

 僅か1メルテ前に立っていたハサンが狙撃で即死したとき、スレイは本当に狙われているのは自分なのだと感じ取った。

 極めて偶然、たまたまだという形だったが、即死したということは急所に当たると命奪われる兵器で狙われたという意味だ。

 こちらには長距離を正確に狙える飛び道具はないし、的にするべき対象も分かっていない。

 徹甲砲弾の精密射撃でもせいぜい500メルテ先の的に5割の確率で当てられればいい方だ。

 天才的な観測要員がいて、瞬時に修正角を割り出せれば命中率は飛躍的に上げられる。

 そうした人物に心当たりはあった。

 トリエル・シェンバッハ、あるいはトリエル・メイル皇子。

 肩書きは女皇騎士団の副司令で、戦場での役割は《剣皇機関》による『剣皇ディーン』の代役だ。

 だが、本当に優秀なのは真戦兵での無手格闘術と砲術屋としての才能。

 そしてそれに裏打ちされた前線指揮官としての非凡さ。

 謀略も含めた戦略的な頭脳と、高度な判断の出来る政治力。

 スレイはブラムドの艦橋で観測要員としてのトリエルの実力を垣間見て、イアンとトリエルはワンセットなのだと感じた。

 性格は爬虫類のようだというが、決断力に富み、理系的な頭脳を備えている。

 スレイよりも一回り二回り上の実力者であり、経験は遙かに上だった。

 敢えて大学に進学しなくても、もともと数学には滅法強いだろう。

 砲弾を照準修正で狙い通りの位置に当てられるトリエルの才能はそれが必要な場面で必ず切り札となる。

 だからこそトリエルも駒として活用出来る自分は近くに居た方がいい。

 それにアリアスやイアンには前線指揮官は無理だ。

 真戦兵にも乗らずに戦場の前に出るのは正に自殺行為だ。

 幹部会議の端っこで終始やる気なさそうにしていたナカリアのフェルナン・フィーゴ提督もまた天才的に砲戦に秀でていると聞いた。

 ハサンは決して無駄死になどではない。

 短い間だったが、ハサンが駆けずり回って寄せ集めでしかない味方の情報をスレイのためにかき集めてくれた。

 特にスレイが識らなかったベリア組や西部方面軍将校、神殿騎士団改め剣皇騎士団の幹部たち。

 作戦立案にあたり味方である彼等の能力や性格は把握しなければならなかった。

 有能だからこそ、フィーゴはイアンと同年代だというのに、新鋭の対地砲を備えたナカリア旗艦マッキャオを任されていたのだし、階級も大佐なのだし、《銅騎士団》をナカリアのセリアン“前”国王から託されて代表している。

