第89話 ゾンビ男はゾンビ羊の夢を見るか(上)

 気がついた時には、俺は草原に寝転がっていた。

 周囲には青、緑、紫の斑模様の羊がいて、のほほんと草を食べている。

 白い羊はいない。羊はみんな変な色で、ちょっとゾンビっぽい。

 でも、毛でまるまるとしているから、ゾンビっぽくても、なんかかわいい。


 俺は手を伸ばして、近くでしゃがんでいた羊の紫の毛を触った。ごわごわしているかと思いきや、信じられないほどふわふわしている。それに、ものすごい毛量だ。

 羊は俺がふれても気にせず動かなかった。俺はごろりと転がり、羊の青い横腹に顔をくっつけてみた。ちょっと羊臭いけど、あったかくて最高だ。


 草原でごろごろしていると、俺の心に穏やかな幸せな気持ちが満ちてきた。

 もうずっと、こんな気持ちになれたことがなかった。

 俺はこんな穏やかで幸せで、何も恐ろしいことの起こらない日常をずっと望んでいた気がする。

 だって、俺は最近ずっと……。


 俺はぼーっとした頭で考えた。

 ここはどこだ?

 なんで俺はこんなところにいるんだろう。

 ゾンビ羊を飼う羊飼いゾンビになったんだっけ……?


 これは夢……?

 夢かもしれない。

 たぶん現実ではない。


 だって、現実の羊は、こんなにゾンビ色でふわふわしていない。本物の牧場にいる羊はもっと表面の毛がごわごわしていて臭くて汚いはずだ。


 それに、だって、現実の俺はゾンビで、皆がゾンビを殺そうとする危険な世界で、至る所に死体が転がる世界で、ずっと逃げ惑いながら生きていたのだ。

 そして、俺は結生と一緒に研究所へ逃げる途中で……。


 俺は起き上って周辺を眺めてみた。 

 草原の丘のような場所に、俺はいた。

 ここにいる人間は俺だけ。

 丘の下の方には、川が流れている。

 こんな場所も、こんな羊も、俺は見たことがない。

 

 俺はたしか国防軍による化学兵器の攻撃を受けて……どうなったんだろう。

 ひょっとして、死んだのか?

 それじゃ、ここは、あの世?


 そこで俺は思った。


(まぁ、いいや。あの世でも。どこでも)


 ここは癒されるから、ずっと、ここにいたい。

 俺はもう生きるのに疲れた。

 俺を殺そうとする奴らに追いまわされるのに疲れた。


 なんで、ただ生きるのが、あんなに大変だったんだろう。

 弓矢や包丁で襲われるだけならまだしも、ライフルで銃撃されて、挙句のはてには毒ガスなんて。

 ……それにしても、国民に化学兵器を使うなんてな。

 そりゃ、空爆で辺り一帯の建物を壊すよりは、経済的損失は小さいだろうけど。


 俺はごろんと寝返りをうった。


 結生は助かったんだろうか。

 たぶん、大丈夫だ。

 結生はちゃんとガスマスクと防護服を装着していた。

 あの後きっと、中林先生達がどうにか救出してくれたはずだ。

 

 だけど、ゾンビのみんなは?

 母さんは? 

