第78話
「……おっ、おかえりおかきー。 なに、またお仕事?」
「ただいまです、甘音さん。 今度こそ生きて帰れないかもです」
飯酒盃宅での緊急会議が終わり、日も沈み切ったころにおかきが寮へ戻ると、部屋ではテーブルに勉強道具を広げた甘音がテスト対策に打ち込んでいるところだった。
ノートや教科書のほかに苦手科目の過去問なども展開されており、その本気度合いがうかがえる。
「そう、多くは聞かないわ。 けど死ぬかもしれないからってテスト対策に手抜いちゃダメよ、おかきがいないと私も赤点スレスレなんだから!」
「聞かないんですね、事情」
「聞いたところで私は部外者だから、どうせ深くは教えてもらえないでしょ。 心配してないわけじゃないのよ?」
「分かっていますよ、甘音さんは優しい人ですから」
「…………あんた、そういうこと簡単に言うから変な人間に好かれるんじゃない?」
「えっ」
甘音の弁明をおかきが澄み切った笑顔で返すと、とうの本人は顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。
おかきには自覚なんてなかったが、他人から見ればそれは間違いなく口説き文句だった。
「ふん、まあいいわ。 とりあえず勉強教えて、ほらほらこっちきて」
「言っておきますけど、私も復学したばかりでそこまで自信はないですからね?」
「それでも私よりずっとましよ、頼むわ優等生」
「かつての成績は中の中ぐらいだったんですけどね、しかも中学生の時の話で……」
それでも手招きされるままにおかきが隣に座ろうとすると、当たり前のように腰から抱きかかえられ、そのまま甘音の膝上にストンと座らせられる。
悲しいことに小学生と変わりない体格のおかきは、面白いほどすっぽりと収まってしまった。
「…………あの、甘音さん」
「うん、ごめん。 出来心だけど思ったよりしっくりきて自分でもびっくりだわ」
「やめてくださいよもー! 子ども扱いするのは……こど……こども……ふんぎぎぎぎ、抜けない……!」
「おほほほほ、いつぞや押し倒されたお返しね。 さしものおかきも抱きかかえられると何もできないと見たわ」
「勉強するんじゃなかったんですか!?」
完全に膝の上に置かれ、腰に手を巻かれたこの体勢では、おかきの武力ではどうにも抜け出すことができなかった。
そのうえ女子学生の膝に抱かれているという状況に、おかきの表情には焦りが浮かぶ。
「甘音さん、何度も言いますが私の中身は男なんですからね。 こういった真似はあまりにも無防備だと思いませんか?」
「大丈夫よ、今は女の子同士なんだから。 それにもし生きて帰ってこれないなら最後の思い出になるじゃない?」
「むぅ……」
そういわれると強く断ることもできず、おかきはされるがままに現状を受け入れる。
ただせめてもの抵抗とばかりに、手元では教科書をめくり、テスト勉強に集中している素振りを見せながら。
「……もし私の中身がデブデブしい中年男性だったらどうするつもりなんですかね」
「ちょうどいいわね、新薬の脂肪燃焼薬があるから試してみない? ちょっと燃えすぎて人体発火の危険があるんだけど」
「中肉中背のごく健康的な身体でございます」
「チッ。 まあ男のあんたがどんな見た目でも関係ないわよ、私の友達だってことには変わりないんだから」
「甘音さん……ここ、漢字間違ってますよ」
「うぐぅ、さすが抜け目ないわね」
「一応探偵ですから、藍上おかきは」
甘音の答案用紙に目を通しながら、おかきは次々と赤ペンでチェックを加えていく。
事前の自己申告通り、苦手科目の結果は実に散々なものだ。 だがケアレスミスと作者の気持ちを理解できれば、赤点回避も十分狙える範囲だ。
おかきが試験までのスケジュールを頭の中で整理しながら黙々と作業に没頭していると、自然と二人の間には沈黙が流れる。
「……ねえおかき、これあげる」
「ん、これは?」
「お守り、中に軟膏と痛み止め入ってるから。 軟膏は止血にも火傷にも使えるわよ」
沈黙に耐えかねた甘音に手渡されたのは、赤十字のアップリケが縫い付けられた手のひらサイズの布袋だった。
中にはリコーダーに付属するグリスに似た軟膏入れと、同じく小さな錠剤ケースが収納されている。
袋口を結っている紐は長く、ネックレスのように首にかけることが可能だ。
「おお、これは心強いですね。 ありがとうございます」
「ん、言っておくけどただじゃないからね。 それ受け取るからには生きて帰ってきなさいよ」
「うーん、善処はします」
気丈にふるまってもやはり不安は隠しきれない、渡されたそのお守りには甘音の優しさが詰まっていた。
おかきも彼女の期待に応えたい。 それでも大丈夫だと断言できないのは、宮古野たちとの会議で見せられた、あの惨たらしいピエロの顔が脳裏をよぎるからだ。
見るだけ、あるいは聞くだけで終わるかもしれないという異常現象を前に、いったい探偵としての能力がどこまで通じるのか。
「ごめんなさい、帰ったらまたお祝いしましょう。 私また甘音さんたちと一緒に焼き肉食べたいです」
「うううぅ~~……! 今度は回らない寿司屋に連れていくわ、テスト祝いも兼ねるから気合入れなさいよ!」
湧き上がる気持ちを隠すように、甘音はおかきの後頭部に顔を埋める。
頭越しに伝わる小さな震えに見て見ぬふりをしながら、おかきは託されたお守りをぐっと握りしめた。
「……ところでおかき、あんた髪の手入れはどうしてるの?」
「えっ? 備え付けのシャンプー使ってますけど」
「シャンプー……だけ?」
寮の部屋にはトイレと併設されたシャワー室があり、大浴場の使用を拒んでいるおかきは毎日そこで入浴を済ませている。
裸になることにも慣れ、無心で身体の洗浄を済ませているが、その中でも長い髪は億劫で扱いも雑になりがちだ。
リンスを使うのも面倒なので、シャンプーで汚れを落とすだけにとどめている。
「おかき、帰ったら……いや、今すぐ話があるわ」
「あ、甘音さん?」
繰り返しになるが、膝の上に置かれて腰に手を巻かれたこの体勢では、おかきの武力では抜け出すことができない。
後頭部から感じる修羅の圧にいくら気圧されようとも、おかきには逃げることもままならないのだ。
「シャンプーしたらリンスとコンディショナー! 男でも女でも髪の手入れは基本よ基本、今日はみっちり教えるから脱ぎなさい!」
「甘音さん!? ちょっ、まっ、やめ! どこに手を入れ……誰かー! 助けてー!!」
「うるっせぇぞお前らァ!! そういうのは消灯してからやれ!!」
「あ、悪花さーん! 助けて―!!」
「悪花、手伝いなさい! おかきの髪が危機なのよ!!」
「おまわりさーん!!」
その日の夜、おかきは何か大事なものと引き換えに、リンスやコンディショナーの違いからヘアオイルの扱いを暗唱できるほど骨身に叩き込まれたのだった。
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