Episode Neun,破・解・体ver.1.1
──ゴリリ……ッ、ゴリ……ゴリ──
クラミトンの某所にて、ゆっくりと何かを削り切る音が響く。
弾力は失われ、土気色となった皮膚に食い込むのは弓鋸の刃。それは皮膚を
「クソッ、やっぱり上手くいかねぇ!」
腕を半ばまで切り落としたあたりで、弓鋸の担い手は忌々し気に愚痴る。彼女が手にしている
……とはいえ、この弓鋸は本来骨を断つ為の道具である。間違っても筋肉や皮膚を切るためのものではない。
そもそも、なげしの付いた鋸で肉を斬ったらどうなるか? 解剖学に触れて来なかった者であっても、それぐらいわかるものだろう。あんな刃で切断を試みれば、なげしが組織をズタズタに裂いてしまうのは誰の目にも明らかだ。
──彼女もそれが解っていた。
解っていたけれど、そうせざるをえない理由があるのだ。
短い休憩を挟むと、彼女は弓鋸を引き始める。
大胆かつ繊細に弓鋸を押して引く度、断面からは赤黒く変色した血液が流れ出す。相手は死体であるが故、血液が吹き出すようなことはない。
然し血液は血液だ。独特の臭いは腐臭を帯び始めており、ヌメりも増している。そういった細かな点を、彼女は弓鋸を通して感じていたのだろう。だからこそ彼女の表情には焦りの色が見えた。
──だが彼女は、弓鋸を引く速度を上げなかった。
自分の技量ではこれが限界だと、ここで焦れば重要な所を傷つけてしまうと理解していたから。
刻一刻と腐敗の進む肉体を前に逸る気持ちを抑え、それでいて慎重に刃を入れていくしか無いのだ。
──……ゴトッ。
漸く切り落としたそれを、彼女は手早く洗浄し保存容器へと移し替えた。それは非常に肉厚で筋肉質な男性の物であり、クラミトンでも珍しいものである。一般的な死体よりは高値がつくだろう。
尤も、
「くそったれが、弓鋸で綺麗に切れるかってんだバーロー!」
彼女もそれを痛感しているのか、解体が終わった瞬間──大声で不満を漏らし、使い込まれた弓鋸を床へ叩きつけたのだ。
弓鋸は壊れこそしなかったが、その行為は褒められたものではない。彼女もそれはわかっているのだろうが、即座にこのフラストレーションを解消する術が無いのだろう。弓鋸もそのままに、脈絡もない暴言を繰り返しつつ防護服を脱いでいく。脱いだグローブ等を雑に籠へ投げ入れると、今度は頭をワシャワシャと掻き乱し始めた。かと思えば、突如木製の壁を思いっきり殴りつけたりと酷い荒れようである。
それでもフラストレーションは消えないのか、雑に切り分けられた
「……リュティ?」
「なんの用だ
「うわっ、なんでそんなにキレてんだよ」
呼びかけに振り向いた彼女の顔は怒り一色であり、それを見た男達は一瞬怯んでしまう。特に新入りの彼は完全に萎縮しきっており、
「これがキレずにいられるか、クソッタレ!
あんの穀潰し、アタイの商売道具に手を付けやがったんだ! ちょっと酒が無いくらいでこんな事しやがって、絶対に許さねぇ!」
「あー……そうか、それは……あいつが悪いな」
解体屋にとっての商売道具はいくつかあるが、最も大切なのは解体道具だ。これは自身の稼ぎに直結する代物であり、どの解体屋も良質な道具を得るために苦心している。
特に
……が、念の為に説明しておく。
如何に人体構造を深く理解していようと、切れ味の悪い道具では綺麗に解体出来ないのだ。組織断面の状態が悪いと、その分腐敗も早くなり接合の難易度も上がる。
そうなってしまえば、素体が如何に良質であっても部品としての価値は暴落してしまう。それこそ二束三文で買い叩かれてしまうので、利益は出ないものと考えた方がいい。
故に良質な解体道具は金を産むガチョウなのだ。そんなものに手を付けられたとあれば、怒髪天を突くのも当たり前というもの。
「──って、お前らにあたっても仕方ねぇよな。悪い……それでなんの用だ?」
「気にすんな。商売道具に手を付けられたとなれば、誰だって怒り狂うもんだ。実はコイツの解体を頼みたかったんだがな」
「あぁ? なんだその上玉は」
「表で拾ったのさ」
「見せろ」
男の背負う
「……ボディは使い物にならねぇな、肋骨が折れて左肺をぶち抜いてら。あとはまぁ、脊椎と脳は無事だがこれは取り出せねぇよ」
折れて飛び出した肋骨を含め、全身の状態を確認したリュティは諦観した様子で男達へと向き直る。
「──取り出せねぇってどういうことだ。脳は駄目にしても脊椎は高く売れる筈だろ?」
「脊椎は高く売れるよ。けどな
「天然の脊椎ってなんだよ」
「普通に生きて育った脊椎のことさ。けどこいつのは違う……造られたものだ。
それに加えて骨の強度がありえん程に高い。二トントラックが衝突したところで骨折はおろか内蔵一つ傷つきやしないだろうさ。下手すりゃ鋸が欠けちまうよ」
「……なら、解体は出来ないってことか」
「悪いな
「わかった、ありがとう。
……それと穀潰しは見つけたら送り届けてやるさ」
「おう、すまねぇな。抵抗したらボコしてくれて構わん。死んでなきゃいい」
「おっかねぇこと言うなよ」
