第110話

「う、わぁ……」


 旧校舎へ踏み込んだ瞬間、文野はその雰囲気に息を吞んだ。

 薄暗い廊下、ぬるりと頬を舐める生暖かい空気、どこからか漂ってくる薄い線香の匂い。

 記者として心霊スポットを訪れたこともある彼女ですら、“出る”と思わせる空気がこの校舎には漂っている。


「……や、やっぱりヤマさんにもついてきてもらえばよかったかな」


 1人では心細い肝試し、しかしこれはあくまで学生の出し物。 いつまでも立ちどまっては迷惑だ。

 勇気を出して下駄箱が並ぶ玄関を抜け、音がきしむ廊下へ足を踏み入れる。


「ひぃー、学生クオリティじゃないでしょこんなの……ん?」


 念のために人気のない空き教室を確認しながら進む中、ふと廊下に張り出された掲示板が目に留まる。

 「歯磨き習慣」「今月の標語」「廊下は走るな」など当たり障りのないポスターが風化しながら並ぶ中、それは比較的新しい紙が使われていた。

 幼児がクレヨンで描いたような黒い人型から逃げる女の子のイラストと、その上に赤く書き殴られた「かごめさま」の文字は、この廊下を通るならばいやでも目に入る。


「なにこれ、かごめさま……?」


  ――――かーごーめ、かーごーめー……


「ヒッ!?」


 文野が足を止めてポスターを眺めていると、たしかにその声は聞こえてきた。

 つい先ほど通過したはずの玄関から響くかごめ歌に、彼女の口から悲鳴が漏れる。

 薄暗い廊下の先は闇に染まって何も見えない、だがギシギシときしむ足音はたしかに「なにか」が近づいてきているのだ。


 あれに捕まってはいけない。 確証はないが直感で悟った文野は無我夢中で走り出す。

 壁に掲示されていた、「廊下は走るな」という標語のことも忘れて。


「や、や、や、ヤマさーん!! たたたた助け……」


「駄 目 だ よ 走 っ ち ゃ あ」


「――――みぎゃああああああああああああ!!!!?!?」


――――――――…………

――――……

――…


「……ぁぁぁぁあぁああああああああああああああああ!!!!! ヤマさああああああああああああん!!!!」


「おーおー、遅かったじゃねえの。 その様子だとずいぶん楽しんでたみたいだな」


「楽し……怖……たの……いやクオリティはすごかったけども!! どうやってクリアしました私!?」


「いや知らねえけど」


 半狂乱でお化け屋敷を駆け抜けた文野は、そのままの勢いで出口と直通のカフェスペースへと転がり込む。

 その手には脱出の証であるカギが握られていたが、本人は恐怖のあまり道中の記憶がほとんどない。


「まあ落ち着けよ、飲み食いしてりゃ思い出せるだろ」


「思い出せなきゃもう一周とか言わないでくださいよ? あー喉渇いた……」


「お疲れ様でした、こちらコーヒーです」


「えっ? まだなにも……ふわわっ」


 注文もなく提供されたホットコーヒーを訝しみ、間違いではないかと振り返った文野の口から間抜けな声が零れる

 片目を髪で隠したそのギャルソンはまわりのスタッフに比べて一回り以上背が低く、まるで小学生のようだ。 しかし背丈の違和感など気にならないほど目を引くのはその顔立ち。

  そのギャルソンの顔は、仕事柄アイドルや芸能人と触れて目が肥えているはずの文野が文句なく美形と断言できるほど整っていた。 まとめた髪や手にはめた白手袋ひとつから妖しい色気が溢れるほどに。