「ある意味、死んでいい人間と今はまだ死んで欲しくない人間とがいる。人の命は平等じゃない。本当に肝心要の問題はそれぞれ一つきりの命を何処で使うかということさ」

 「いのちは消費されるものだ」というのがスレイの哲学だ。

 軍師アリアス・レンセンは仮面を外すとそうした冷徹な人間になる。

 その名と共にレンセン男爵家を離されて以来、まったく変わらない。

 その父ダリオ・レンセンを誰よりも敬愛していた。

 だが、憎悪に裏返ってしまった。

 敵に警戒されすぎた迂闊な男であり、まだ必要だったその命を無意味に浪費したという意味で、アリアスは家族を離散させたダリオを憎んでいた。

 あるいはアリアスは自身の命がルイスに狙われているかも知れないとも感じていた。

 なにしろ義理だとはいえ、あのヴェルナール・シェリフィスの孫なのだ。

 そんなのがただ居るだけでも警戒対象だというのに戦術戦闘に秀で、謀略もこなす。

 今はまだ味方を必要以上に警戒させたくないので、アリアスはヒューマニストの仮面を被って人の命が喪われることに涙する。

 ハサンの死にも本気で泣いていたように振る舞っていた。

 それに普段は陽気でチャラけているし、不幸な境涯の難民達にとってもアリアスは人気があった。

 まったく冷徹なのではない。

 自分自身の負の感情に過敏だからこそ、同じ境遇の者たちに自分と同じものを見出す。

 心の底でほの暗く燃え上がる激昂と復讐の炎。

 それに気づいているのはメリエルとディーンぐらいだ。

 騎士は力無き人々のために戦う建前だが、アリアスはなんの力も持たない人間などいないと考え、いつか来るそのときをじっと待つよう説くことにしている。

 人は死ぬ。

 それは避けられない現実だ。

 だが、何処でどう死ぬかが問題なのだ。

 幹部連中がまさにそうだ。

 他人を弾除けにしなくてもいつでも我が身を守れるのは現状では騎士として覚醒しているディーン、ルイス、トリエル、《鉄舟》ぐらいのものだ。

 あの四人は自分の価値と果たすべき役割を完全に理解していて、アリアスが望む望まないにかかわらず、それを果たすまでは簡単には死ねないと理解している。

 レウニッツ・セダン大佐もアルバート・ベルレーヌ大佐も自分が死ねば自分の率いている師団を人手に委ねなければならなくなる。

 託すに値する人物が現れるまでは、まずは自分自身の身を守らなければならない。

 別に自分の命がそんなに惜しいわけではないだろう。

 船乗りたるイアンとフィーゴは自分の船の艦橋にいれば、今の所はその身を守れる。

 だが、“本物のエルミタージュ”が《ブラムド・リンク》の後継艦を繰り出してきたり、ヒュージノーズ級が襲来するようなら、絶対防衛圏内に安全だと言い切れる場所など何処にもなくなる。

 そうなったとき、幹部達は「自分よりも価値ある誰か」のためいつでも死ぬ覚悟だ。

 現状、それが大要塞守将たるメリエルだ。

「命の捨て場所に関しては貴方自身でさえ例外ではないのね?」

「メル、誰よりまずお前だ。まだ『敵』がお前の本当の価値に気づいていないだけで、やはり早々にドロップアウトしない方がいい。そのうち命取ろうと思っても取れない位置に置く。少なくともディーンと俺はそのつもりさ。だから、エウロペア大要塞の守将はメリエルなのだとアイツは宣言した」

 ある意味、言霊的な防御策だ。

 ただのゼダの次期女皇で皇太子皇女だけでは到底物足りない。

 エウロペア大要塞の守将で精神的支柱。

 法皇ナファドにもその役割は果たせない。

 何故そこまでディーンがメリエルを立てつつ危惧するかについて、アリアスには答えが分かっていた。

「なぁ、メル。アルマスに着く直前にディーンに執拗に貴方は何者なのか?と問うていたよな。それにもう一つ気づいた。ディーンはお前を畏れている。出会ったそのときからずっと」

 真顔で凝視するアリアスにメリエルは艶然と微笑んだ。

「そうかもね」とメリエルは不敵に嘯いた。

(俺“だけ”には本音直球だな)

 アリアスは渋い表情を浮かべてメリエルを睨んだ。 

「アイツ自身、答えを出し切れずにいるルーマー教団に関して以外はアイツがすべての問いかけに正直に答えたのでわかった。お前とアイツにはほぼ血縁関係が無い」と言いさしてアリアスは睨むようにメリエルの瞳の奥を見た。「お前こそ何者なんだ?あたかも13人委員会による《メリエル計画》の中枢のように振る舞っている。だが、容姿が新女皇家連枝たちとは違っている。むしろ、ルイスの方が新女皇家の女性たちと似ていて、化粧次第でアリョーネ陛下の影武者だってやれそうだよ」

 じっさいルイスの母親は女皇アリョーネの影武者だった。

 ただ、スレイに引っ掛かるのはメリエルに似たタイプの女皇家関係者もいることだった。

 ことに耀紫苑と先皇メロウィンは体型的にも目鼻立ちについてもメリエルと若干似ていた。

 もともとメリエルは皇分家リーナ家筋だというから多少は似ていてもおかしくはない。

「スレイ、答えを聞いても後悔しないと誓える?」

 更に艶然と微笑むメリエルを見てアリアスは初めてメリエルに女性を感じた。

 だが、その誘惑に屈したらなにもかも終わりだ。

 魔法使いから操り人形への格下げ。

 そうだとわかっていて、スレイはメリエルから少しも視線を外すことが出来ない。

「私の正体は《観測者》メロウ。メル・リーナの記憶と感情を同居させているただの人形よ」

 “ただの人形”という言葉にスレイは一瞬だけ言葉に詰まった。

 表情を曇らせた後にスレイは動揺を悟らせないように慎重な態度を見せる。

「やはりそうだったか・・・それで辻褄は合う。幼少期を語るときのキミと、まるで自分自身さえ俯瞰しているかのようなキミに前から気づいていたよ。それにディーンから聞いたがメル・リーナはもともと母親から音楽的な才能を受け継ぐピアニストの卵で、音感があるので当然だが社交ダンスも幼少期から得意だった。苦手であるわけがない」

