第89話

「―――――あ」


 おかきの喉からか細い息が零れる。

 頬に触れる細い指はまるで雪に触れるような優しい力使いで、それが逆におかきを気を使っているのだと理解できてしまう。

 彼女がほんの少し加減を間違えれば、人間の頭などクシャリと潰してしまえるのだ。


「ふふ、そない震えんでええよ? 別にとって食うわけでもあらへんし」


「……忍愛さん、たちは……どうしたんですか、ウカさん!」


「面倒やさかい、撒いてもうた。 特にあの赤い髪の、まともに相手してられんわ」


「つまり、無事なんですね……」


 それを聞いて詰まっていた息が安堵となって吐き出される。

 たとえ暴走していたとしてもウカはウカだ、取り返しのつかない事態だけはおかきも避けたかった。

 だが無事が分かったとはいえ状況は最悪だ、画竜点睛の物語を考えればこの状況は不味い。


『おかきちゃん、なんとか耐えてくれ。 すぐに局長たちが合流する! このまま命杖氏と接触させると……』


「――――怨」


 ウカが一言唱えると、おかきの耳に装着された通信機がボロボロに風化して剥がれ落ちる。

 通信機だけでなく、身に着けたスマホや服の金具もすべて。 

 おかきはずり落ちるズボンをとっさに抑えて赤面する、その様子を眺めるウカは実に楽しそうに笑うのだ。


「ふふふ、ええなか可愛ぇなあ。 下着のホックは無事なん?」


「スポブラです! って何言わせるんですか!?」


「堪忍堪忍、“ウカ”は新人が心配でしゃあないねん。 ほんまこのままちょっと力入れるだけで死んでしまいそうなほど脆い脆い……大事な後輩」


 頬に触れるウカの指先は首へと回され、少しだけ力がこもる。

 自分のことをまるで俯瞰するように呼ぶウカの言動は、おかきにも覚えがあった。

 今の彼女は神格が暴走し、いつもの人格が意識の奥に押し込められている。 ならアクタ事件のように、呼び起こすきっかけさえあれば……


「ウカさん、正気に戻ってください! 今のあなたは画竜点睛に操られているだけです!」


「知っとるで、なんや紙切れの良いようにされてるのは癪やけど。 それでも


「えっ……?」


 彼女は画竜点睛現象に引っ張られて、作中に登場する“神さま”の役にあてがわれた。

 だが本人はそれを自覚し、癪だと言えるほどに拒絶できている。 なのになぜ配役に従って動いているのか。

 それほどまでに物語の強制力が高い? いや違う、何かがおかしい。


 ……ウカが“神さま”ならば、他の配役は誰だ?


「……! そういう事か! 少女役は先輩じゃない、!」


 そもそも違和感があった、宮古野から伝えられた「少女」というイメージと命杖の年齢はかけ離れている。

 神性を持ったウカに神さま役が渡るなら、少女役もまた似た印象を持つものから選ばれる。

 植物が繁茂したこの異常空間の仲、少女と呼べる外見を持つ人間は「藍上 おかき」のほかにいない。


「ふふ、ようやっと気づいた? だいぶ遅かったなぁ」


「迂闊でした、カフカと画竜点睛の相性がいいなら私だって取り込まれる危険性はあった……!」


「正解正解、それでたしかここから先はどうなるん?」


 「少女」と「神さま」が出会ったあとの展開はまだ未定だ、原稿もそこで終わっている。

 つまり文字通り画竜点睛を欠いた状態だ、だからこそおかきは動けない。

 登場人物と化した自分たちが下手に動いて結末を決めてしまえば、それこそ物語が完成しかねない。


「ふふ、どないしよかなぁ。 このまま取って食ったろか、それとも愛でようか」


「うひっ!? う、ううううウカさん!?」


 ウカの手がおかきの首筋を撫で、そのまま服の下へと潜りこんでいく。

 そのまま艶めかしい動きでまさぐられ、ずるりと引き抜かれた手の中には無地のスポブラが摘ままれていた。


「なんや、味気ないもん付けとるなぁ」


「なにしてるんですかァー!!?」


 心もとなくなった防御力に思わず片手で胸元を抑えるおかき。

 くしくもズボンと胸で両手を塞がれる形になってしまった、大ピンチである。


「ええやないの、どのみち同性やさかい。 まあうち神やけど」


「いや、ちょ、これは……同性でもアウトでしょ!?」


「ああもう、そないな声で鳴かれたらもっといじめたく……」


「――――何を遊んでるんだ貴様らはァー!!!」


 2人の世界へ突然割り込んできたのは、身体の自由を取り戻したジェスターからの激しい突っ込みだった。

 自分目掛けて飛び込んできた刃物を後ろに下がって躱し、さらなる追撃を足元の植物を急成長させることで防ぐウカ。

 対するジェスターは一歩も引かず、背中から生えた2本と合わせ計4本の腕を器用に使い、植物を切り裂きながらウカへと肉薄し続ける。


「なんや、金物は全部消したはずやけど。 空気が読めん男は嫌われるで?」


「私の道具はすべて磁気を帯びない素材だ、鉄など使っていない!」


「なんやそれ、都合ええなぁ。 はぁおもんな」


「なんだと貴様ァ!! おい小娘、お前も手伝え!!」


「私は男私は男俺は男俺は男……こんなの気にしないしまずブラなんてしてるのがおかしいしぃ……!」


「羞恥は後にしろ貴様ァ! 訳の分からんこと言ってないで!!」


「おーい! 新人ちゃん無事……って無事じゃなさそうな状況だな死ねッッ!!!!!」


「ウワーッ!? なんだピンク頭が増えた!? しかも無駄に強いぞこいつ!!」


 ジェスターとウカが切り合う中、茂みを切り裂いて現れた忍愛が最初に見たのは、乱れた衣服を抑えて涙目で座り込むおかきの姿だった。

 さらに近くにはウカへ乱暴を働く道化師の姿、この状況を忍者の高速思考力で曲解した忍愛は迷うことなくジェスターへと斬りかかった。


「おいおかき、無事か? 何があった」


「ふぐうぅ……ウカさんに純潔とプライドを弄ばれたこと以外は無事です……!」


「そうか、詳細は後で聞こう」


 忍愛が切り開いた道を悠々と歩いてきた麻里元は、おかきに肩を貸して立たせる。

 役者は揃ったが、22:00のリミットは残り少ない。 時間を超過すれば実質的にゲームオーバーだ。


「く、くそぉ……! ウカさん、この借りは今すぐ返しますからね……!」

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