「び、び、美ショタ……!」


「……? ああ、そちらはサービスドリンクです。 見事旧校舎から脱出に成功した人には無料でご提供しております」


「俺がコーヒーで良いって言ったけどよ、他の飲み物が良かったか?」


「いえいえいいえ、コーヒー大好きですよありがとうございますヤマさん過去一感謝してます」


「そんなにか」


「こちらメニューです、ごゆっくりお楽しみください」 


「ああ、ありがと……って分厚!?」


 胸に「藍上」という名札を掛けた給仕から渡された本は、文野が知る常識的なメニュー表の数倍は厚い。

 ためしに適当なページをいくつかめくってみれば、挿絵や写真付きで多種多様な料理が紙面を彩っている。

 とてもじゃないが学園祭……いや、一般的な飲食店でも提供する品数ではない。


「こ、これどれだけ品数あるんですか?」


「申し訳ないです、調理班が張り切ってしまったもので……かるく200はあるかと」


「200ぅ……えー、何頼もうか迷っちゃうな。 店員さん的におススメってあります?」


「そうですね、私の好みになりますが女性におすすめできるものとしては……」


「おっほほ」


 せっかく怖い思いをしてまでたどり着いたオアシスだ。 逃がしたくない思いで猫なで声の文野がすりよると、給仕の彼はメニューに顔を寄せておススメを吟味してくれた。

 未成熟ながら素朴さと無邪気さが入り混じり、視線が吸い付いて離れない艶のある眉目。

 肌や唇は玉のように麗しく、テーブルに飾られた花すら見劣りする輝きが目前にあることに耐え切れず、文野の口からはつい気持ち悪い声が漏れだした。


「軽食ならこの緑色のページがおススメです、他のお店も回るならお腹にも少し余裕を持った方が良いですよね」


「大丈夫大丈夫、運動してきたばかりなので! じゃあこのホットサンドセットとオニオンスープ、あとエビとアボカドのサラダをください」


「かしこまりました。 では調理に少々お時間いただくのでお待ちください」


「ええ、ええ。 いくらでも待ちますうへへへ……」


「お前そのうち変なことして捕まるなよ?」


「捕まりませんよ失礼な!」


 よほど文野の顔がだらしなく見えたのか、給仕が去ったところを見計らった虎山が釘を刺した。

 

「しっかしお前にそんな趣味があったとはな、同性でも手を出せば犯罪だぞ」


「えっ、何言ってんですかヤマさん。 彼は美少年ですよ?」


「いや、手や歩き方見る限り女だろ。 たしかに見た目は良いから男に見えなくもないが」


「藍上君を変な目で見ないでくださいぶっ殺しますよ!」


「一応お前の先輩だからな俺?」


 浮かれに浮かれ切った文野の耳には、もはや虎山の忠告など入らない。

 彼女の頭はすでに彼のことでいっぱいだ、脳内に作られたフォルダでは先ほどの記憶が鮮明に保存されている。

 実際に写真を取れば記事の一面を飾る力は十分にある、できれば自分も個人的に1枚欲しい。 そんな欲望でカメラを抱えていると、お待ちかねの給仕はすぐに戻ってきた。


「お待たせしました。 ご注文のセットとスープ、それとサラダです」


「うわー、美味しそう! えっ、これ全部学生が作ったんですか!?」


「ええ、すべて私たちのクラスで賄っています。 味も保証いたしますので、冷めないうちに召し上がってください」


「そりゃもちろん! ……っと、その前に写真良いですか? できれば君も一緒に撮りたいんですけど」


「えっ、私もですか?」


「もちろんイヤなら全然無理強いはしないんですけどもできればぜひツーショットを……あれ、そういえばここってお化け屋敷カフェですよね」


 お化け屋敷の入り口に立っていたのっぺらぼうと同じく、周りの店員は皆お化けらしい仮装をしている。

 しかし目の前の彼はそれらしい特徴もない、文野から見ればただただ美形の給仕だ。


「ああ、私は見ての通りですよ。 ほら」


 文野が言い含んだ言葉の意味を察した給仕は、片目を隠していた髪を掻きあげる。

 しかしその下にあるはずの目や瞼はなく、つるりとした皮膚に覆われていた。

 いわば彼の正体は異形の単眼、一つ目小僧だったのだ。


「あ゜っ」


「ふふ、内緒ですよ?」


「ひ゜ぁ゜」


 いたずらっぽく笑いながら、白手袋をはめた人差し指を自らの口元に立てて見せる給仕。

 この瞬間、雉谷 文野の性癖はグッチャグチャに破壊された。

 そして学園祭が開かれる5日間、彼女と同じような犠牲者は数え切れないほど増えるのだった。

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