第268話
「……ふむ、本当にあっという間だな。 やはりテレポートというのは容易にシナリオを崩壊させる、扱いにはくれぐれも注意せねばな」
「正確に言えば吾輩の能力は転移ではないが……よくも無事に戻ってきたものだ」
東京地下に広がる放水路の一角。 あらかじめ集合場所と決めていたポイントに九頭の姿が現れる。
その手には破り捨てられた人型の紙が握られ、役目を終えた紙面からは細かく書き込まれた座標の数字と「破損時下記地点緊急退避」と書かれた文字が消失する。
「安蘭、君の能力はダメだな! 汎用性が高すぎる、ここまで便利では逆にシナリオでは扱いにくいぞ!」
「吾輩、SICKにいたころはそれなりに優秀な能力と評価されていたのだが。 このような形で
「そうか、では貴重な体験をしたな。 小説を書く糧にするといい」
「解せぬ……それで、どうであった?」
「さてな、だが賽は投げてきた。 これからどう転がるかはわからないから臨機応変に対応しよう」
「つまり草案もなく原稿は白紙という事か」
「いやなら降りるか? SICKに寝返るならば今の内だぞ」
九頭の意地悪な提案に、江戸川は少し考える素振りを見せる。
しかし何かの数字を指折り数えると、十を超えたあたりで首を横に振ってよぎる邪念を振り払った。
「やめておく。 吾輩その時は稲倉に殺されるであろう、彼奴から借りた金を返していない」
「それは早めに返しておけ」
「死後返すつもりである。 それに今さら降りろなど愚問、吾輩は物語を面白くするなら神にでも喧嘩を売る」
「それは頼もしい限りだ、頼りにしよう。 ……ところで一ついいか、江戸川よ」
「うむ」
「なぜおまえは裸なんだ?」
「……これには500字詰め原稿用紙10枚は必要な深き理由がある」
季節は冬、日も差さぬ石造りの放水路は下手をすれば地上よりも冷え込んでいる。
その中で堂々と腕組み仁王立つ小説家は、どこぞの誰かがぶっかけた服だけ溶かす薬のせいで一糸まとわぬ姿をしていた。
――――――――…………
――――……
――…
「……へっきち! うぅー……風邪引いたかしら」
「なんやお嬢、風邪引いたなら車ん中で暖かくしときや」
「冗談、薬屋の娘が風邪なんて引いてられないわよ。 それよりさっさと消さないとダメでしょ、これ」
寒風吹きすさぶショー会場の外、甘音は自分たちの再進入を拒んでいた忌々しい門の柱を叩く。
そこには安蘭が残した「再進入禁止」の文字がくっきりと刻まれ、今もなおその効力を発揮し続けていた。
「うーん、やっぱり普通の油性インクじゃないわねこれ。 除光液じゃ全然落ちないわ」
「あのドグサレが残した
「なんだか言葉の端々に棘を感じるけど、あの安蘭って人とそんなに仲悪かったの?」
「あいつに30万貸してバックレられとんねん」
「それは一発ぶん殴っていいわね……」
「まったくや、ホンマに……生きてたなら生きた手で連絡しろっちゅうに」
「なるほど、悲しかった分が裏返って憎さ百倍ってところかしらね」
雑談を交わしながら、甘音はコートのポケットから取り出した小さなスプレー瓶を門の柱に吹きかける。
すると薬液が付着した箇所がブクブクと泡立ち、あれほどしつこかったインク汚れがするりと剥がれ落ちた。
「よし、持っててよかったガハラ印の除光液。 あっ、しばらく薬液吹き付けた場所は触らないようにね」
「素手で触れたらあかんもん雑に持ち歩きすぎやない?」
「キュー特製の瓶だから大丈夫よ、これが割れる時にはその前に私が死んでるもの」
次にスポイトを取り出し、甘音は薬液に融けたインクを慎重に回収する。
ほんの数滴分だが確かな戦果。 このまま持ち帰ればこの小さく頼もしい薬学者はインクの成分を解析し、安蘭対策の一助となるだろう。
「よし、それじゃ私は車の中に戻ってるからウカも風邪引かないうちに戻ってきなさいよねー! その除光液は好きに使っていいけどゴーグルとゴム手袋着用すること、それじゃ!」
「現金なやっちゃなお嬢……まあええけど」
そして目的を達成した甘音はそそくさと空調の利いた偽装車両へ戻っていく。
インクの成分を解析したい好奇心も含まれているだろうが、取り残されたウカは一人寂しく異常文字の除染作業を進める。
「可愛いボクがたっだいまー、半径3km圏内は探してきたけどやっぱ誰もいなかったよ!」
「おうお疲れさん、戻って来たならこっち手伝ってや。 ほれ雑巾」
「パイセン? なんか指がシュワシュワするけどこれ触って大丈夫な雑巾?」
「気のせいや、あちこちに安蘭のボケが残した文字あるからそれで擦ったってや」
