Episode.Zwei. chiot─シオ─ ver.1.1
朝露の残る庭にて、屋敷の主人であるルーザーは日課の体操を行っていた。
元々運動する習慣はあったのだが、とある事情で一時期途絶えたていたのだ。その結果、定期検診で苦言を呈されたとの事。そこからは意識的に生活習慣を整え、朝の体操も習慣化させたのである。
「マスター、いた」
そんな彼に、気怠げな視線を送る
──
ただしその性能には保存状態が深く関係する為、デメリットとなるケースも多数存在した。
──例えば、経年劣化による認知機能の低迷。
──疾患による機能の喪失、及び組織の変性。
──外傷による脳組織の欠落、及び損壊。
他にも様々な事例は存在するが、どれもナノマシン無しにはマトモに機能しなかった。
こうした場合、情動を司る部位は切除され脳は洗浄される。洗浄といっても物理的に洗うのではない。記憶や人格、経験と言った個人にまつわるモノを全て消し去る。そして白紙となった脳にナノマシンを埋め込み、基本的な言語や社会的マナーを定着させる。こうすることで、製造後すぐに働けるようにしているのだ。
故に脳洗浄を受けた者達は
前者は社会に奉仕する存在であり、自治体によって管理される存在だ。それらは適切な期間、適切な運用をされた後に弔われる。そして庁舎前の慰霊碑へと名が刻まれ、年に一度慰霊祭が行われるのだ。これは死者への感謝と、尊厳を忘れない為の行事として全国で行われている。
そして後者──
どんな目的で所有するのかは個々人によるが、軍事目的でなければ基本許可される。とはいえ、所有には多くの制約が存在しているのだ。加えて維持費もかかるので、富裕層以外が所持しているケースは稀であった。
……ただし例外も存在する。生前に、自らの意志で
また極々稀にではあるが、
そして彼女──シオはルーザーの所有物である。つまりは
淡い青味を帯びた白髪の先端は紅く染まり、パッチリとしたスカイブルーの両目が印象的である。年齢にして
しかし感情の成長が遅いのか、それとも表現が苦手なのか。どちらなのか不明だが、とにかく表情が乏しい。
加えて衣服に対する興味も薄く、自発的に服を選ぶ事がないのである。
故にルーザーが用意を忘れようものなら、全裸で徘徊することも珍しくない。
製造から半年経つ頃にはなくなったが、衣類対する興味は相変わらなかった。オーバーサイズのシャツを一枚羽織るだけで、平然と表へ出ていこうとする。加えて下着を身に着けたがらないので、保有者のルーザーは頭を悩ませ続けていた。
「おはようシオ」
「……ん、おはよ」
そんな彼女の視線に気付いた彼は、汗を拭きながら片手を上げて挨拶をする。それを見た彼女は、ダボついた袖をひらひらと振りながら挨拶を返した。
そこで気付いたのか、彼は急いで彼女の元へと駆けていく。
「シオ、君はまた──」
二階のベランダにいた彼女は案の定、裸シャツというスタイルであった。そんな彼女を叱ろうと彼は近付くが、
「シオ。こっちへ来るんだ」
「
「……運動したばかりなんだから仕方ないだろう。それよりもシオ、服をちゃんと着なさい」
一歩彼が踏み出すと、それに合わせて彼女も一歩下がる。彼が手を伸ばせば、上手く身を躱して距離を離す。一進一退の攻防は暫し続き、彼は深い溜め息をついた。
「──私、この方が楽。下着の締めつけ、嫌い」
「我儘を言わないでくれ、シオ」
「締め付け、やだ」
「ソレはそういうものなんだ。下着をつけて、服を着るのは人として当たり前の事なんだよ」
「……私、人じゃないよ?」
彼女は一瞬考え込み、小首を傾げた。確かに彼女の言う通りではあるのだが、ここで言う人の意味が違う。
「…………ごめん、シオ。僕が言い間違えた。下着をつけて服を着るのは、人間社会において当たり前の事だと言うべきだったね」
それを理解しているからこそ、彼は強く言えなかったのだ。優しく諭すような声で伝えるものの、彼女に伝わっているかどうかは怪しい。
「人間社会……じゃあ、
「あるかも知れないけれど、僕は知らない。それにシオも知ってるはずだよね。
「──
