Episode.drei.日常-B ver.1.1
終演のアナウンスと共に、観客たちは帰路へとついていきます。劇場最上段の中央付近に席を取っていた私達は、最後に出る予定でした。座席にかけたまま、ぼんやりと出口へ吸い込まれていく観客を眺めているこの時間が、私は好きなのです。
「そろそろ出ようか」
「うん」
一番最後に劇場を出ると、ガス灯が街を照らしています。強くはないが弱くもない、そんな心地よい明るさの中、街は多くの人で賑わっていました。
「……ねぇマスター。一つ、聞きたい」
「なんだいシオ?」
「マスターは、愛した人……いるの?」
しばし歩いた所で、私はマスターに尋ねました。その問いに彼はその歩みを止めてしまいました。突然の事に対応しきれず、私は少し後ろに引っ張られてしまったのです。
「マスター。急に止まるの、危ない」
「いやごめんよ、ちょっと驚いちゃってさ」
「……そんなに驚く質問、だった?」
「まぁ、うん……結構びっくりしたよ」
「そう。それで愛した相手は、いるの?」
「あぁ、勿論居たよ」
そう言って優しく微笑むと、突然私の頭を撫で始めました。
「……どうして撫でるの?」
「さぁ? なんでだろうね」
「変なマスター」
それは撫でるような、どこか愛情のこもった仕草でした。彼の手のひらから伝わる温かさは、どこか優しい気持ちになります。
「それで、その人は……今どこに?」
「────今は、もういないよ」
その答えに私は口を閉ざす他ありませんでした。彼の顔には笑みが浮かんでいますが、そこには一抹の寂しさを感じさせるのです。
「……ごめんなさい。悲しいことを、思い出させた?」
「いや、そんなことないよ。むしろ懐かしい気持ちになったよ」
「そう……」
私は、それ以上言葉を続ける事が出来ませんでした。足を止めた私の傍で、彼は何も言わずに居ます。寂しさを漂わせる笑みを崩さないまま、私のことを見つめていました。
「マスターは、その人を……──どうして、愛したの?」
「それは難しい質問だね。理由なんて後からついてくるものだと思うけど──……強いて言うなら、彼女と一緒にいると心が満たされるような気がしたからかな」
「心が満たされる……」
私にとって、その言葉は未知の感覚を表していました。数多の創作物に触れて、喜怒哀楽は理解出来ているつもりです。しかし「満たされる」という感情は、未だ掴み切れていない領域でした。
「それって、どんな感じ?」
「うーん、そうだな。何かを共有したり、分かち合ったりすることで、孤独が消えていく感じ……かな?」
「それって、愛の一つ……なの?」
「そうだと思うよ。でも、愛は人それぞれ形が違うからね。シオがこれから、自分なりの答えを見つけていけばいい」
彼の言葉を頭の中で反芻しつつ、再び歩き出しました。どちらから言うでもなく、自然と足が動いていたのです。その道中に会話はありません。しかし、その沈黙は先程よりも温かく、穏やかなものに感じられました。
その最中、私は心の中で決意したのです。愛という感情を、自分なりの形で理解し、育んでみようと。
そのためには、もっと多くの人と触れ合い、経験を積んでいかなければならないのでしょう。
──……けれど、彼と同じ様に私と触れ合ってくれる人間が、一体どれ程いるのでしょうか?
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