「あいつが悪いんだ、自業自得だよ」
こうしてリュティの店を離れ、二人は
「──お前、看板持ちには手を出すなよ?」
行き交う看板持ちが余程気になるのか、青年はすれ違う度に看板持ちの事を目で追っている。それを見かねたのか、禿頭は呆れた様子で青年の頭を小突いた。
「え、あれ
「んなわけねぇだろ。それに考えても見ろ、マトモな経営者ならあんな上玉に客引きさせねぇよ」
禿頭の言う通り、看板持ちの
グラマラスな体型であり、非常に扇情的なデザインの制服に身を包んでいる。それに加え、目鼻立ちは表世界のトップ女優を模して造られているのだ。
もし、この街がレッテル通りの街であれば──アレ等は拉致され、何処かへと売り払われる事だろう。もしくは持ち帰られて壊れるまで使い倒されるか。
いずれにせよ、悲惨な末路を辿るに違いない。
例えソレが造られた美貌であり、実態は名もなき死体であったとしても──その魅力が死んでいるわけではないのだから。
「え、ならどうして彼女らはあんなふうに一人で……?」
「そりゃお前、手を出したら殺されるからな」
「殺される? おかしいじゃないですか、兄貴。そもそも
「それはあくまでも一般的な話だ。あの看板持ちは死の商人が直接造った
「……流石に信じられねぇっすよ。あの
「信じられねぇなら信じられねぇでいいよ。
……ただし、そのツケは自分の命で払うことになる。だから誰も手出ししねぇんだ」
男の言うように、皆理解しているのだ。
あれは関われば最後、悲惨な末路を辿ることになると。
手を伸ばした先にあるものは、爛れるような甘き快楽と死の静謐。味わえば破滅しか残らぬ
──だからこそ、手を出すモノもいるのだ。
屍体と共に歩むことを選んだ者。
屍体と共に歩まざるを得なかった者。
事情は様々なれど、生きていれば肉欲というモノは生じる。
一瞬の快楽の為に死を選ぶのか?
それとも生に飽いたからこそ手を伸ばしたのか?
その理由はわからぬ。もとより、理由など探るだけ無駄なのかも知れない。もしかすると、この青年のように知らぬからこそ手を伸ばすのだろうか?
「兎に角、死にたくないならアレには関わるな。女に飢えてるのなら店は紹介してやるよ」
「えっ、あるんすか?」
「おう。ただそっちもそっちでリスクはあるが───……ほう、丁度いい」
禿頭がどの店を紹介すべきかと考えた矢先、少し前を歩く小デブが目に入った。ずんぐりむっくりとした体格のそいつは、看板持ちの手首を掴むと路地裏へと消えていく。看板持ちが抵抗する様子はなく、ちょっとした逢引にも見えなくはない。
「あいつ、あの小デブを見たな? 看板持ちと一緒に路地へ行っただろ」
「あ、看板持ちは特に抵抗しないんすね」
「アイツらは抵抗しねぇ、その方が効率良いからな」
「効率……?」
「まぁ見とけよ」
それから数分後、路地から出てきたのは着衣の一つも乱れていない看板持ちだけであった。気になるところと言えば、その手に握られた白いナップサック。何処から取り出したのかも気になるところではあるが、不自然な膨らみも気になる。
そうして看板持ちが去ってから、しばらく経っても小デブは姿を見せなかった。路地を抜けて何処かへ行ったのだろうか? 気になった青年は、恐る恐るといった様子で件の路地へと向かう。
「うっ……!」
「ほら言ったろ?」
路地へ入った瞬間、青年の目に飛び込んできたのは凄惨な現場であった。
小デブの首は顎から下がなく、脊椎を抜かれた肉体は綺麗に解体されている。四肢は関節から切り落とされ、少し離れた所に内臓は放られていた。まるで価値がない、ただのゴミだと言わんばかりの扱いである。
「──……おえっ……!」
「まだキツかったか」
──時間にして十分と少し。たったそれだけの時間で一つの命がモノに成り果てた。その現実を目の当たりにして、耐えられる程青年は強くなかったようだ。
「────あらあら〜、ハイエナさんですかぁ?」
涙ながらに吐き続ける青年の背を擦り始めた瞬間、背後から間延びした女の声が聞こえた。
「ウッソだろ、殺すのは手を出してきた奴だけじゃねぇのかよ……!」
「残念、ハイエナも駆除対象ですぅ」
振り返った先にいたのは先程とは別の看板持ち。柔らかくも明るい声だが、その芯にあるものは全く別のものだ。精神の柔らかな場所を舐るような、悍ましさといえばいいだろうか?
「俺達はたまたま通りかかっただけなんだよ、見逃しちゃくれねぇか?」
「嘘は駄目ですぅ……他の私達が見てましたよ? あの小ブタちゃんが死ぬまで、貴方達は遠巻きに見ていたじゃありませんか」
「ハハハ……そいつは誤解だって言っても信じねぇんだよな」
「死体漁りの卑しいハイエナさんの言う事なんて誰も信じませんよ?」
普段は看板持ちとして
「クソッタレ、冗談キツイぜ……!」
「俺死にたくねぇッスよ、兄貴」
こうして予期せぬ逃走劇が幕を開けるのであった。
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