第91話 お互い様

 気がついた時、俺はどこかで寝ていた。

 俺が手を動かすとすぐに声が聞こえた。


「先輩? 先輩が目を覚ましました!」


 これはたぶん結生の声だ。でも、ちょっと変な声だ。

 とにかく、結生が傍にいる。

 俺は結生を探そうと、目をあけた。

 白い天井が見えた。

 俺は体を起こした。


 俺の近くには、ゴーグル一体型のガスマスクに顔全体を覆われた防護服姿の人が3人いた。

 どれが結生だかわからない。だけど、たぶん一番小さい人が結生だろう。


「結生? 無事でよかった……」


 俺がつぶやくと、結生の泣きそうな声がガスマスクの伝声器を通して聞こえてきた。


「先輩こそ、無事でよかったです。死んじゃったみたいに倒れちゃったから、心配したんです」


 そういえば、俺は車の中で毒ガスを吸って死にかけていたはずだ。

 俺は状況を理解しようと、まずは自分の様子を眺めた。


 俺はなぜか水浸しの担架の上にいた。 

 俺はまだちゃんと着ていなかったはずの防護服をしっかり着ていて、その防護服もびっしょり水にぬれている。

 だけど手袋は片方の手だけはめていて、もう片方の手の指にはパルスオキシメーターがくっついていた。

 近くの床には小さな酸素ボンベが置かれていたけど酸素マスクはすでに俺の顔から外されている。


 なんとなく、ここの壁や天井は見覚えがある。

 ここは、たぶん、中林先生達のいる研究所だ。


「文亮君、体を動かせるか試してみて。右手をあげて」


 これは神取さんの声だ。間違いない。ここは研究所だ。

 スタイルがいい神取さんは、防護服を着ていてもシルエットが女性的に見えた。


 俺は言われた通りに右手をあげた。

 すぐに神取さんが次の指示をだした。


「立ってみて」


 俺は立った。ちょっとめまいがしたけど、ちゃんと立てた。

 神取さんらしき防護服の人は片手を前に出し、なぜかピースをした。


「それじゃ、私の指は何本?」


「2本です」


「問題なさそうね。一時は仮死状態に近くなっていたから心配したんだけど」


 仮死……。

 どうやら俺は気絶していただけじゃなくて、本当に死にかけていたらしい。

 だけど、今の俺には特に具合の悪いところはない。

 俺は結生でも神取さんでもない防護服の人、つまり中林先生らしき人にたずねた。


「先生、今はどういう状況ですか? ゾンビのみんなは?」


 中林先生は嬉しそうな声で説明してくれた。


「悪くはない状況だ。神経ガスの散布によってゾンビは皆意識を失い、死んだようになっていた。だが、バイタルサインをペッポーで確認したところ、ちゃんと生きていた。しばらく仮死状態に陥っていた者もいたが、今は回復しつつある。おまえの様子を見る限り、ゾンビは後遺症なく回復するのだろう。さすが、ゾンビだな」


 俺の心に日が射すように希望が満ちていった。


「じゃあ、みんな、無事ってことですか?」


 中林先生は、はっきりとうなずいた。


「非感染者は間違いなく死んだだろうが、ゾンビウイルスの影響を完全に受けている感染者は無事だろう。雨に助けられた。水で分解できるタイプの神経ガスだったからな。神経ガスが散布された直後に雨が降ってくれたおかげで、曝露が最小限ですんだのだ。まるで天がゾンビの応援をしているようだ。おかげで、追い詰められた人類の悪あがきは、大失敗だ」


「よかった……」


 母さんも、ご近所ゾンビのみんなも、この隔離地区のゾンビ達も、たぶん、みんな生き残った。

 俺は雨に感謝した。

 雨にこんなに感謝したことはなかった。

 中林先生は続けて言った。


「だが、文亮。お前が無事なのは、すぐに結生が防毒マスクを装着してくれたおかげだ。まだデータが揃わず詳しいことはわからないが、お前は中途半端な半ゾンビだからな。他の感染者とは違って、死んでいたかもしれない」


 中林先生にそう言われ、俺は3人の中で一番小さな人影の方を見た。


「ありがとう」


 俺が礼を言うと、結生は首を横にふった。


「当然のことをしただけです。お礼を言うのはわたしの方です。先輩の方が、ずっとたくさん助けてくれました」


 俺と結生は無言で見つめ合った。ガスマスク越しだから、互いに顔を見ることはできないけど。

 そこで、神取さんが言った。


「どうかしら。結生さんもかなり大変だったでしょ? 先生の指示を仰ぎながら手探りで防護服をあなたに装着させた後、結生さんはどうしたと思う?」


「どうしたんですか?」


 俺がたずね返すと、神取さんは言った。


「あなたをここまで運んできたの」


「結生が俺を運んだ?」


 俺は耳を疑った。小柄な結生にそんな力があるとは思えない。

 でも、たしかに、俺は今なぜか研究所にいる。

 誰かが俺をここまで運んできたのは間違いがない。


「ペッポーさん達と一緒に、です。だから、そんなに大変じゃありませんでした」


 そう結生が言った後で、中林先生がちょっと不満そうにぶつぶつ言った。


「使われた化学兵器の種類がわからない状態で外に出るのは危険だから車内で待て、と言ったんだが」


 神取さんが補足説明をした。


「結生さんは「先輩を治療してください」「わたし一人でも先輩を運びます」って言って。本当に車外に出ようとしていたから、ついに先生も根負けしたの」


「あまりにうるさくてな。しかたがないから、ペッポー達を派遣して担架で運んでこさせたんだ。結果的には、解毒剤になるものがここにあったため、連れてきてよかった、ということになったが」


 つまり結生は、毒ガスが充満しているはずの車外に出て、大勢のゾンビがいる中で、俺を担架に乗せてペッポー君達と一緒にここまで運んできたということだ。

 もしもゾンビに襲われたら。少しでも防護服が破れたりマスクがずれたりしたら。死んでしまっていたかもしれなのに。

 

「そんな危ないことを……?」


 結生は平然と言った。


「ゾンビの皆さんは気絶していたから、平気です」


 俺は結生の度胸にたじろぎながら、もごもごと言った。


「いや、ゾンビはいつ動き出すかわからないし、それに、毒ガスがあるし……」


「先輩は心配性。危ないことをしたのは、お互い様です」


 結生はそう言って笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る