第88話 静かな空襲

 大勢の子どもゾンビがこの車を囲んでいた。

 幼児ゾンビ達は車体によじ登り、フロントガラスやリアガラスの至るところに張り付き、顔をガラスに押し付け、こっちを覗きこんでいた。

 数十の目が、ガラス越しに俺達を監視している。

 青、紫、緑の斑紋が顔に浮かんだ幼児たちは、「おまえのせいで怪我をした」と言いたげな、俺を呪わんばかりの表情で変色した歯茎をむき出しにし、切れた唇や擦り傷をガラスに押し付けている。

 

 そんな子どもゾンビに覆われた車内で、俺は焦っていた。

 早く避難しないといけない。研究所の地下に逃げないと。

 こんなところで空爆を受けたら、死んでしまう。


 だけど、ゾンビに囲まれている状態では、結生は車外に出られない。

 俺はまず、車を動かせないかダメ元でエンジンボタンを押してみた。

 だけど、当然、ボタンは反応しなかった。

 車内にキーが落ちていないか、結生にも頼んで、俺は必死に車内を探した。 

 キーを探す俺達を、ガラスに張り付いたゾンビキッズの不気味な視線が追いかけ続けていた。


 キーは見つからなかった。

 そんなに都合よく、キーなんて落ちていない。


 この車は動かない。

 俺達は移動できない。


 絶望する俺を、ガラスを埋め尽くす子どもゾンビ達が嘲笑っているように感じた。


 サイレンの音とともに、攻撃開始5分前を知らせる放送がかかった。


≪5分後に隔離地区で感染拡大防止の軍事作戦が開始されます。非常に危険ですので、封鎖地区および避難指示区域にいる方はただちに避難してください。繰り返します≫


 サイレンと放送の声が、焦っている俺をさらにパニックに陥れる。


(どうする? どうすればいい?)


 ここから研究所まで結生をつれて行く方法が思いつかない。

 ゾンビキッズを排除しなければ、結生は外に出られない。


 逆に言えば、忌々しいゾンビキッズを排除すればいいんだけど。

 俺の手元にあるのはスタンガンと拳銃。

 スタンガンが痛みに鈍感なゾンビに効くとは思えない。

 なら、拳銃を使うか? 

 いくら憎らしくても、相手は小さな子どもだ。

 幼児を殴ったり蹴ったり骨折させただけで、俺は十分有罪な気がする。

 幼児を容赦なく銃で大量に撃ち殺すなんて、どれだけ残虐な奴なんだ?

 それに、たとえ銃を使ったとしても、残弾数よりゾンビの数の方が多い。

 無駄だ。


 さっき公園に子どものゾンビは一人もいなかった。

 ということは、ゾンビキッズには感応現象すらきかない。


 無理だ。

 もう打てる手がない。


 このままここで、空爆が終わるまで待つしかない。

 でも、ゾンビキッズが張り付いている車を爆撃機が見過ごしてくれるだろうか?


 無理だ。

 ここにいたら、十中八九殺される。


 追い詰められた俺の心に、ふとある考えが浮かんだ。


(死ぬくらいなら、結生を感染させてでも避難した方がいいんじゃないか?)


 感染していいなら、避難できる。

 結生はゾンビになってしまうけど、死ぬよりはましじゃないか?


 これが、追い詰められたから出たアイデアなのか、俺の感染拡大欲求から出たアイデアなのか、俺には判別がつかなかった。


 頭を抱えてそんなことを考えていた俺に、後部座席にいた結生が言った。


「先輩。早くしないと空襲が始まってしまいます。先輩は研究所に避難してください。わたしはここで大丈夫です」


「結生だけ置いて行くことなんてできないよ」


 俺が弱々しい声で言うと、結生はきっぱりと言った。


「わたしだけじゃありません。ゾンビになったみんなも危険な場所にいます。でも、先輩は避難できるんだから、研究所に避難してください」


「そんなこと、できるわけないだろ……」


「だって、このままここにいたら、先輩も死んじゃうかもしれません」


 俺は死にたくない。

 だけど、みんなを見捨て、結生まで見捨てて、みんながいなくなった後の世界で、一人だけ生き残った俺は、いったいどんな気持ちで生きていくんだ?


