第87話 最後の逃避行
外はどんよりとした曇りだった。
午前中は晴れていたのに、今はいつ雨粒が落ちてきてもおかしくないような暗い空だ。
バスから降りたところで、俺は結生と手をつなぐわけにはいかないことに気がついた。
何気なく顔に触れた後で自分の手を見ると、俺の手には血がべっとりと付着していた。
俺はかなり出血している。
「結生、俺は出血してるから、触っちゃだめだ。誘導するために、なにか、つかむものない?」
「ハンカチでいいですか?」
結生が取り出したハンカチの端を俺はつかんだ。
「俺に近づきすぎないように気をつけて」
「わかりました」
俺と結生はゆっくりと走りだした。
急ぎたいけど、足もとと周囲に気をつけ、さらに結生が俺にぶつからないように、気をつけながら進まないといけない。
中林先生の声がスマホから聞こえた。
「文亮。我々は地下に移動する。地下でも通信機器は使える環境にあるが、機材の移動で忙しい。しばらくは応答しないかもしれない」
続いて、神取さんの声がした。
「文亮君、結生さん、研究所の近くにきたら連絡して。入り口の鍵をあけるから」
「わかりました。ありがとうございます」
俺達はゾンビを避けながら進んでいった。
でも、この辺りにゾンビはほとんどいなかった。
遠くにゾンビが見えたこともあったけど、ゾンビはこちらに背を向け、ふらふらと地下駐車場の階段へ向かって歩いていた。
一度だけ、結生が「後ろから音がします」と言ったことがあった。
だけど、俺が見るかぎり、俺達の後ろにゾンビの姿はなかった。
犬か猫だろうと思って、俺はそのまま進んだ。
サイレンとともに放送がかかっていた。
≪10分後に感染拡大防止の軍事作戦が開始されます。非常に危険ですので、封鎖地区および周辺の避難指示区域にいる方はただちに避難してください。繰り返します。10分後に隔離地区への攻撃が開始されます。非常に危険ですので、封鎖地区および避難指示区域にいる方はただちに避難してください≫
残り時間は10分。
だけど、順調に研究所のすぐ近くまで来ている。
もう研究所はすぐそこに見える。あとは数分もかからない。
ところが、結生がハンカチを引っ張った。
「先輩。声がします。右斜め前の方です」
たしかに、声が聞こえた。
サイレンをまねたようなウーーウーーといった唸り声と、耳障りにかん高い声が、どこかから聞こえる。
俺は周囲を確認した。
十字路の向こう側、右斜め前方のマンションの建物の1階にヒマワリのイラストの描かれた看板が見えた。
「あれは、保育園だ……」
「だから、小さな子の声がしたんですね」
結生は笑ったけど、俺の頭の中では警報音が響いていた。
保育園に避難しそびれた子どもがいるとは思えない。
なのに、保育園のガラス扉の向こうには小さな人影がいくつも見えた。
幼児たちがうれしそうに、こっちを見ている。
異様に青い顔、紫の顔で……。
「引き返そう! ゾンビキッズがたくさんいる!」
「ゾンビキッズ?」
「ゾンビになった子どもだ! 子どもは大人より危険なんだ」
保育園の扉が開き、大勢の幼児ゾンビが笑いながらぞろぞろと保育園から飛び出してきた。
俺は結生を連れて、来た道を引き返し始めた。
幼児ゾンビ達は嬉しそうに笑いながら、俺達の後ろを走って追いかけてくる。
そして、走り出してすぐ、俺はさらに絶望的な事態に気がついた。
俺達が走っていく先に、小さな人影がいくつかあった。
小学校低学年くらいの、保育園児よりは少しだけ年長の子どもが4人いた。
青い顔でニタニタと笑ってこっちを見ている。
立っている姿は一見正常だけど、顔や手足の皮膚にはゾンビマークが浮かんでいる。
さーっと血の気が引いた。
結生が後ろから音がすると言ったあの時から、あの子どもゾンビ達に後をつけられていたのかもしれない。
先を急がず、ちゃんと確認しておけばよかった。
だけど、今更後悔しても遅い。
奇声をあげ、小学生ゾンビ4人は、こっちに向かって走りだした。
小学生ゾンビ達は足が早くて素早い。
あの中を結生を連れて通り抜けるのは無理だ。
俺は後ろを見た。
後ろから来る幼児ゾンビは十人弱。
あの間をすり抜けるのも無理だ。
もう前にも後ろにも進めない。
左右には塀と壁。
横にも逃げ場はない。
追い詰められた。
その時、俺はすぐ傍に乗用車が放置されていることに気がついた。
後部座席のドアの一つが開けっ放しになっている。
電柱に衝突していて自動車の前方部分は少しつぶれているけど、ガラスは無事だ。
俺は車に近づき、後部座席のドアをバンバン叩いて結生に場所を知らせた。
「この車に逃げこもう。ここにドアがある」
ゾンビキッズはもうほとんど追いついていた。
「わかりました」
結生は素早くドアと座席に触れ、入り口をたしかめた。
「そこだ。とびこめ!」
車内に入ろうとする結生にむかって、子どもゾンビの一人が飛びかかった。
俺はその子どもゾンビを蹴っ飛ばし、結生の靴の裏を腹で押して車の中に押しいれた。
そのまま俺はドアの隙間を自分の体で埋めるようにしながら、後部座席のドアを閉めた。
……いや、閉めようとした。
結生を追いかけ手をつっこんできた子どもゾンビの手がドアに挟まって、ドアは閉まりきらなかった。
俺は車内に手を伸ばそうとする子どもゾンビの腕を掴み、同時に、ドアの下側から這ってくる別の幼児ゾンビを蹴っ飛ばした。
そしてドアを少しだけ開けて子どもゾンビの腕を引き抜くと、体重をかけて一気にドアを閉めた。
子どもゾンビ達が怒り狂ったような唸り声をあげて車体に突撃し、そして俺に噛みついてくる。
俺はゾンビキッズ達に噛まれながら、車内の結生に叫んだ。
「カギをしめろ!」
結生は手探りで後部座席のドアのロックをしめた。
「反対側も!」
そう言いながら俺は運転席のドア前に移動し、ドアが開くかどうか確認した。
鍵はかかっていなかった。
開きかけたドアを一度しっかり閉めてから、俺は噛みつくゾンビキッズを蹴ったり投げたりして振り払い、隙をみて一気に運転席に乗りこんだ。
そして、全力でドアを閉めた。
骨が折れるような嫌な音がした。
ゾンビキッズの指がドアに挟まってこっち側に飛び出していた。
罪悪感と忌々しさがまじりあった気分で、俺は一度ドアを開けて子どもゾンビの手を押し出し、ドアを閉めた。
今度は別のゾンビキッズの腕が挟まった。
即座にもう一度開けては閉め、数回繰り返して俺はようやくドアを閉めることができた。
ドアをロックして、他のドアの鍵と窓を確かめ、すべてしっかり閉まっていることを確認し、俺は大きく息を吐いた。
自分が追い詰められたことに、すぐには気がつかずに。
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