 メリエルの中にメルとメロウがいる。

 メリエルの中にいる好奇心旺盛で聡明な女の子はメル。

 そして、ドキリと値踏みさせられる計算高く高潔な存在がメロウ。

 最大の皮肉にしてフィンツが愛したのはメルで、ディーンが畏れているのがメロウなのだ。

「そしてディーンはね、シンクレア・エクセリオンの影よ。そしてルイスはルイーゼ・ランスロットの影。二人ともアタシがこのセカイに作ったはじまりの騎士たちの影たち」

「はじまりの騎士たちの影?本体なき影なんて・・・」と言いかけてアリアスは気づいた。「《黒髪の冥王》と《嘆きの聖女》。人々の召還に応え続けた宿命と呪いの話か?」

「ええ、アドルフもジャンヌもあれほど神の存在に翻弄され、心の底では人間達を憎みながら、一度も名無しになろうとはしなかった。貴方はずっとあの二人を敵に回して戦い続けたから、あの二人の本当の強さを一番よく知っていた。折れない心と裏切りにも揺るがない精神力は、エウロペアへの強い愛国心に支えられている。名前無き《龍皇子》サン。貴方はなかなか出て来なくなったあの二人を求めて“こちら側に来た”のよね?」

 《龍皇子》だと指摘されてもスレイは少しも怯まなかった。

 アイゼン、フューリーは氏族ごとエドナと共に名有り人類に寝返った。

 だが、レンセンだけは事情が異なっている。

「第1周期。つまり最初の龍虫戦争で最前線に立っていたシンクレアとルイーゼは本当に強かった。なのに二度目の戦いのあと、《使徒》を手に入れてセカイから忽然と消えた。まるで醜悪だったアリアドネによる『聖戦』を見かねたかのようにして。だけど、シンクレアの定めた第6の掟は残り、二人の子らが《真実の鍵持つ者》と《砦の男》としてセカイに残り戦いを継続させた」

 仮初めのセカイからの消失。

 期待されていた役割の放棄。

 逃げたと思われても仕方のない行為と、その後もセカイに現れ続ける影たち。

 ひょっとすると「影」は他にもいるのかも知れない。

「人は人としてふたたび生まれ変わる。《名無しの虫使い》であるか《名有り人類》かは誕生に際してそれぞれが選択する。俺は前者をずっと選んできた」

 アリアスという存在にとって「個」を消すことの方が楽に生きられた。

 その方が苦悩も苦労も知れたものだ。

 種を率い、勝利と戦果を求めて戦うことには十分過ぎるほどの意義があった。

「そうね、実験の最初の頃から貴方はミトラやエドナと並ぶ私の作った《龍皇子》だった。戦いの表に出るのはいつもエドナかミトラだった。貴方はいつも戦いの裏で全体の作戦を指揮していた。《龍皇》の影であり、あるいは代行者だった。トワント・エクセイル前公爵は、“タントおじさま”は本当に聡明で揺るぎなき知性と理性の塊よ。だから、真史知るが故に貴方こそが《名有り人類》の最大の敵だったと分かっていて、真意を図りかねてディーンには残酷すぎるとして、自らルイスに殺害を命じていたのでしょうね」

 ディーンの話していたネームド人類の敵ネームレス。

 その本質はディーンの語ったとおりネームレスである《虫使い》だった。

 やがてライザーたちが完全解析を終える群体性人類。

 個を捨て種のために「名に呪われたネームド」たちと戦う「名前無き氏族」たち。

「人類のアーキタイプとして、アタシがどうしてネームレスとネームドを用意したのだと思う?」

「実際に居たんじゃないのか?つまり、『個』にこだわる人類と『個』を棄て去ろうとした人類が。そして『個』にこだわる人間たちがキミを“創った”」

 メロウが“創られた”段階で人類は二分していた。

 情報ネットワークを中心に、世界中のありとあらゆる地域で「個」を捨てた人類たちがいた。

 彼等はありとあらゆるものを自己の判断とせず、情報ネットワーク内で形成される多数決に身を委ね、生活も知識も趣向も他人と合わせた。

「ええ、そう。そして多数派だった名無しの人たちの方がむしろ穏健だったし平和主義だった」

 自由な言論で博愛精神を貴び、集団に利する行為をし、人類種を特別に思わなかった。

 情報ネットワーク内ではお互いの姿形や人種など知らないので差別意識も解消されていた。

「いちばん信じられないのはあれほどマガールまたはエドナが求めていた大母がキミだという事実だよ、メル」とアリアスは目を伏せた。「こちら側に来ても決して本当の意味では寝返らず、種の秘密をひたすら守り、エドナ兄さんはいまは仮初めの名で《銀髪の悪鬼》として相も変わらず騎士たちを殺し続けているよ」

