第92話 明日の予定

 中林先生はやれやれといった様子で言った。


「我々にとっては迷惑だったんだがな。ここが汚染されてしまう。幸い、水で分解できる種類の神経ガスだったため、処理は比較的楽だが」


「そういえば、だから、俺はびしょぬれなんですね」


 表面に付着した毒を分解するために、俺や担架は大量の水をかけられたようだ。

 中林先生はうなずいた。


「その通りだ。慎重に洗い流したが、後でさらにシャワーでしっかり洗ってくれ。外は今も激しい雨が降り続けている。明日の朝には戸外も無毒化されているだろう。シャワーに入ったら今夜は休んだほうがいい」


 中林先生がめずらしくまともに優しいことを言った……かと思ったら、その続きがあった。


「明日からはさっそく働いてもらうからな。少々骨折していそうだが、外で動けるのは、文亮、お前とペッポーだけだ。働いてもらうぞ!」


 やっぱり俺は骨折しているのか……。なのに働かせるなんて、鬼だ。

 でも、中林先生は結生の救出を手伝ってくれたし、俺達の命の恩人だから、借りは返さないと。

 俺がそう思っていると、中林先生は防水性能の高そうなタブレットを取り出し、俺に画面を見せた。


「まずは、これを見ろ。おまえが治療薬開発の研究助手になるために必要な知識を得るため、参考文献50冊のリストを作成しておいた。大学図書館から本を取ってきて勉強しろ。図書館は隔離地区の外だが、おそらく数日以内に自由に行けるようになるはずだ。ちょうど今、周辺で感染爆発が起こっているからな。隔離地区の範囲が拡大しそうだ」


 感染爆発?


「感染爆発がまた起こっているんですか?」


 俺は不思議に思ってたずねた。

 ゾンビは毒ガスで気絶しているはずなのに。


 中林先生はあまり興味のなさそうな様子で説明した。


「避難者の中に感染者がいて感染を拡大させたそうだ。さらに、地下の下水道や封鎖されていた古い地下道を通ってゾンビが大量に移動したらしい。普段はゾンビは積極的には移動しないが、なぜか大移動が起こったようだ」


 神取さんが付け足した。


「まるでパニック映画みたいな状態よ。このあたりで感染爆発が始まった日よりもさらに悲惨。隔離地区からずいぶん離れた場所の、偶然、蓋があいていたマンホールから突然ゾンビが大量に出てきたんだって。動画サイトやニュースは、マンホールからゾンビが溢れ出てくる映像でもちきりよ」


 地下……?

 空爆から逃れるために地下に避難しろ、と俺は強く願ったけど……。

 俺の脳内には、感応現象で一致団結、障害物を押しのけて猛烈な勢いで避難していくゾンビ達の姿が浮かんだ……。


 考えすぎかな。

 まぁ、いいや。

 どっちにしろ、俺にはどうしようもない。


 俺は目の前に突き出されたタブレットを見た。

 中林先生が俺に見せている文献リストには、俺が知らない単語がいっぱい並んでいて、しかも、英語の題名もたくさんある。

 中林先生は、当然のように非常識なことを言った。


「学部レベルの入門書だ。3日もあれば全部理解できるだろう」


「3日!?」


 この人、何を考えているんだろう。3日で50冊も読めるはずがない。

 しかも、学部レベルって、大学レベルってことのはず。

 俺はまだ高校生だ!

 そこで、中林先生の元・教え子、神取さんの声が聞こえた。


「がんばってね。この先生は、研究者としてはとても優秀だけど、教えるのはとっても下手だから」


 それを受けて、中林先生は断言した。


「読めばわかるものを教える必要があるのか? そこに書いてあるのだから、読めばいいだろう」


 この先生、教える気すらない!


「先生、俺は、ほら、ゾンビ達の面倒も見ないといけないし、病院を復旧させないといけないから、もう勉強する暇はないので……」


 俺がもごもごと言っている横で、神取さんは中林先生にたずねていた。


「先生、シャワールームの使用はレディーファーストでいいですよね?」


「構わん」


「それじゃ、結生さん、シャワーを浴びに行きましょ。緊急シャワーと違う、まともなシャワールームもあるの」


「はい」


 結生と神取さんが去って行く中、中林先生は俺に再びタブレットの画面を見せ、早口にしゃべった。


「文献リストはおぼえたな。今度は病院の見取り図を頭に入れておけ。明朝さっそくMRIの復旧だ。そういえば、文亮。すでに病院内に立ち入ったことがあるようだが。あの病院には、試しに即席で作った薬を渡していたんだが、他所の感染者と何か違いはなかったか?」


「さぁ……」


「失敗か。なんにせよ、明日は病院内にあるデータも取ってきてくれ。それから、おまえの脳のMRIに加え、通常の感染者と、幼児の感染者のMRIも見たい。捕まえて撮ってくれ。幼児は明らかに症状が違うからな。おもしろい。おもしろくなってきた。今まではゾンビに近づくことができなくてろくなデータが集まらなかったが、これで研究がはかどる!」


 中林先生が嬉しそうに笑っているのが、防毒マスクごしでもわかる。

 あーあ。明日から、忙しくなりそうだ。

 でも、ちゃんと明日の予定があるというのは、良いことだ。

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