記憶を取り戻す

子どもが池に落ちる音は案外静かなもので。当事者であるファビアン以外、シャーロットが池に落ちたと気づく者はいなかった。

紛い成りにも第1王子。周囲への気配りは悪い意味でできていたのだろう。


「ふんっ。ブスが俺様に楯突くからだ。少し池で水浴びして頭を冷やすんだな」


捨て台詞を吐いてその場から立ち去ろうとしたが、タイミング良いのか悪いのか、サミュエルが飲み物を持って戻ってきた。

サミュエルは王子に気付くとすぐに最敬礼を行った。


「お初にお目にかかります、ファビアン王子。リヒター伯爵が長男、サミュエル・リヒターでございます」

「グラスが二つ……。サミュエルといったな。お前、一人できたのか?」

「いえ。父と妹と共に」

「ほう…。老竹の女はこいつの妹だったか」


サミュエルの眼鏡が光った。リヒター伯爵家はまだ王家に挨拶を行っていない。この方は妹の髪色を知らないはずだ。なのになぜ…。それにここで待っているはずの妹はどこに行ったのか。あの賢い子が勝手にウロチョロ動き回るなんて考えられない。


「失礼ながら、殿下。なぜ妹の髪色をご存じなのでしょうか?」

「なぁに、少し灸を据えてやっただけだ。そのうち“あがって”くるだろう」


にやりと笑みを浮かべるファビアンの顔に違和を感じ、サミュエルは慌てて視線を周囲に配った。池からプクプクと小さな泡が浮かんでは消えていく。


「シャロっ!!!」


シャーロットのときとは違い、バチャンとけたたましい音を立てて、サミュエルは池へとダイブした。

その音にようやく周囲も池で起こった何かしらの事件に気付き、池のほうへと関心を向ける。

8歳のファビアンほどの身長があればどうということもない池の深さだろうが、5歳のシャーロットや6歳のサミュエルにとっては足がつかない深さだ。しかも池の底にはツタのような藻が茂っており、足を取られたらひとたまりもないだろう。

藻に注意を払いつつ、シャーロットを探す。


「っ?! 父上っ! 衛兵をっ!!」


池から顔を出し、父の姿を確認したサミュエルは衛兵を呼ぶよう叫んだ。緊迫した息子の様子と愛娘の姿が見えないことから、父は我が子が池に落ちたと推測するに易かった。


「えい兵っ!」


父が衛兵を呼ぶより先に、幼い声が高らかに響く。

バイオレットよりも少し青みの強いアイリスカラーの少年が第2王子のエミールだと知り、父は最敬礼を取ろうとしたが、「不要だ」とジェスチャーを受けた。



「この場は、ぼくがあずかります。体をふくものと、第2応せつ室でだんを取るじゅんびを。リヒター伯、ご子そくと…」

「…溺れているのは娘かと」

「わかりました。ご子そくとごそく女といっしょに第2応せつ室をお使いください」

「エミール殿下、ありがとうございます」


衛兵たちに引き上げられたシャーロットは青白い顔で一向に目を覚まさない。横でずぶぬれになったサミュエルが必死にシャーロットの名前を叫んでいる。





「あぁ、もう2時か……眠いはずだよ。あれ? 最後にご飯食べたのいつ…?」


連日、決算月の月末対応に追われ、プラスアルファで新規案件の依頼や新人のフォロー・教育。猫の手も借りたいほどの忙しさで、寝る間もご飯の時間も、寸暇を惜しんでパソコンに向かい仕事に取り組んでいた。仕事は充実しているものの、決算月の処理対応だけは何年たっても目が回るほど慌ただしい。

例年ならもう少し余裕があるのだが、今年はサブで入っている案件でのメイン担当者が、このタイミングで産休に入ったこと、厄介なクライアントからの厄介な言いがかり・難癖も忙しさの要因としてあげられるだろう。