 哀しいことにエドナが天技指南書で騎士たちを変革しようとし、ディーンやルイスのように大筋で理解し、その真意に適うようにしたというのに、彼等は尚も主流になれずにいた。

 そして、多くの「エドナを嘲笑う者たち」がいた。

「エドナは貴方とは違い、最初からそういう素直な子よ。怒りを忘れた理性的な子。そして、アタシの真意に気づいている。名の呪いに翻弄されて尚、あの子はいまも自分を少しも見失ってはいない。どうしてそれが出来たと思う?」

 《龍皇子》だった俺にソレを聞くかとアリアスは渋面を作った。

「《名無しの虫使い》たちは戦いの記憶と技とは次世代に継承させられる。だが、エドナ兄さんは技は継いだが、その膨大なる戦いの記憶は別の者たちに委ねた。苦い失敗の記憶と反省は何者かが俯瞰した方が役に立つ。そして、メロウの血脈など求めようとしたこと自体が後悔の大元だと知っていた。その実、膨大な戦いの記憶は継承せずともその技である《真・鏡像残影》に宿っている。棄てたかったのは絶望と焦燥に満ちた苦い感情の記憶だろうさ」

 それに関してはアリアスだって同じだ。

 記憶を捨てたエドナと能力を捨てたアリアス。

 このセカイを形作る三つの書。

 メロウがネームド人類を主導するファーバの僧侶たちに記録編纂を命じた《真の書》。

 《ナコト写本》として数を増やし、膨大なる余白に戦闘記録を書き込むことで完成に近付く究極の反省文。

 そして、シンクレアがエクセイル家ら子孫たちに命じて記録させている《真史》と相反する《偽典史》。

 最後がエドナが敵として相対した騎士たちの技の究極を示した《天技指南書》。

 周期周回実験を始めたナノ・マシンの女王メロウ。

 その真意を問うために必要な三つの情報源。

 だからこそ、メロウは別世界の叡智の象徴たる《筺》と同様にそのままの形でセカイに遺させた。

「そうね、アタシはメロウの影。メロウは最初の女皇だけど、その血を後世に遺せない。つまり、エドナの期待である新たな《龍皇子》の誕生には応えられない。最初の都マルガには在位中のアタシが用意した施設があり、アリアドネ“姉様”とアタシの仮のボディが隠されていた。なにかアクシデントがあったなら仮のボディを利用して元通りに観測を続けられるようにね。でもそれだけ」

 アリアドネも事実上の初代女皇としての役割を終えた後、静かに安置されていた。

 そして、その事実を知る何者たちかが除染のために利用しようとして混乱を生んだ。

 事実は《真史》語るディーンの話した通りだ。

「ローレンツ・カロリファルが徹底的にマルガを調べて、その容れ物を発見し、年若くして龍毒で命落としたメル・リーナの記憶を容れ物に受け継がせた。だから、キミはメルでありメルでない。でもその半分はメルだ」

 一つの体に二つの人格。

 それがアリアスの見極めたメルの本質だった。

 汚れをまったく知らないメル・リーナのこころと、人類の「業」の深さに絶望しきっているメロウの影メリエル。

「そこまで判っているなら、もうなにも話すことはないわ」

 拗ねるように言うその態度こそが、なにより迷いと戸惑いの証だ。

 メルはメリエルのこころと想いと孤独を“スレイ”に教えたがっている。

 だが、冷酷な魔法使いとの契約を求めたのはメロウのこころ。

 結局、メリエルの中にいる《観測者》メロウは本質を見抜く資質と慧眼とに優れた自分の内側にいるメルに翻弄され続けることになる。

「いや、話はそこで終わらない。キミは、君たち二人は最終的に選ぶことになるんだよ。その心の中にいるメルが求め愛し続けるフィンツ。フィンツとは違い互いの秘密を守り、契約の魔法使いとしてキミと共に血塗られた道を歩むであろう俺。あるいは全て識った上でルイスと共にキミの戦いを終焉させようとしているディーン。だから、今回の龍虫戦争の結果はまったく定まってはいない。あるいはこのセカイの終焉のはじまり」