「うへー、敵に回すと面倒くさいねアランのやつさぁ。 生きてたなら貸した10万返せよぉ」
「おどれも貸してたんか……」
文句を言いながらも渡された雑巾を握り、ウカと並んで素直にインクの除染作業に加わる忍愛。
このような地味で面倒な作業など投げ出してウカにシメられるのがお決まりのパターンだが、忍愛もまた安蘭の生存を知って心穏やかではないのだ。
「……パイセン、なんでアランは裏切ったんだと思う?」
「知らん、SICKに愛想尽きたんとちゃうか? 何の理由もなく裏切るような奴ではないやろ」
「そうかなぁ……で、パイセン。 もう一度会ったらちゃんと戦える?」
「…………」
インクをこするウカの手が止まる。 そのまま目を閉じて一呼吸、ウカは考える――――自分は江戸川 安蘭を殺せるのかと。
もし安蘭の目的が九頭 歩と同調するものなら、決してSICKとは相いれない。
かつての同僚が、人々が信じる平穏を打ちこわし、異常存在のベールをはぎ取らんとする……そんな時に自分ならどうするか。
「……殺してでも止めるやろ、そりゃ」
「何か物騒な話してますね、ウカさん」
「うおっ!? なんやおかき脅かすなや!?」
「すみません、声は掛けたのですが……」
そんなウカの冷たい覚悟に水を差したのは、宮古野との面談を終えたおかきだった。
母親だったものの正体を暴き、爆弾解除から怪物部長との対決を終え、さらに脳波測定などを一通り受けたその顔色には明確に疲労の色が刻まれている。
「うわぁ顔色悪いでおかき、あっちの車にお嬢おるから一緒に休んどき」
「すみません、その前に姉貴と話がしたくて……」
「お姉さんならさっき見かけたな、向こうの方で職員と話してたよ」
「ああ、そうでしたか。 ありがとうございます忍愛さん、この用事だけ終わったらすぐに休むので……」
「無茶しちゃだめだよ新人ちゃーん、倒れたら鬼のガハラ様に死ぬほど看病されるからね?」
ふらつく足取りで去っていくおかきの背中を心配そうに見送る2人。
一瞬ついて行くべきかとも悩んだが、家族のデリケートな問題に首を突っ込むものではないと引き下がる。
実に正しい選択をしたものだ、同胞たちよ。
――――――――…………
――――……
――…
――――君もわかっていると思うが、アリスちゃんは親元に返すわけにはいかない
おかきは雪の降る公園を歩きながら宮古野との会話を反芻する。
すでに爆弾騒ぎの後処理で人払いは済み、関係者以外の人影はない。
夏用ワンピースの上にコートを羽織ったチグハグなコーデを咎める者もまた、誰もいない。
――――阿賀沙社長もまた哲学的ゾンビであることを自白した。 そのことが四葩氏にバレ、脅迫されて今の関係を結んだとね。
頭の中で繰り返される宮古野の言葉は、すべておかきの予想通りだった。
それでも何一つ驚きのない結果は、いつまでも小骨のように引っかかって離れない。
「……雄太!!」
そんなおかきの肩を掴み、意識を現実に引き戻す声が響く。
おかきが振り返ってみれば、急いで追いかけてきたのか肩で息を繰り返す陽菜々が怒った顔でこちらを見下ろしていた。
「もー、そんな恰好で出歩かない! 風邪引くでしょうが! あとお仕事終わったなら連絡ほしいんだけども!?」
「…………ああ、すみません。 いろいろ立て込んでいたもので」
「それは分かるけ……ど……――――」
「心配かけましたね、もう大丈夫ですよ。 この通り五体満足ですし」
「……雄太」
「それに母さんとも話をして……そうですね、できればあとで時間を取ってゆっくり話を」
「雄太」
「――――……ああ、私のことでしたね」
繰り返し名前を呼ばれ、おかきはやっとそれが自分であることを思い出す。
そうだ、早乙女 雄太。 それは大事な名前だ、カフカとなる前のこの身体の名前なのだから。
「失念してました、次から気を付けます。 それで、なんでしょうか?」
「…………あんた、誰?」
「――――……なるほど、ではあらためて自己紹介をしましょうか」
だが、早乙女 雄太はいない。 彼は今極度の肉体と精神疲労が重なり、その意識を手放している。
正確に言えば私が意識を手放すように少々誘導したが、わざわざそれを懇切丁寧に伝える義理もない。
今大事なのは、この場にいるのは藍上 おかきだけであるということだ。 つまり……
「はじめまして、藍上 おかきと申します。 こうしてお会いできる時間は限られているので、手短に話しますね」
――――ここから先は、「私」の時間だ。
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