彼が言い淀んだ一瞬の隙に、差し込まれた言葉は酷いものであった。意図的かどうかはさておき、あらぬ誤解を生むには充分過ぎる発言だ。彼にとってもこの言葉は予想外だったのか、信じられないモノを見たかのように固まっていた。
「……あ、肉奴れ──」
「──それは駄目だ、シオ! 誤解しか招かないから!」
そんな彼を見て何を思ったのか、彼女は更に酷いワードを口にしようとした。間一髪止めることは出来たものの、彼はやりきれない表情を浮かべている。
「マスター、声でか……」
「だとしても、だ。今のは君が悪いんだよ、シオ。そもそもそんな言葉を何処で知ったんだ?」
再びの深い溜め息。対する彼女は若干顔を
「……深夜のラジオ放送。サノバビッチ? マンの、あれ」
「そのチャンネルは禁止してなかったっけ、シオ?」
チャンネル名を聞いた瞬間、彼の表情が一気に変わる。
──余談だが、サノバビッチマンの深夜ラジオは十年近く続く人気チャンネルだ。
しかし内容が過激であり、下ネタが多い為に深夜枠でしか放送できない。都会では有害指定チャンネルにされる程だが、何故かしぶとく続いている。公式は未成年リスナーを禁止しているらしいが、そんなモノが守られるはずもない──
当然ルーザーも禁止していたのだが、その努力は実らなかったらしい。約束を思い出したらしい彼女は、気まずそうに視線を外したのであった。
「──……そう、かも?」
「そうだよ。まぁ聴いてしまったのは仕方ないけど、今後は駄目だからね」
「わかった」
嫌そうに頷くと、彼女は彼の脇をすり抜け何処かへと急いでいく。その挙動はやや人間離れしており、鍛えられた軍人であっても反応出来ないようなものであった。
「っと、何処へ行くんだ? 話はまだ──」
「──キッチン。着替えたらご飯作る……ので、シャワーを浴びてきて欲しい」
会話を断つようにして一方的に伝えると、彼女はそのままダイニングキッチンへと消えていく。彼もその後を追いかけようとしたのだが、もう既に彼女の姿はない。
「……元気なのは良いんだけど、度が過ぎるよシオ」
彼がそう独り言ちるのも無理はないだろう。ちらりと視界に捉えただけだが、彼女はパルクール地味た挙動で最短距離を飛び降りていたのだ。そんな行動に辟易しつつ、彼はシャワールームへと向かって行った。
「マスター、遅い。コーヒーとか、色々冷めた」
ダイニングへキッチンへと続く扉を開けた先には、給仕服に着替えた彼女が立っていた。
その表情こそ変わらぬが、不機嫌極まりない雰囲気を纏っている。凪いだ湖面を思わせる静かな怒りを秘めたまま、彼女はじっと彼を見据えていた。
「あ、あぁ……すまない」
「まって」
「……えっ?」
彼が短い謝罪の言葉を口にした途端、彼女は顔がくっつくギリギリの距離まで近付く。そして脇や首まわりと言った箇所を嗅ぎ、続けて全身をくまなく嗅いだのである。
「……うん、良い。臭くない」
「シャワーを浴びたからね」
「石鹸の匂いは好き……コーヒー淹れ直すから、待ってて」
彼女は満足したのだろう。驚く彼を気にも止めず、その場で身を翻し真っ直ぐにキッチンへと向かって行った。
「ねぇシオ。君は最近そればかり着ているけど、そんなに気に入ったのかい?」
淹れ直された珈琲を味わいつつ、彼は疑問を口にする。
「マスターの、部屋にあった本。そこにこーゆー服を着た女の人が沢山載ってたから、好きなのかと思って」
「君はまた勝手に私の部屋へ入ったのか」
彼女の答えにやや呆れていたが、それを彼女が気にする様子はない。彼から教わった通りの手順で抽出を終えると、予め温めていたのであろう2つのカップへと注いでいた。
「掃除のついで。でも、見つかりやすいところに置くのも悪い」
「君の言う通りかもしれないが、そういうのはやめたほうが良いよシオ」
「なぜ?」
「人の物を勝手に見るのは良くないことなんだ……誰にだって知られたくないことがあるからね」
差し出されたコーヒーカップを手にする彼の顔に、僅かばかりの影が差す。しかしそれはほんの瞬きの間に見せたものであり、次の瞬間には何時もの優しい笑みに戻っていた。
「そう。それでマスターはこの服、好き?」
