第82話
「……あら? あなた、もしかしてどこかで会ったことあるかしら?」
「せんぱ――――い、いえ……会ったことは、ないです」
懐かしさに口から零れそうになった言葉を飲み込み、おかきは首を横に振る。
彼女に抱きかかえられるほど小さく、性別すら変わってしまったこの身体、かつて同じ卓を囲んだ後輩と信じてもらえるはずがない
それに彼女からすれば長い学生生活の中でほんの少し部活に紛れ込んだ異物だ。 覚えているはずがない、とおかきは口を閉ざす。
「あらあら。 ということは知らない人の部屋に忍び込んだ悪い子ということかしらー?」
「それはその、えーと」
「うふふ、可愛いわ~。 ちょっと写真撮ってもいい? 次回作の
「し、写真はちょっと……」
がっちりと腰をホールドされた状態では、逃げ出すことも容易ではない。
目的の原稿用紙は目の前にあるというのに、ひったくって逃げることも難しい状況だ。
どう言い訳をしようかおかきが考えていると、部屋の扉が荒々しく開かれ、サングラスを掛けた男性が血相を変えて駆け込んできた。
「命杖さん、直ちに避難してください! フロアホールで火災が発生しました!」
「火災?」
『おかきちゃん、そのスタッフはSICKの職員だ。 今は従ってアリアン先生と一緒に避難してくれ、サーカス団とウカっちたちの交戦が始まった』
おかきが疑問を感じると、すぐに通信機を通して宮古野のフォローが入った。
サングラスの男は一見慌てているように見えるが、避難を促すよう手招きする動きに合わせて、緊急時に利用されるSICKのハンドサインをおかきへ見せている。
「あらあら、大変。 ねえ君、お母さんは一緒?」
「ええっとその……じ、実は迷子なんですぅ」
「まあそれは大変、それじゃどうしようかしら……」
「命杖さん、その子の家族は我々で探します。 今はとにかく避難を!」
「そうね、わかりました。 君、悪いのだけども私と一緒に来てくれるかしら?」
「は、はい!」
おかきとしても彼女の申し出は好都合だった、サーカス団が現れたとなれば狙いは間違いなく目の前の原稿だ。
著者とともに近い位置で護衛できるこの位置はとてもいい、たとえ敵が現れてもすぐに反応できる。
もっとも、このままウカたちがふざけたピエロを倒すのが最善だが。
「……大丈夫ですよね、ウカさん」
――――――――…………
――――……
――…
「ヒャッホォー!!! 踊れ踊れぇ!!」
「踊るか! 寝てろや!!」
クラウンが床に頭を付けたままブレイクダンスの要領で足を振り回すと、遠心力に引っ張られるかのようにその足が伸縮する。
フロアの横幅一杯まで引き延ばされた道化の足は、障害物ごとウカたちをなぎ倒していった。
「チィッ! 頭おかしくなるわこんなん、大丈夫か飯酒盃ちゃん!?」
「こっちは平気、伊達にSICKで働いていないわ!」
「ねぇー、こっちも手伝ってよぉ! ボクだけじゃ全員運び出すの大変だってこれ!」
「そっちまで手回す余裕ないわ、悪いけど一人で頑張ってや山田ァ!」
「山田言うなぁ! やるけどさぁ!!」
口では泣き言を吐きながらも、忍愛は気絶した一般人の避難に努める。
このフロアに一人でも逃げ遅れた生存者がいる限り、ウカたちは全力を出せない。
だがその数はあまりに多く、脱力した人間の肉体を抱えて運び出す作業は、いくら忍愛とはいえ楽なものではない。
「おいおい、せっかくの観客をどこに連れてくんだよ。 営業妨害かぁ!?」
「うっさいなぁ、ボクの邪魔しないでよ! さてはお前モテないな!?」
「HAHAHA! なんだとお前……なんだとお前!!」
「嘘やろ、めっちゃ効いとるやん」
そのうえ、クラウンは忍愛に向けてちょっかいを掛けることを忘れない。
投げナイフや葉巻型爆薬、キバが生えたチーズや意志を持ったように軌道が曲がる銃弾など、多種多様で奇怪な妨害が忍愛の精神を余計に削っている。
「山田さん、できるだけ攻撃には当たらないで! 毒や害のある模倣子が仕込まれてるかもしれないわ!」
「毒ぅ? そんな笑えねえもの使わねえよ、俺はいつだって観客を笑かすイカれたピエロでありたいのさ!」
「だったら油被って火の輪でも潜ってろや、何が面白くて人の原稿なんて盗むねん!」
「だって最高だろ? 人間みんな夜はぐっすり朝はぱっちりお目覚めの世界なんてよ!」
クラウンはシルクハットからハトの死骸を取り出し、ゴミを捨てるかのように次々と放り投げる。
放物線を描くハトは空中で膨張し、破裂。 その中からは大量のヒヨコが飛び出し、それぞれが100デシベル近い音量で鳴き始めた。
ただしその声は成人男性のものであり、すべてのヒヨコが「カエルの合唱」を歌っている。
「ぐああああああ!!? うるっさいわァ!!」
「HAHAHAHAHA!!! どう、最高におもしれえだろ!? 笑え笑え!!」
「笑えるかよこんなのぉ! それに僕は早寝早起きなんてゴメンだね、深夜アニメが見れなくなる!!」
「私も深酒して酔っぱらった勢いで寝たいの、22時ピッタリに寝てしまう世界なんて困るわ!!」
「いいねいいねぇ、つまり俺の考えは正解だ!
合唱するひよこたちの中心で、クラウンは両手を叩いて大喜びする。
手を打ち鳴らすたびにポップ調の「パンパン」という擬音が実体化し、落下しては足元のヒヨコを押しつぶしていった。
「狂った世界で人々は悲しみと絶望を覚える、それこそが最っ高のスパイスさ! もとから幸せなやつは笑えねえから、俺たちがとびっきり不幸な環境をプレゼントしてるんだよ!!」
「……あ、頭おかしいんじゃないの?」
「山田、相手したらあかん。 はよほかの客避難させんと耳がおかしくなる!」
「ああ、それとひとつ忠告だ。 客の顔はちゃんと覚えておいた方が良いぜ?」
「はっ? ―――山田ァ!!」
「えっ、なに? 聞こえな……」
忍愛はヒヨコをかき分けて、横たわる男性の肩を担ぐ。
耳がおかしくなりそうな合唱の中、ウカだけがその異音に気づいた。
担がれた男……のように見える、人型の風船人形から聞こえるカチカチという秒針の音に。
「ハァーッハッハッハ!! 面白ぇだろ、人間
「避けろ山田ァ!!」
だがウカの叫びも空しく、次の瞬間、フロアは眩い閃光と激しい爆発に包まれたのだった。
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