第85話 バスの中

 俺はどこかを漂っていた。

 上には青空が広がっている。

 はるか下には海と草原が広がっている。

 俺はその間の空中を漂っていた。


 暑くもなく寒くもない。

 心地よい風、浮遊感、それが永遠に続くような気がした。

 とても幸せな気分だ。

 もうずっと感じたことのない幸福感。

 何も心配しなくていい。俺はこのまま漂っていればいい。

 そんな気がした。


 永遠に浮かんでいるような気分でいると、どこかから、微かな声が聞こえた。


「こっちだよ。こっち」


「誰? どこ?」


 俺がつぶやくと、また声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声だった。


「ほら、こっちだよ。みんなここにいるんだから。早くおいでよ。ここに来ていないのは木根君だけだよ?」


「みんな? どこに……?」


 俺は、声の聞こえた方に行こうとした。


 ところが、俺を呼ぶ声が聞こえるほうに行こうとしたその時、夢のような幸福な浮遊感は唐突に終わった。

 激しい力で全身を上の方に引っ張られる感覚がした。

 俺はどんどんと何かに吸いだされるように上昇していき、そして、突然、吐きだされるように叩き落とされた。


 ・ 

 ・

 ・


 俺は全身に、特に頭や肩や背骨に、どっしりとした重さと痛みを感じた。


「うぁっ。いってぇ」


 さっきまでの幸福な感覚との落差が激しくて、一気に地獄に叩き落されたような気分になった。

 すぐに結生の声が聞こえた。


「先輩! だいじょうぶですか?」


「結生?」


 俺は体を起こそうとして、頭をぶつけた。

 俺の頭はなぜか運転席の座席の下にあった。しかもほとんどさかさまの変な状態で。

 俺はがんばって座席の上に這いあがった。

 バスの中は少し薄暗かった。いつのまにか外は曇りになっているようだ。


「よかった……。先輩が死んじゃったかと……」


 心配そうな結生の声に続いて、少し不機嫌そうな中林先生の声が聞こえた。


「大丈夫だと何度も言っただろう。医療用ペッポーである23号に搭載されていた計測機能でしっかり生存を確認しているのだ」


 俺の近くに23号らしきペッポー君がいて、中林先生の声は、そのペッポー君から聞こえていた。

 俺は立ちあがって車内の様子を確認した。


 フロントガラスには亀裂が入っている。

 車内には、ガラスが散乱している。

 そして、バスの真ん中あたりにあったドアが破壊されていた。

 車内に散乱しているガラスは、あのドアの残骸だ。

 ドアがあった空間には、今は工事用の看板が置かれていた。

 たぶん、ゾンビが入ってこないようにペッポー君が置いたんだろう。

 結生は一番後ろの席に座っていた。


「だって、確かめようとしてもペッポーさんが通してくれないから、わからないんです」


 結生は不満そうにそう言った。


「流血している感染者に触れてはいけない。何度言えばわかる」


 中林先生は珍しく良識的な主張をしていた。


「文亮。手足は動くか? 捻挫や骨折がありそうだが」


 中林先生にきかれて、俺は少し体を動かしてみた。

 力がうまく入らないけど、動かせることは動かせる。

 痛みは、ほとんどない。

 見た目と動き的に、足首は捻挫してそうだし、腕や脛も骨にひびが入っているかもしれないけど。

 たぶん、ゾンビウイルスのせいで痛みの感覚が普通より鈍くなっているんだろう。

 最初の頃、俺の症状は皮膚だけだと思っていたけど、なんやかんやと脳神経もかなり色々とウイルスの影響を受けていそうだ。


 俺はまだぼんやりしたままの頭でたずねた。


「いったい何が?」


 中林先生の説明によると、黒田の銃撃を受けてバスのタイヤがパンク、バスは衝突してしまったらしい。

 そして、俺はその衝撃で前方に投げ出され、頭部をふくむ全身を打ち、意識を失っていた。


 中林先生は俺を非難するように言った。


「なんでシートベルトをしないんだ? 文亮。おまえには常識がないのか?」


 この人にだけは常識がないとか言われたくないけど……。そういえば、乗車してすぐ結生にはシートベルトをつけさせたけど、俺はまだシートベルトをつけていなかった。

 言い返せそうにないので、俺は質問をした。


「銃撃ってことは、黒田が襲ってきたんですか?」


 俺がたずねると中林先生は淡々と説明した。


「名前は知らんが、襲撃犯は衝突事故を引き起こした後、バスのドアを破壊し、乗り込んできた」


「乗りこんできた!?」


 黒田が乗りこんできた理由は、俺を殺すためのはずだ。

 だったら、どうして俺はまだ生きているんだ?