影りに気づいていないのだろう。彼女はその場でワンピースの裾を軽く摘むと、その場でくるりと回って見せる。ふわりと風を孕んだワンピースの裾から覗く脚は、汚れ一つない純白のソックスに包まれていた。
「──……えっと、答えなきゃだめ?」
最後に綺麗なカーテシーを見せた後、じっと無言で見つめ続けてくる彼女。その視線に耐えかねた彼は、恐る恐るといった具合で尋ねる。
「うん、答えて。そうしたらもう、マスターの本を勝手に読まない」
「……まぁ、好きだけど。ただワンピースの色はボルドー──いや、濃紺色が好きなんだ」
「ボルドー? 私の髪色と、おなじ色……だっけ?」
小首を傾げ、髪の毛先を一束摘んで見せる彼女。それは
「近いけれどもう少し深みのある色なんだよ、ボルドーは」
「そ。なら今度は濃紺色のシャツに変えるね、マスター」
「別にいいよ。君が着たい色のものを着るといい」
「好きな色……? とくにない」
彼女は寸秒考え込むような姿勢を見せたものの、次の瞬間にはコーヒーを一口で飲み干していた。飲み終えたカップを片付けると、彼女は再びキッチンへ立つ。慣れた手付きで卵を割ると、あっという間にスクランブルエッグを作り上げた。
「マスター。これは、パンに挟む?」
「そうしようか」
「わかった」
作ったばかりのそれをボウルへと移し、ペッパーミルで挽いた胡椒とマヨネーズを粗く馴染ませ深めの皿へと盛り付ける。それとセットで運ばれたのは、厚切りの食パンとベジマイトの小瓶。
「ありがとうシオ」
「
「驚いた、今のは
「昨日、暇だから調べて覚えた。
………そんなことより早く食べよう、マスター」
彼女は対面の席に座ると、両の手を合わせて彼をじっと見ていた。彼が慌てて手を合わせると、二人はほぼ同時にいただきますと言って朝食を取り始める。
「今日の朝食も美味しいよ、シオ」
「そう? いつもと同じ味のはず、だけど」
褒められても、彼女は特に反応しない。一言だけ交わして、一切音を立てずに食事を続けるのだ。その極めて上品な所作ではあるものの、そこには人らしさというものがポッカリと抜け落ちている。
何故そう感じるのかといえば、会話がないからだろう。先の会話もそうだが、彼女から話を振ることは殆ど無い。挨拶や質問は自発的に行うけれど、基本は聞かれたら返す。ただ、それだけなのだ。
「ねぇシオ。どうして独逸語に興味を持ったのかな」
「読みたい本が、あったの」
「どんな本を読みたいんだい?」
「フランケンシュタインの怪物」
「それなら英語版があるだろうに」
「英語版はニュアンスが異なるって、書店のヘーゲルさんに聞いた。だから原版を読みたくなったの」
「そうか。もし翻訳が上手くいかなかったら、いつでも聞いてくれていいからね、シオ」
「わかった」
やはり、ここで終わってしまう。食事の主目的は栄養補給だが、それだけではない。この事を伝えたいのだが、どうにも上手く行かないのだ。
「ねぇ、シオ」
「……なに?」
「人と話すことは、楽しいかい?」
「──……………………わからない」
熟考の末に返された答えは、ただそれだけだった。けれどその答えに、彼は満足している様子である。
もしも彼女が悩まず、同じ回答をしていれば落胆していただろう。しかし彼女は考えた上で『わからない』と返したのだ。彼にとって、この違いは大きな意味を持つ。それ故に満足気な表情を浮かべたのだ。
「マスターは、話すの楽しい?」
「勿論だよ」
「そう……だから、そんな風に笑うんだ」
「うん。それに笑顔の方が、明るい気分になるだろう?」
「そう、かも?」
「わからないなら、とりあえずやってみればいいんだ」
「ん……こう?」
何処で覚えたのだろうか。彼女は自らの指で、口角を少し持ち上げ表情を変えて見せる。それは俗に言う、ニコニコ顔というものだった。
「うん、良いじゃないかシオ。可愛いよ」
「? 可愛い……?」
「凄く可愛い」
「……なんか、くすぐったいかも」
「くすぐったい? 恥ずかしいんじゃなくて?」
「恥ずかしい……うん。少し、恥ずかしい」
ニコニコ顔のまま視線を泳がせる彼女は、今までよりもほんの少しだけ、人間臭く見えたのであった。
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