第4話 発症

 視聴覚室の外はわりと静かだった。むこうの方で、ゾンビが教室の窓ガラスを割って腕をつっこんでいて、そのガラスの割れる音だけが響き続けている。

 ゾンビはまだ俺の存在に気がついていない。

 廊下の窓からグラウンドを見下ろすと、生徒達が外へと走って逃げていくのが見えた。


(俺も家に帰ろう)


 最初のパニックの状態では外に逃げるのは難しそうだった。だけど、あれはパニックになった生徒達が邪魔だっただけで、ゾンビ自体は動きも遅いし、逃げるのは難しくなさそうだ。

 俺は、とりあえず廊下をゾンビのいない方に進んだ。

 このまま体育館へ行き、体育館前の階段から1階におりるつもりだった。

 だけど、歩き出した俺は、全身にずっしり何かが覆いかぶさっているかのような重みを感じた。それに、妙にやたらと汗をかく。


(気のせいだ。感染しているかもと思ったから、思いこみで具合が悪くなったんだ)


 そう自分に言い聞かせながら、俺は重い体をひきずるように、体育館へと歩いて行った。

 ふだんは簡単に歩ける大して長くない廊下が、やけに長く長く感じた。

 やがて、廊下のつきあたり、体育館を見下ろせる場所に出た。

 体育館からは、バスケのドリブル練習をしているような音や、テニスのラリーでもしているかのような声が聞こえていた。


(こんな時に体育を続けているのか?)


 不審に思って、俺は手すりにもたれかかるように、2階から体育館を見下ろした。

 体育館の床の上で、何組かの男女が、はだけた制服姿でこれ以上なく密接している。

 濃厚接触者にあたるのはまちがいない。


(そ、そういうことか……) 


 俺はとまどった。

 なんでこんな加藤の好きそうな光景が眼下にひろがっているんだ? 

 ゾンビの歩き回る校内で。命からがら逃げるのが普通の状態で?

 死ぬ前にやりたいことをやっておこうということか?

 ……いや、きっと、これはゾンビウイルスの影響なんだろう。

 俺は、そういう考えに至った。

 ゾンビウイルスが感染者の脳を支配し、感染をひろげるために体液の交換を行わせようとするのだ。朝の橋本の行動のように。

 

 よく見れば、体育館にいる女子生徒の顔には、うっすらとゾンビマークが浮かびつつある。

 ゾンビウイルスは感染者を単に狂暴化させるより、ラブ&ピースな行動をとらせる戦略を取ったようだ。

 それでも、感染すれば24時間以内に脳を破壊される恐ろしいウイルスには違いない。

 むしろ、目に見えて異常な狂暴化を遂げるより、こっちの方が手ごわいかもしれない。


 俺は階段へむかった。階段へたどりついた頃には、さらに具合が悪くなっていた。

 俺は手すりに体重をかけながら、なんとか階段をおりていった。

 だけど、立っているのがつらい。足に力が入らない。

 頭が割れそうに痛い。

 目の前が変な色になったり、白んで見えて、足もとの段すらよく見えない。

 やたらと汗がしたたり落ちる。

 息が苦しい。

 開いたままの口からよだれが落ちていく。


 1階までおりた俺に、外に出る力はもうなかった。

 橋本のフリーキスはやっぱり死の接吻だったらしい。たぶん、俺はもう手遅れだ。

 ゾンビになって廊下をうろつく自分の姿が脳裏に浮かんだ。


(ちくしょう。どうせゾンビになるなら、勉強ばっかしてないで、もっと人生を楽しんでおけばよかった)


 でも、どうやって? 体育館のパーティーにでも加わるか? いや、興味ないな。

 死ぬまでにやりたいこと……。頭の中でリストを作ろうとしてもリストは真っ白だ。


(実はそんなに人生でやりたいこともなかったな……)


 俺は近くにあった倉庫に倒れこむように入り、そのまま床に崩れ落ちた。

 もう立ち上がる力も、目を開く力すらなかった。溺れそうになりながら息をするので精一杯だ。

 全身に鳴り響く痛みの鼓動と湧き出る汗の中に溶けるように、俺は意識を失っていった。

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