第3話 キリンは2039年、ゾウは2044年、ハイエナは2070年
「カロリーだけをゼロにできる痩せ薬は人々の大食を加速させた。トマトが健康に良いとなれば、トマト一個分の摂取量になるだけ人々はピザを食べたし、太陽を浴びないとビタミンDが生成できないとなれば豚バラ肉を大量に食べた」
「豚バラ?」
「おいしいかったんでしょ?私、最後に食べたの50年前だから覚えてないけど」
「ビタミンDが豊富なんだっけ?」
「はぁ…薬の開発者なのに分かってないわね。カロリーゼロで栄養だけを摂れるんだから、ビタミンDの含有量が低かろうが、大量に食べればいいのよ」
「ああ、そっか」
「胃はもたれ知らずで、腸は便秘知らずの快便なんだから」
「その通りだ」
守はノートPCに視線を落としたまま頷いた。
そんな事はメモ取らなくても良いだろう…という事を含めて、少女が語る未来の話を一語一句逃さない構えだ。
「ちなみにその栄養選別型ヤセ薬だけど、最後までタンパク質の選別はできなかったようね。タンパク質はカロリーと一緒に排出されてしまう。タンパク質だけ摂取したい、という要望は世界中の男性からあったけれど」
少女がそう言うと、守は苦々しく笑った。
「あぁ、そりゃ無理だよ。愚民どもは要求するだけで何もわかってないんだから」
守本人は気づかないが、思わず彼の世界観が露呈するセリフを吐いていた。
……大学院生にして天才的な薬学であり、今時の若者らしく力の抜けた小奇麗な格好をして、身長は十分満足できる176cm。綺麗な肌に、完璧に剃られた髭に、優しそうな笑顔……それは全てうわべだけだ。
少女はそう思った。そう思いながら相槌だけした。
「タンパク質は栄養ではないの?」
「タンパク質はビタミンとかの栄養素とは違う。タンパク質はそれ自体にカロリーがあるので、タンパク質を摂取するということはカロリーも摂ることになる。この2つは切り離せない。完璧な痩せ薬を目指すなら排除するしかないんだ」
守は続けた。
「もしタンパク質は摂取する痩せ薬を与えたら、例えばメンチカツを食べたときに多少のカロリーを摂取することになるから、民衆は『痩せ薬の性能をあげろ』と騒ぐにきまってる。何もしらないくせに」
「なるほどね…。ともかく」
少女は続けた。
「タンパク質だけは一日の実摂取カロリーの中で摂らないといけないから敢えて薬を飲まずに食べる朝食でフォローして、それ以外の昼食、夕食、夜食は薬を使うのが2040年の人間の生活スタイルになった。全人類の平均の仮想摂取カロリーは1万キロカロリーほどになったの。貧しい人を含めた平均でよ」
「全人類でか。なら薬はいくらなんだい?」
守は相変わらず、少女の話をPCでメモしながら質問した。話を前に進めるための効果的で理知的な質問だが…その薬の開発者になるという咎は見せず冷淡だった。
「次に説明する貨幣経済がぶっ壊れる件と平行するので、値段はうまく表現できないけれど…そうね、たとえば2時間のカロリーシャットアウト効果を持つ1錠はティッシュ10枚と同じ価値になった。20錠入りとティッシュ一箱が同じ価値だったから」
「ずいぶん抑えられたなぁ!」
「ま、そんな感じでみんなが食いまくるようだから当然、食糧不足になる。食料はインフレし、儲かるモノだからアマゾンの93%は農地になった。それでも足りない。ざっくり言えば、それが第三次世界大戦の引き金よ」
守はメモをとりながら「ん」とだけ相槌して次を促した。
「農業が主力産業の国は貧しい国が多いでしょう?でも、それらの国が儲かり出す。経済の中心に踊り出て交渉力も持つ。経済制裁ならぬ、食料制裁を発動できるようになる。「お前の国に鶏肉を売らんぞ」と。……しゃべっていて思ったけど、石油と同じね」
「人が1日に必要なカロリーが2000で、車が8km進むのに必要なガソリンが1lで、PCが1時間動くのに必要な電力が25W/hである、という前提で成り立った
「ほんと、頭の回転は速いのね…」
少女は透明な感情で呟き、続けた。
「ゲームの比喩は私には分からないけど、まさにその通り。2040年代は全てを押し流す大波のように
「ゾンビ映画あるあるだね。カタストロフの世界だ」
守はメモしながら相槌した。
「そう。まさに‟フードストロフィ”と造語された。けれど事実は映画よりもっと悲劇的だった、ある意味では」
「ほう」
守の相槌は的確だが、しかし「ほう」とは悲しすぎた。
「なぜかといえば、そのフードストロフィが始まると、それより前の時代に金融や第二、第三次産業で覇権を握っていた国は衰退を始めるけれど、まだ彼らには軍事力が残されていた。自分達が衰退する前に、急速に発言権をつける農業国から穀倉地帯を奪いとろうとした。あ、あと日本も戦争に巻き込まれるから」
「だろうねぇ。水資源?」
「それもあるけど海。日本の排他的経済水域は多くの魚が捕れる。人間のためにカロリーを産んでくれる海よ」
「どうなる?」
「……それは教えないでおくわ。ただ、私の故郷、シンガポールは解体された。元々、金融で成り立っていた国だから。食糧自給率が30%以下の国は軒並み崩壊するか、武力があるなら他の国に喧嘩をふっかけた」
「酷い話だ」
守はちっとも酷くなさそうに言った。
「地球環境は?まぁ想像がつくけど」
「豚がビニールハウスに侵入して去っていった後のように、ペンペン草の一本も残らない」
「もっと具体的に」
「マグロは2042年、サーモンは2049年、西洋人に人気がなかったカツオでも2057年に絶滅した。食べ尽くされて」
「直接、食べるわけでない動植物の被害も大きいよね?」
「当たり前でしょう。さっき言ったけど、アマゾンは93%が農地になった。どれだけの種が絶滅したか分からない。イエローストーンもオルレアンもスマトラも森という森は農地に変わった。それに遺伝子操作で強烈な乾燥耐性を持つ麦が登場したのも大きかった。全てのサバンナはその麦の畑になった。マサイマラもセレンゲティも」
「サバンナもか。いわゆる動物図鑑の表紙達は全滅だな」
守は冗談のつもりか、変わった表現をした。
「ええ。2039年のキリンの絶滅から始まって、ゾウは2044年、最後まで頑張ったハイエナも2070年に絶滅した」
「ふぅん…。ま、自然の惨状は分かった。また人間の話に戻そう。戦争で核兵器は使われた?」
「いえ、核兵器は使われなかった。そこだけは
少女は伝えたい事を言い終えたのだろう――熱心な口調から冷めてファミレスのメニューに手を伸ばした。
「頼んでいい?この時代のお金は無いけれど」
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