第2話 2035年、平均摂取カロリーが6万の時代


「そののよ」


 今度はチョコサンデーのバナナ片を頬張りながら少女は言った。

 このファミレスには申し訳ないが、ただのフィリピンの工場農場プランテーションで量産された安いバナナのザク切りを少女は妙に感慨深げに噛みしめた。

「……」

 まるで彼女にとっては、これから世界が滅ぶどこうの話はどうでもよく、ただこの一瞬、この美味さに打ち拉がれるように長く瞳を閉じた。

「あぁ……甘い」

「甘い?そんな事はどうでも良いからさ…よければ…」

 守は座り直しながら言った。

 合成皮のソファがギュウと鳴って、誰も居ない午前10時45分のファミレスに響いた。外は絶望的な曇天で、このファミレスを残して世界が終わってしまったかのようだ。


「スプーンを置いて、ちょっと説明してくれないか?」

「そうはいかない」

 少女はきっぱり言った。

「ソフトクリームが溶けかけている。急いで食べねば」

 守は苦笑した。

「いま世界が滅ぶという話をしているのに?」

 少女はハムッ、ハムッとソフトクリームを頬張りながら言う。

「未来から来た私には、ハム!過去の話に過ぎないもの、ハム!あなただって、ハム!東条英機が総理大臣になったときの話より、ハム!今日からグラコロバーガーが販売開始する話の方が大事でしょう?ハム!」

「未来人なのに詳しいね」

「調べまくってから過去に来た、ハム!」

急いで食べなくていい」

 少女はここでスプーンを置いて愕然とした。

 悲憤、驚嘆、皮肉、諦念…すべての感情が混然一体となって、もはや彼女は静かに笑ってしまった。

「…はは。あはは。そうね、じゃあ話しましょう」

「ああ、そうしてもらえると助かる。ウィルスとか薬害とかでなく、なんで美容用のというんだい?」

「そうね…」

 溶けかけのソフトクリームを、死にかけの猫でも見るような目で凝視しながら少女は頷いた。

 一方、守は少女の機微にはなにも気付かず、薬のデータが入っているというそのノートPCをメモを取るために開いた。「やっと未来の情報が聞けるぞ」という気持ちは分かる…しかしそれはあくまで自分のための動機であり、良いとされる向上心とか‟意識高い”とか‟自分磨き”に基づく行動の一部が、時にして相手を置き去りにしている事は気付かない。

 守は、そういう人間なのだ。

 さすがはを世に放つ男である。


「ふぅ…」

 少女は深い溜息をつき(それにも守は気付かない。ソフトクリームを一気食いしたせいだと思っているほどだ)言葉を選んだ。

「では、分かり易いところから言いましょう」

「OK」

「今から十年後、2035年。セレブと言われる人々の6

「仮想?」

「アナタの薬でチャラになるから」

「あ、なるほど」

 守はノートPCのキーボードを叩きながら軽妙に頷いた。

「だから仮想か。普通に胃腸が吸収したら6万キロカロリーだけど、薬が効いているから実摂取カロリーはゼロ……ということだね?」

「そう。太っている痩せているの話ではないわ。お金持ちは全員スリムに決まってる。日本と韓国の美人であることで金を手にした女たちの間ではが流行し、その女たちにモテたいジジイ連中はパン粉の代わりにアーモンド粉末を使ったトンカツをマカダミアンナッツの胚乳で作った代替米でかっ込む」

「ナッツは精力をつけるからな。ところで、クッキーバター?バタークッキーじゃなく?」

 守はPC画面に視線を注いだまま訊いた。

「バターを練り込んだクッキーと逆。バターの塊に砕いたクッキーをまぶすのが、クッキーバター。バター1本ぺろりよ」

「うぇ…」

「そこなのよ」

 少女は守を指さした。

 6歳の短い指と柔らかそうな爪が22世紀に生き残った全ての人類の怒りを代弁している――のをメモを取るのに夢中な守は気付かなかった。

「気持ち悪くなるわよね。…けれどそうじゃない。アナタが作るやせ薬の悪魔的なところは快便よ」

「ああ。その通りだ。それを意図して僕の薬は開発されている。カロリーの吸収を止めるということは胃腸に負担をかけないという事だから、それを利用することで快便は達成できたのさ」

 守は悪びれることなく、むしろ「僕の作った薬はすごいだろ」と誇らしげに言った。


「そう。胃腸は疲れず排便に注力できる。そして、汚い話だけど快便は食と対を成す生物の最も根源的な快感なのよね。赤ちゃんがウンチを上手く出せずにぐずり、ウンチが出せると穏やかに眠る……そういうことよ」

「食べる、出す、は動物型単細胞の頃から30億年続けてきた営みだから」

「ええ。そしてアナタの薬を飲むと快楽と言って良い快便が保証される。食べれば食べるほど見事なアレが出せる。この時代には、わざわざSNSで他人に大食いを見せびらかす人っているんでしょう?22世紀の人間に言わせれば、そういう人たちってこれから見事なクソを産みますよと宣言して回っている変態ね」

「あはは。それは、言い過ぎ」

 守は吹き出し、やっとPCから視線をあげた。あげて、ハッとなった。

 少女の目が怒りに満ちていたからだ。

「食べ物がない未来から来た人間からすると、そうも言いたくなるわよ。ご先祖達はなんてバカをやっているんだろう、と」

「……で、でもさ」

 さすがの守でもその悲憤に気付いたが、受け止める器量は彼には無く

「ともかく話を戻すと…セレブが僕の薬で飽食グルメを謳歌したからといって、それで世界が滅びるかな?仮に金持ち連中が毎日6万キロカロリーの牛肉やマグロを食べていても、食料危機には陥らない気がするよ」

 少女は長い溜息を吐いた。

 未来の老婆の記憶と意識がこの体に宿っているとしても脳は6歳のままなので、感情の制御が難しいのかもしれない。

「初期型の発売から3年後…つまり2038年、アナタは薬の決定版を開発する」

「決定版?」

「健康への付与効果を持ち、しかも安いという『痩せ薬ver.2』が発売された」

「ああ、前者はいま研究している内容だ。そして後者はまぁ…他の化学者かAIが最適化して達成できるだろう」

 守はさして驚かずに納得した。

 彼は製薬に関しては悪魔的な天才のようである。

「しかしの完成は13年後か…。その頃、僕は38歳だ」

 守は遠い目をして未来に思いを馳せた。

「その栄養選別型、世間的には健康増進タイプの発売が完全に人類にトドメを刺したの」

 守はまたノートPCに視線を落とし、メモに戻った。

「待って待って。2038年に発売…と。ってことは治験を含めて、きっと研究は2034年ぐらい完了している事になるかな。で、それからどうなるだい?」

「カロリーだけをオフにできる栄養選別型は人々の大食を加速させた。トマトが健康に良いとなれば、トマト一個分の摂取量になるだけマルゲリータピザを食べたし、太陽を浴びないとビタミンDが生成できないとなれば豚バラ肉を大量に食べた」

「豚バラ?」

「安くておいしいかったんでしょ?私、最後に食べたの50年前だから覚えてないけど」

「ビタミンDが豊富なんだっけ?」

「開発者なのに分かってないわね。カロリーゼロで栄養だけを摂れるんだから、ビタミンDの含有量が低かろうが、大量に食べればいいのよ」

「ああ、そっか」

「胃はもたれ知らずで、腸は便秘知らずの快便なんだから」

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