「そうだ。乗りこみ、車内の様子を確認し、おまえの存在を見つけた」


 その後は、結生が説明してくれた。

 乗りこんできた黒田は運転席の辺りに倒れている俺の体を見つけて、結生にたずねた。そこで、結生はとっさに、「菊池さんです」と嘘をついた。

 幸い、俺の頭は運転席の座席の影に入っていたし、自衛兵に変装中で、皮膚が出ている所もなかったから、黒田は結生の言うことを信じたらしい。

 ペッポー君が踊りながら邪魔な場所に立っていたこともあって、黒田は俺の傍に近寄って顔を確認することなく立ち去ったのだ。


 冷静沈着な黒田にしては、意外な、ちょっと間抜けな話だけど。

 中林先生は、淡々と言った。


「襲撃犯には、もっと大事な用があったからだろう。運が良かったな」


「俺のことはどうでもよかった……?」


「ああ。移動途中についでにお前を仕留めようとしていたようだ。そんな相手に見事にバスを破壊されたのは運が悪いとも言えるが」


「移動中? 黒田は今、どこにいるんですか?」


 中林先生は不機嫌に答えた。


「パラダイスワンだ。だが、もうこの世にいない。勝手に死んだ。感染者多数と、とめようとしたペッポー13号を破壊した後でな」


 それを聞いた俺の頭には疑問符しか浮かばない。


「なんで黒田はそんなことを?」


 中林先生はそっけなく言った。


「理由? 考えるだけ無駄だろう。自他を問わず人が人を殺すのはよくあることだ。ゾンビウイルスは宿主を失えば増殖できないため、人を殺さないように感染者の脳を変化させているようだが。非感染者はゾンビウイルスの恩恵を受けていないのだ」


「いや、でも……」


「そんなに知りたいなら、再生しよう。こんなことをしている暇はないはずだが」


 ペッポー君のモニターにパラダイスワンの入り口付近の映像が映った。

 黒田はボウリングコーナー前で寝ていた蛇タトゥーゾンビの頭を吹き飛ばし、それをとめようとしたペッポー君にも容赦なく銃弾を撃ちこんだ。


 俺の前のペッポー君のモニターが、今度はパラダイスワンの地下の映像を映し出した。

 黒田が手当たり次第にアサルトライフルで近寄るゾンビ男達を撃ち殺していく。

 モニターを見ていると、まるでゾンビゲームの実況動画でも見ているような気分になる。

 でも、これはゲームではなく、殺されたゾンビ達にはみんな命があった。


 今度はフードコートの映像になった。

 フードコートの入り口付近に黒田が立っている。

 付近にいた少女ゾンビ達がのろのろと黒田に向かって歩いて行く。

 でも、黒田はまるで近づいてくるゾンビ達に気が付いていないかのようだった。

 黒田はひたすら奥の方にいる少女ゾンビを見ていた。


 あのフードコートにいる少女たちは、俺がカラオケルームから移動した少女達のはずだけど……。

 俺はそこで思い出した。

 そういえば、カラオケルームにいた女性の一人が同級生に似ていたのだ。あの時俺は、ただ似ているだけかなと思ってあまり気にしなかったけど。

 今になって思えば、たぶんあれは黒田の双子の姉か妹、黒田玲だった。


 黒田は、絡みつき噛みついてくる少女ゾンビ達を払いのけながら、引きずりながら進んで行った。

 黒田はなぜかもう感染することを気にしていなかった。

 黒田はゾンビ少女達を引きずりながら玲に近づき、1メートルくらいの距離になったところで、立ちどまった。

 そして、黒田は拳銃で玲の頭を撃ち、次に、自分の頭を撃ち抜いた。

 黒田の体はフードコートの床に倒れ、その上をゾンビ少女達が覆った。


 ペッポー君のモニターは、もう何も映していない。

 俺は暗いモニターに映る自分の腐乱死体みたいな顔を見ながら考えていた。

 黒田はなんで、あんなことをしたのだろうか。

 俺には何もわからない。見当もつかない。

 だけど……もう誰も死ぬ必要なんてなかったのに。


 速川達も、黒田玲も、黒田順一も、死ぬ必要はなかった。

 チンピラ達だって、たとえ酷いことをした犯罪者だったとしても、ゾンビになったら無害なんだから、殺す意味なんてもうない。

 それとも、そう思うのは、俺がゾンビだからだろうか?

 俺のこの、誰にも死んでほしくないという思い、人間らしさだと自分で思っている感覚は、ゾンビウイルスに侵されているからこその感覚なのだろうか?


 中林先生が、考えこむ俺を急かした。


「そんなことより、文亮、おまえは自分の心配をしろ。もう時間がない」

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