 母さんも、近所のみんなも、みんな死んでしまったんだろうか……。

 空爆なら破壊されない場所もあっただろうけど。

 毒ガスなら全員助からなかったかもしれない。


 涙をこらえながら俺は心の中でつぶやいた。


 ごめん、母さん。みんな。

 助けられなかった。

 俺、甘かったよ。

 俺は俺なりにがんばったけど。

 俺ががんばってどうにかなることじゃなかったんだ。

 俺、結局、けっこう頭が悪かったんだ。

 治療薬ができればどうにかなるって思ったんだけど。そんなことはなかったんだ。

 きっと、溺れる者は藁をも掴むって奴だったんだ。

 ありもしない希望を見ようとしていたんだ。

 どうにもならなかった。

 ごめん。

 何もできなくて。


「なに言ってるの。あなたはずっとみんなを助けてきたじゃない」


 母さんの声が聞こえた。

 俺が声のした方に振り返ると、草原に母さんが立っていた。

 母さんは風で乱れる髪を手で押さえようとしていた。ゾンビの動きじゃない。

 いつもの、以前の、母さんだ。


「母さん……ひさしぶり……」


 母さんはほほ笑んだ。


「まだ2日もたっていないでしょ?」


「そうだっけ……そうだね。でも、しゃべったのが久しぶりだから」


 ずいぶん長い時間がたったような気がするけど、俺が研究所に向かうために家を出たのは、昨日のことだ。

 母さんと最後に会話をしたのは、感染爆発の日だから、だいぶ前だけど。


「あなたが私の声を聞いてなかっただけよ。私たちはずっと、お話していたんだから」


 母さんはそう言って笑顔でたたずんでいた。

 俺には母さんが言っていることの意味がわからなかった。だけど、母さんがしゃべっていて笑顔だというだけで、俺はうれしかった。

 そこで、別の声が聞こえた。


「そうだよ。フーミン」


 この微妙に嫌なあだ名で俺を呼ぶのは、たぶん同じマンションの一郎だ。

 他に俺をフーミンと呼んでくる奴はいない。

 声がした方を見ると、やっぱり一郎が立っていた。


「一郎も元に戻ったんだ……」


 俺がつぶやくと、一郎は否定した。


「違うよ。フーミンが僕らの声を聞けるようになっただけだよ」


 気がつけば、一郎の横には一郎のおばさんがいた。


「いつも、食事を届けてくれてありがとうねぇ。文亮君」


「おばさん……」


 別の方角から、さらに声が沢山聞こえてきた。


「ありがたい、ありがたい。うちの犬も感謝しているよ」


「もうちょっとおいしいものを届けてほしいんだけどなぁ」


「蟻、うまいぞ。蝉もいい。蜂の子、最高!」


 気がつけば、草原には、たくさんの人がいた。

 俺が名前を知らない人も知っている人もいた。

 ご近所ゾンビのみんなが草原にいた。


 俺が呆然と、草原に出現した近所の人達を見ていると、また、別の方角から声が聞こえた。


「もっと美味しいもの、ですか。うちのレシピをお教えしましょうか?」


 声のした方に振り返れば、そこには、渋い初老男性、喫茶店マスターがいた。

 なぜか草原にアンティーク調のテーブルと椅子が出現していて、喫茶店マスターはそこでゆったりとコーヒーを飲んでいる。

 近所の人達もみんな、ゾンビの時とは違う元気な姿で、遊んだりスポーツをしたり、小鳥に餌をあげていたり……あと、なぜか虫を天ぷらにして食べている人もいた。


「みんな……。ゾンビのみんながいる……ってことは、ここは、やっぱり、あの世?」


 毒ガスで殺されて、ゾンビはみんな一緒に天国に来たのかもしれない。

 でも、ここはとても居心地がよさそうだから、のんびり楽しく天国で暮らせばいいか。

 俺がそう思ったところで、女子の声が、すぐ近くから聞こえた。


「木根くーん。なにボケたこと言ってるの?」


 気がつけば、この草原に場違いなアイドル衣装を着た橋本が俺のすぐ横に立っていた。


「橋本? いつの間に?」


 橋本の後ろには、学校の知り合いが何人もいた。

 俺はその、それほど親しくなかった知り合いの面々を見ながらつぶやいた。


「でも、加藤は出てこないんだな」


 同級生の中で一番俺の友達といえそうなのが、加藤だったんだけど。

 加藤は俺を裏切ったから天国にこれなかったのか?

 もし加藤が地獄に落ちてたら、ちょっとかわいそうかもしれない。


 裏切られたけど、俺は加藤のことはあまり恨んでいなかった。

 たぶん、俺は初めから加藤はああいう奴だと知っていたから。

 加藤は、危機的状況に陥った時に、自分が犠牲になってでも友達を助けるような、立派な勇気のある奴ではなかった。

 あいつは友達を売ってでも自分は生き延びようとする、どこにでもいる凡人だっただけだ。


 橋本は人差し指を立てて言った。


「加藤君は、死んじゃったでしょ? 死んじゃった人は、もういないんだよ? ここは、あの世なんかじゃないんだから」


 俺の背中を冷たいものが流れていった。

 俺は加藤の死に顔を思い出してしまった。

 加藤は確かに死んだ。


 同時に、俺は橋本の言ったことを真剣に考えだした。


 ここはあの世じゃない? 死人は存在しない場所?

 逆に言えば、ここにいるのは生きている人間だということになる。

 どういうことだ?

 ここは何なんだ?


「ここはみんながいる場所。みんながおしゃべりをする場所」


 橋本はそう言った。

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