 そもそも「共食い」と「差別」、「飽食」をやめない人類を見限ってこのセカイを作ったメロウが人類に望んだのは、神などという甘えからの自立と、「差別の根源がなにか?」という実証実験だった。

 神無きセカイを作り、愛別離苦と諸行無常、隣人愛と博愛を根幹に置く仏教とイエスの思想をベースにファーバをエウロペアにおける唯一無二の教義とした。

 既に自分たちが技術的に知的生命体を創造する段階に入っているのに、いつまでも子供の甘えから抜け出せなかった旧世界、いや別世界人類。

 そして見苦しい言い訳と共に「欲望」と「創造」とをごっちゃにする。

 現にそうしてメロウは作り出されたのだ。

 そして真相はもっと残酷だ。

 別世界の各国にある創世神話や聖典でさえ、神は自らの欲望を満たすために人間を創造したとは一言も書いていなかった。

 だが、平然と道具としての知的生命を作り出そうとした愚か極まりない別世界人類。

 だからこそ、メロウの創造した人としてアリアスには安易な選択が出来ない。

 それに自身も人類の「業」の深さを痛感しているディーンが本当はなにを考えているのか判らない。

 なんでもこなし、カリスマ性を持った物わかりの良い優等生などではない。

 人の期待にはすべて応えた上でなにかを企んでいるようにアリアスは感じている。

 それに戦いの始まりと終わりとを常に意識している。

 周期周回実験が27回目を数え、焦ってもいる。

 おそらくは30回目で検証実験は終了する。

 事が終わりに近付くにつれ、もともとの人類の「業」の象徴だった《筺》から本来の姿が漏れ出るようになった。

 おそらくは《筺》の情報がすべて取り出されても検証実験は自動的に終了する。

 だからこそ、ディーンは《アークスの騎士》、《アークスの番人》として開けてはならない《筺》を守ろうとしている。

 そして、「メロウの審判」からより多くの人々のこころと魂を守ろうとしている。

 かつてディーンの祖先アルフレッド・フェリオンが「聖別」から無辜の民を守ろうとし、友情も愛情も恩義もあり、感謝もしていた人たちをその手に掛けてでも守ろうとしたようにだ。

 そのためにこの仮初めのセカイだけが持つ特性を利用しようとしている。

 ルイスが秘天技として《千手観音》を隠しもつように、ディーンもまた超絶の技を隠し持っている。

 そのヒントとしてルイスとは力の使い方が根本的に違うとディーンは語った。

 ルイスの《蒼きエリシオン》は真戦兵を構成するナノ・マシンを無限加速させるというのが、アリアスの見定めた技の本質だった。

 加速回復による力の膨張と、実在物質を構成するナノ・マシンの変換と取り込み、そして生じた莫大なるエネルギーの放出。

 自らを機体もろとも阿修羅に変える技だというのに、《千手観音》という技名にしていることにもおそらくは深い意味がある。

 阿修羅は真理への抵抗者であり、ルールへの反逆者。

 だが、千手観音はその逆で多くの手で人々を掬い上げるとされる。

 ファーバの教義の向こう側にある仏教の深淵に近付く悟った者ゆえの恐るべき技。

 そしてなにより恐ろしいのが、まだ未完成で発展途上だということだった。

 今はまだ発動条件が多すぎる。

 むっつりと黙り込んで思索に耽るアリアスをメリエルは静かに見つめていた。

 この男は自分と共にルイスが選ばなかった「阿修羅の道」を歩もうとしている。

 多くを喪い、自分自身を壊してでも真理に到達しようとしている。

 そんな、アタシだけの知るスレイに俄然興味が湧いていた。

 あるいは今回の龍虫戦争は《龍皇子》スレイの最終勝利に終わるのかも知れない。

 それを知りながらもあるいはディーンは《使徒》たるフレアールと共にアリアス・レンセンを勝利者にする。

 だが、それこそがなにがあろうと裏切らなかったエウロペアネームド人類への最大にして最後の裏切りになるのかも知れない。

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