「お願いです。先輩だけでもちゃんとたすかってください」


 みんなが死んだ世界。結生がいない世界……。

 俺だけが後悔しながら生きている世界……。


 俺は強く頭を振った。


「いやだ。そんなの俺はいやだ。俺は結生を助けたい。絶対に」


「わたしも、いやです。先輩が死んじゃうのは絶対にいやです」


 俺は結生を見た。

 そして、その唇を。


 二人とも確実に生き残る方法がある。

 結生の命を確実に助ける方法。

 ここでキスをするだけで、結生は感染する。

 そして、感染してしまえば、二人で避難できる。

 感染しても、死ぬわけじゃない。むしろずっと一緒に生きていられる。

 そして、俺がその提案をすれば、結生は断らない。

 俺はそれを知っていた。


 でも、それが、結生を救うことになるのか?

 寧音は絶対に俺を許さないだろう。


 だけど、俺の口はその提案をしようと動いた。


「結生……」


 その時、車の外から声が聞こえた。


「こんにちは。おとどけものですよ」


 俺がびっくりして振り返ると、窓ガラスの向こう側に、ペッポー君の造られた笑顔が見えた。


「ペッポー君?」


 突然、通信中のままのスマホから中林先生の声が響いた。


「文亮。国防軍の作戦内容がわかった。使用されるのは銃火器や爆弾ではない。化学兵器……つまり、毒ガス攻撃だ。たしかに物質的経済的損失を最小限に感染者を殺戮するには最適の方法だが。ペッポーで防毒マスクと防護服を届ける。時間がない。早く装着しろ」


 しきりにサイレンが鳴り響いていた。

 もう攻撃開始までの時間を知らせるカウントダウンの放送はない。

 これは攻撃開始を知らせるサイレンなのかもしれない。


 俺は運転席のドアを少しだけ開け、ペッポー君が差し出す大きな袋を素早く中に引き入れた。

 手を突っ込んでこようとする子どもゾンビがいたけど、意外と力持ちなペッポー君が子どもゾンビをむんずとつかみ、放り投げた。

 ドアを閉め、俺は袋からガスマスクと防護服を取り出し、まず、後部座席の結生に渡した。

 袋に入っていた説明書を見ながら、中林先生にも教えてもらい、俺が結生に指示をだした。


 防護服を着て、シューズカバーをつけて、手袋をはめて、顔全体を覆うゴーグルと一体型の防毒マスクを装着して、それから、ファスナーをしめて、防毒マスクや手袋のつなぎ目にテープをはりつける。


 防護服装着は思ったより時間がかかる上、一人で装着するのは難しい。

 最初に防護服を着た結生に、俺は順番に次に装着するものを渡して指示を出した。


 ずっとサイレンが響き続けていた。

 防毒マスクを装着し終えたところで、結生が言った。


「先輩、テープは自分ではります。先輩も早く装着してください」


 中林先生も言った。


「ケミテープは後でいい。早くしろ」

 

「わかりました」


 俺は自分の防護服を手に取って広げた。

 俺が防護服に足を通し、手を通した時だった。

 フロントガラスの端に、一瞬、黒い影が映った。まるで巨大な鳥のような何かが一瞬だけ。


(無人機?)


 ほぼ同時に俺は気がついた。

 フロントガラスにへばりついているゾンビキッズの数が減っている。

 まだガラスにへばりついている幼児たちは、苦し気な表情で喘ぎながら泡をふき、痙攣している。

 さっきまでの憎たらしさは消え、そこにあるのはただの無垢な幼い子どもの姿だった。そして、助けを求めるような苦悶の表情で、幼児たちが次々にガラス斜面をずり落ちていった。


 サイレンの音がうるさいせいか、何も聞こえなかった。

 車内にいるせいか、何の臭いもしない。

 だけど確実に、すでに化学兵器が使用されていた。


 俺は急いで防毒マスクを手に取った。

 だけど、防毒マスクを持つ俺の手が激しく震えていた。

 指に力が入らず、俺は重たいマスクを落としてしまった。

 拾おうとして気がついた。

 俺の手足は痺れていて、力が入らない。

 そして目の前がやけに暗い。まるで急に夜になったみたいだ。


 臭いも何もないけど、車内に毒ガスが入りこんでいる。

 俺はブレーキペダルの近くに落ちた防毒マスクを何とか拾いあげた。

 だけど、そこから腕が上がらない。

 半開きになった自分の口から涎が落ちていくのを感じた。

 苦しい。息ができない。

 溺れているようだ。


 俺は悟った。

 手遅れだ。


 俺は間に合わなかった。

 でも、結生だけはたすけられた。

 要領よく防毒マスクをつけていたら俺も助かっていたんだから、間抜けな最期かもしれない。

 なのに不思議と後悔はなく、俺は穏やかな気持ちだった。


「先輩! 先輩!」


 結生の声が、暗闇の向こう、どこか遠くで響いていた。

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