子どもが生まれるのは喜ばしいことだが、負担は3割増しで、ここ3週間は『ノー残業デー? なにそれ?おいしいの?』状態だった。

言いがかりや難癖については言わずもがな。


「とはいえ、この忙しさもあと1週間で落ち着くはず…っ!」


あと一頑張り、と頬を叩いて眠気を飛ばそうとしたが、一向に去ってはくれない。おなかの虫も大合唱を奏でている。

冷蔵庫の中にはエナジードリンクの箱がどや顔で居座っており、申し訳なさそうに納豆がそばに控えていた。米はもちろん炊いていない。

彼女はエナジードリンクを一気に胃の中に流し込み、リフレッシュのためお風呂場へと向かった。


「今月の勤怠エラーチェックに、請求書の作成、送付。あぁ、仕訳入力処理も進めなきゃ。それから新入社員の入社対応に、スケジュール調整、MTGの設定に、それから………」


残っている業務を指折り数えているうちに大波の睡魔に襲われ、そのまま湯船に落ちていった。





遠くで名前を呼ばれている気がする。

聞きなれない声に、聞きなれない名前。それなのになぜか“私”を呼んでいると感じた。

ゆっくりと目を開けると、エメラルドグリーンの髪色をした男の子が大粒の涙を湛えてこちらを覗き込んでいた。


(この子は、誰…?)


「シャロっ! よかった! 痛いところや苦しいところはないか?」

「えっと……」

「サム、落ち着きなさい。シャロ、状況はわかるかい?」


男の子と同じくエメラルドグリーンの髪をした壮齢の男性が心配そうにこちらを見つめている。

“私”に言われていると思ったので、ふるふると首を横に振った。


「お前は池に落ちて、藻に足を取られていたんだ。どうして池に落ちたのか、覚えているかい?」


(池に、落ちた…? いいえ、私は自宅のお風呂で寝てしまったはず……)


ズキンと頭が痛む。視界がぐるぐる回って体と心のピースがうまくかみ合わないような感じがして気が遠のく。


「シャロっ?!」


男の子の泣き叫ぶ声に返事はできなかった。





“私”は誰?


“わたし”はリヒターはくしゃくけのじじょ、シャーロット・リヒター。


“私”は太田莉子。社会人5年目。在宅勤務でオンライン秘書をしているわ。ここはどこ? 私はお風呂場で寝てしまって溺れたはずなんだけど…。


ちがうわ。だい1おうじにつきとばされて、いけにおちてしまったの。ドレスがおもたくなって、あわてて、てとあしをバタバタさせたら、ひだりあしがうごかなくなったの。


エナジードリンクの過剰摂取が原因ね。気づいたら3食エナジードリンクの日もあったし…。


くらくてこわくて、でもこえがでなくて。だれもシャロがおちたことにきづいてくれなかったわ…。


毎年乗り切れるから大丈夫だろうってタカをくくりすぎていたわね。もっと早くSOSを出せばよかった…。


それにあのおうじさま、シャロのこと「ブス」っていったの。あのかたのふきょうをかうことなんて、シャロしてなかったはずなのに、つきとばされたのよ…。


いや、SOS出したところで忙しいのはみんな一緒だったしな…。せめて厄介なクライアントさんの管理がしっかりできていれば、忙しさも少しは軽減されていたかもしれないわね…。


ひどいやつあたりよ。あんなの、しんしがすることじゃないわ。


そう、八つ当たりよ。こちらに非は一切なかったんだもの。自分の不満を立場が弱者の私にぶつけてきただけ。とんだお子様だわ。


そんなかたが、おういだい1けいしょうけんをもっているなんて。あのかたもマリーせんせいのレッスンをうければいいのよ。


そうね。マリー先生のレッスンはトップクラスに厳しいもの。殿下は及第点を取るのに何日何十日かかるかしらね?


いやみのおうしゅうにも、たえられないんじゃないかしら?


あぁー。結構チクチク言ってくるものね。嫌みを言われたときの切り返しも貴族にとっては必要なことですもの。……え、まって。私貴族じゃない。ただの一般人よ?!


