第9話 二人の願い



「いいかい。海の中には危険な生き物がうじゃうじゃいるんだ。……それこそ、一度噛み付かれたら死を覚悟しなきゃいけないくらいの怖い奴らがさ。だから、君はなにも気にしなくていいんだよ。ほら、僕はこんなに元気なんだから」


 青褪めてしまった彼女を気遣っているのでしょう。


 ですが、力こぶを作って見せたその肩口には鮮血が滲み出し、肉の色と相俟って、ますます痛々しさに拍車をかけています。


「でも、さすがに少しは痛むんじゃ……」

 

「それはまあ、怪我してると思うと多少はね?」


 困ったような笑顔を見せられ、彼女の胸は痛みを増しました。


「やっぱり。本当にごめんね……」


「そんなに気にすることも謝ることもないよ。ちょっとした事故だって」


「でも、気が済まないっていうか……。食べちゃったからには、せめて味の感想くらいは伝えるべきだと思うんだよね……」


 彼女から飛び出した不思議な言葉に、さしもの彼も怪訝そうな表情を浮かべます。

 

「ん…………?」

 

「でも、びっくりしたはずみで呑み込んじゃったから、あんまり食べたって感じじゃなくて……味どころか食感さえもわからなかったの。ごめんね……」


 憮然とする彼に気付かずに話を続ける彼女。彼は耐え切れず、ついに吹き出します。

 

「…………あははっ! 君ってやっぱり、ちょっとズレてるね。そっか、僕の肉の味か……。そう考えると、君に味わってもらえなくて、ちょっと残念だな…………」


 ひとしきり笑ったあと、流れるようにうっとりと目を細めた彼は、ぞっとするほどに妖艶でした。


 いつ触れてもひやりとしている滑らかな体は、きっと想像を絶する美味に違いないのでしょうが、彼女は彼の肉の味を知らずに済んだことに安堵していました。それを気取られまいと、彼女は話を逸らします。

 

「そういうあなただって、きっと他の人魚さんとは違うっていうか……やっぱりちょっとズレてるんじゃないかと思うけど」

 

「そうかもね。だから、住む世界が違っても出会ってすぐに親しく話せたんじゃないかな、僕たち。何年経っても相容れない同族だっているのにね」


 彼は指先を水に浸して言います。付着していた微量の血液は、すぐに海に溶けて見えなくなりました。


「…………ふふ。そっか、そうだよね……」


 上目遣いにちろりと彼女を見た彼は、少し意味ありげに笑います。彼女はまたも漂い始める魔性の気配にたじろぎました。


「どうかした?」


「ここ」


 自身の唇のきわをトントン、と軽く叩いた彼。海水から引き上げたばかりの指はまだ濡れています。


 つられてまったく同じ動作をしてみせた彼女の視線は、乾燥知らずの艶やかな唇に注がれていました。


「ここ?」


「僕の血で染まって……すごく可愛い…………」

 

 突然落とされた甘い言葉に彼女が驚いて固まっていると、不意に右の手首を掴まれ、長い舌で唇をなぞられます。


 彼は血液を舐め取ったあと、今度は唇を押し当ててきました。いたずらな舌が暴れ回ることもなく、ただ互いの唇を触れ合わせているだけのキスでしたが、控えめな吐息は、かえってこの先への妄想を搔き立てます。


 背筋を駆け上がってくるじれったい快感に彼女が溺れる寸前、ようやく拘束を解いた彼は、気遣わしげに華奢な手首を撫でさすりました。


「いきなり掴んじゃってごめん。痛くなかった? キスするのに、ちょっと邪魔だったんだよね」


「大丈夫。びっくりしただけ」 

 

 このように彼はなんの前触れもなく官能的な愛情表現をしてみせることが多々ありましたが、いまだに彼女は慣れもせず、照れに照れてしまいます。


 あわれ、純情な彼女は、いまも可憐な唇に残された熱に浮かされたまま。ところが、当の本人はいつも余裕の笑みを浮かべるばかり。


 ……けれど、彼女は彼女で自信があったのです。気まぐれな彼についていけるのは自分しかいないという、思い上がりにもよく似た自信が。

 

「……さっきの話だけど。あなたもわたしも、どこで生きるものに生まれたって、きっと他の大勢とは違ってた」


 そう言い切った彼女は、今度は自分から唇を近付けます。


 どちらも瞼を閉じる気配はなく、半ば睨み合う形で鼻先が掠めたそのとき。熱を帯びた彼の呼気が彼女の柔肌を擽りました。

 

「でも、君は僕となら、僕は君となら……、いまと変わらず心を通わせられた?」


 そのときばかりは、ただ見つめ合っているだけで、お互いの考えている事が手に取るように伝わってきました。


 彼女は肩の傷に触れないようにするりと抱き着いたかと思うと、鮮やかに唇を奪いました。

 

「そういうこと! たぶん全部全部、どんな事情も関係ないの。あなたはわたしの特別なひと。わたしたちを隔てるものなんて……生きる場所、くらいで…………」


 だんだんしぼんでいく声。いつもは気にならない波の音が、いやに大きく聞こえます。

 

「そのたったひとつが、果てしなく大きな障害ってわけだ。僕はそっちじゃ生きられないし、君もこっちでは暮らせない。わかってたけど、やっぱり寂しいね」

 

「…………本当に」


 星空の下、陸でも海でもない楽園を求めるように二人は願います。

 

「「ずっと一緒にいられたらいいのに」」

 

 ともに生きられる場所よりも、より長い時間を共にすることを求めた恋人たち。二人の切実な願いは、のちに思わぬ形で叶えられることになります。


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