第8話 事件、勃発
成長過程で金色の鱗を持った人魚への敵対心を捨てた彼は、心に大きな穴を抱えていました。
以前は、宿敵である彼を叩きのめしてやろうとする気持ちを原動力として努力を重ねることができていた彼ですが、その感情を失ってからは牙を抜かれたかのよう。何事も中途半端に終わります。
そんな自分に歯痒さをおぼえていた彼は、昔のように、すべてを懸ける激しい生きかたを求めていました。
人間の居住地に近付いたのも、かつての燃えていた自分に戻るきっかけを得られる可能性を見出してのことだったのかもしれません。
そんな中、偶然出会った人間の彼女は、彼の空虚な心を優しさで満たしてくれたのです。
約束をしていない日に一度だけここまで来てみたことがありましたが、彼女のいないその日の景色は少しも魅力的ではなく、本当に同じ場所なのかと疑うほどに違って見えました。
そして、彼は気付いたのです。自分がこの場所に通うようになったのは、彼女に会うためだったということに。
彼女は他のどんな人魚とも人間とも違っていました。他者の目がある場所でくつろぐことの難しい彼も、彼女の前では不思議とのびのびと過ごせます。
理由などいくら考えてもわかりませんでしたが、それも彼にとってはどうでもいい事。
心から安らげる居場所になってくれた彼女の瞳が夕陽を美しく映し続けるためなら、どんな困難も乗り越えられる気がしました。
そんな背景もあり、彼は彼女に対しては特別寛大で、大抵の事はなんでも許してしまいます。待ち合わせの時間を間違えても、苦くてたまらない陸の珍味を騙して食べさせられても、笑って水に流すのです。
当然、彼女の嚙み癖を咎めることもしませんでしたが、力加減に関しては少し注意しておく必要があったのかもしれません。
とはいえ、彼の痛覚は頑丈な人魚たちの中でもとりわけ鈍いものでした。
その鈍感さときたら、オニオコゼに気付かず触れてしまっても、あっけらかんとしているほど。毒さえ退けてしまう彼は、普段から別の意味で他の人魚たちに心配されています。
そんな具合ですから、注意などできようもなかったのでしょう。
その日もやはり彼に抱き着いた彼女は、肩口にかぷかぷとその歯を突き立てていました。
最初は甘噛みだったのが、だんだん、だんだん顎に力が入って……いつもと違う様子に気付きながらも、彼は特に止めることもなく、彼女の背中をさすります。
彼女は彼の筋肉に自分の歯が沈んでいく感触に酔いしれていました。こうしているあいだは、彼は自分だけのもの。彼という存在を縫い留めるように、その歯を食い込ませ…………。
ついに彼女は、彼の肩口を齧り取ってしまいました。
最初に違和感に気付いたのは彼女のほうでした。
彼に嚙みついていたはずなのに、上の歯と下の歯が音を立ててぶつかったことに驚き、咄嗟に口を離したその刹那、喉を異物が通過したのです。
目の前には、小さく抉れた彼の肩。瞬時に自分のしでかした事を悟った彼女は、深々と頭を下げました。
「ご、ごめんなさい!! わたし……なんてことを…………」
「え? 急に大声なんて出して、どうしたの?」
彼はなんと、なんの痛みも感じておらず、事情を飲み込めていないようでした。
「……痛くないの?」
「痛くはないよ。噛まれてた感覚は残ってるけど」
「なら、よかっ…………いや、全然どこもよくないっ!」
いまにも泣き出しそうな顔の彼女を見て、彼は不思議そうに首を傾げます。
「本当にどうしたの。落ち着いて説明してほしいな」
「あの、わたし……あなたの肩を、その、食い千切っちゃって……。しかも、それを飲み込んじゃったみたいなんだけど…………」
彼は噛み付かれていた左肩に触れました。首の側からなぞっていくと、わずかなへこみに当たります。指先には少量ながら血液も付着していました。
なるほど、彼女の言っている事は事実であるようです。
「なあんだ、そんな事か」
彼は状況を把握してなお、落ち着き払っています。
「え…………?」
怯えたり気味悪がらたりすることを覚悟していた彼女は、少しも動じていない彼の様子に目を疑いました。
言葉もまともに返せずにいれば、軽い手当をする素振りも見せない彼から質問が飛んできます。
「君、海で泳いだことはある?」
「そういえば、あんまりちゃんと泳いだことなかったかも。故郷に海はなかったし、あなたに出会うまでは『入る』ものじゃなくて『見る』ものだと思ってたから」
「なるほど。それでか……」
彼は思案顔で何回か頷きました。そういえば、二人がいつも会っているのも大して水深の深くない場所です。
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