いいえ、あなたは“わたし”。“わたし”はあなた。リコ、“わたし”をおもいだして。“わたし”をたすけて――





天使の彫刻で彩られた天蓋付きのベッド。身体全体が羽毛に包まれているかのように柔らかく心地よい。キョロキョロとあたりの様子を伺ってみたが、周りに人はおらず、豪華すぎる部屋の扉がどこなのか認識できない。

行動範囲を広めるためにベッドから起き上がり、ふとお人形のような可愛らしい容姿の女の子の姿が目に入る。


「いいえ、これは“わたし”」


鏡に映っているのはシャーロット・リヒター、つまり“私”だ。


「てんせいした、…いや、きおくがどうきした、といったほうがいいのかしら?」


思えば、5歳にしてはよく口が回る子どもだった。賢いと言えば聞こえはいいが、学力的なものではせいぜい中の上。前世、というか転生前の27年間の人生経験があったが故の容量の良さと頭の回転の速さだったと思えば納得がいく。

今までの5年間にもきっと“私”は存在していた。しかし、思い出すに至らなかったのはきっかけがなかったからだろう。

不幸中の幸いというべきか、第1王子に突き飛ばされ池で溺れたことで、“私”だったときの記憶をはっきり思い出した。


「こんなにかわいいごれいじょうに『ブス』はあんまりよね」


それにうっすらと覚えている、助けられた時のことを思い起こす。池から引き揚げられた時には第1王子の姿はなく、代わりの別のバイオレットの髪をした男の子がいた。おそらく第2王子だろう。王家の王子が2人も伯爵家令嬢のもとに揃うとはなんとも都合がよすぎる話だ。王子たちは上流貴族の挨拶を受けていたのではないのか。挨拶に休憩時間でもあるのか、とツッコミを入れたくなる。


「やっぱり、おうじさまなんていきものは、しんようならないわ…」


5歳児らしからぬ険しい表情を浮かべていると、コンコンと扉を叩く音が鳴る。


「あぁっ、お嬢様! お目覚めになられたんですね! 今すぐ伯爵様をお呼びいたします!」


やってきたメイドは破顔の表情で部屋を出ていく。

しばらくして、すこしやつれた顔の父が部屋に飛び込んできた。


「シャロっ! あぁ、シャロ…心配したんだよ。もう大丈夫なのかい?」

「おとうさま、ごしんぱいをおかけしました。もうだいじょうぶですわ」


マリー先生仕込みの淑女の笑顔を浮かべる。“普段通りの”大人びたシャーロットの表情に父は安堵の笑みを浮かべた。


父の話を聞くに、どうやらシャーロットは3日3晩寝込んでいたそうだ。

当然、幼気な幼女が池で溺れるという事件があったので、ティーパーティは即お開きに。サミュエルは第1王子の言動からファビアンが何かしら関わっていると疑っていたようだが、こちらも当然ながら証拠不十分&ロイヤルパワーで無罪放免。もちろんシャーロットに謝罪なんてない。

謝罪の代わりに、第1王子の婚約者の話が上がったが父もサミュエル同様、第1王子に疑念を抱いていたため、断固拒否したらしい。王家からの打診を断固拒否だなんて、父もなかなかである。

さらに、中立派だったリヒター伯爵家は愛娘を救ってもらった恩義から第2王子派へと鞍替え。一連の流れを聞いた姉の嫁ぎ先であるクライン侯爵家も中立派から第2王子派へと傾いたそうだ。

たしかにファビアンが王位継承権第1位ではあるけれども、国王はまだ王太子を任命していない。国の外交を担うクライン侯爵家と法を担うリヒター伯爵家が第2王子派に傾いたことにより、全体のバランスが大きく揺らぐことになるのは必至。

それを危惧して、同じく中立派だった現宰相のミュラー公爵家が第1王子派へ与することとなった。生贄と言っては言葉が悪いかもしれないが、シャーロットと同じ年のミュラー公爵家の長女、エミリアがファビアンの婚約者となったらしい。

しかし、父の言葉を汲み取ると、ミュラー公爵家が第1王子派になったのはフェイク。エミリアを使ってファビアンのさらなるあら捜しをするのが真の目的のようだ。

そう考えると、第1王子の素行の悪さを利用した第2王子が自分の地盤固めのためにシャーロットのことを利用したのでは、と勘繰ってしまう。


(やっぱり王子なんて生き物、信用ならないわ)


莉子も大きく首を縦に振った。

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