第14話 佐久間(3)

 いつものように佐久間がカウンタースツールに腰を降ろし、アイリッシュウイスキーを飲んでいると、ひとりの白人男性が近づいてきた。

 その男はロシア人で、ヴォルクと名乗った。

 いまから、五年前の冬のことである。


 ヴォルクはウォッカソーダを注文すると、佐久間に仕事を頼みたいと打ち明けた。

 その依頼こそが、駐日ロシア大使であるセルゲイ・アレクサンドルの暗殺であった。


 佐久間がヴォルクに要求した金額は、1500万。もちろん、日本円で。


 ヴォルクは最初は渋い顔をしたものの、佐久間の要求通り1500万円の入ったアタッシュケースを持って、後日姿を現した。


 契約は成立し、佐久間は駐日ロシア大使を暗殺するためにレフトハンドを送り込んだ。


 結果は知ってのとおり、レフトハンドは見事に駐日ロシア大使を暗殺することに成功した。


 そこまでが、裏社会で噂になっているレフトハンドの伝説である。

 だが、この話には続きがあった。


 レフトハンドこと川瀬克巳は仕事を終え、戻ってくる途中に事故に遭った。

 川瀬の運転していたプジョーに、トラックが突っ込んできたのである。

 トラックの運転手は飲酒運転であり、プジョーに突っ込むまでの間、ブレーキを踏んだ形跡はまったくなかった。


 川瀬はプジョーの運転席で意識を失い、病院へと担ぎ込まれた。

 特に目立った外傷などはなく、川瀬は奇跡的に助かったのだが、ひとつだけ障害が出てしまった。記憶障害である。川瀬は事故のことだけではなく、自分の名前や過去のことも思い出せなくなってしまったのである。


 そんな川瀬に対して佐久間は、別の人間として生きることを選択させた。

 川瀬克己は死んだことにして、この男に新しい名前と職場、住む場所を与え、川瀬をまったくの別人として生活させたのである。


 普通ならば、そんなことは考えられないことであるが、佐久間にはそれが可能であった。


 男は小さな診療所で医師となった。もともと川瀬は医師としての免許を持っていたため、問題はなかった。

 毎日、老人たちの健康状態を診る刺激の無い毎日。

 下手に刺激があると記憶が甦ってしまうかもしれない。


 佐久間はそれを懸念して、あえて老人相手の内科医という職業に着かせた。


 川瀬の記憶が戻らない間も、レフトハンドの噂はひとり歩きをはじめていた。


 駐日ロシア大使暗殺後にレフトハンドは高飛びをしたという噂や、別の殺人事件で犯人が上がっていない事件はレフトハンドの仕事だったという噂など、レフトハンドにまつわる噂話は耐えなかった。


 そんな噂が飛び交う中、佐久間のもとへとやってきたのが、仁科組の相談役を務める榮倉幸三というヤクザ者だった。


 榮倉の依頼は、あろうことかレフトハンドの暗殺であった。

 梟を使って、レフトハンドを殺してほしい。

 佐久間にとって、この依頼は笑い話としか思えなかった。


 だが、佐久間はこの榮倉の依頼を3800万という破格の値段で請け負った。

 ヤクザから金を騙し取るのに罪悪感などは全く感じなかった。


 そして、佐久間は一芝居打ったのである。

 帝都ホテルの一室で発見された、川瀬克巳の運転免許を持つ男。

 あの男は別の依頼で、梟が殺害した男だった。

 たしか、人身売買を行なっている組織で子供の誘拐を専門としている男だったはずだ。

 その男を梟に殺させた後、偽造した川瀬克巳名義の免許証を置いてこさせた。


 これで、佐久間は栄倉から3800万を騙し取ることに成功した。

 全てのカラクリなどというものは、簡単な物である。


 だが、全てがうまく行くとは限らない。

 予想がはずれることもあるのだ。


 佐久間にとって予想外だったことは、榮倉が自分を殺害しようと考えたことだった。

 佐久間は自分に牙を剥いた相手を生かしておくほど、お人よしではなかった。


 榮倉に一泡吹かせなければならない。

 そう考えた佐久間は、レフトハンドを甦らせることにした。


 自らが殺してほしいと頼んだ相手に暗殺をされる。

 これほど滑稽な話は無いだろう。


 しかし、記憶喪失となってしまった人間の記憶を呼び戻すのは簡単なことではなかった。

 だから、佐久間は賭けに出た。

 川瀬を敵の待つ帝都ホテルへと行かせたのである。

 川瀬の記憶が徐々に戻りつつあることはわかっていた。

 佐久間は自分のことを梟だと思い込んでいる榮倉には、梟という名前以外に川瀬という名前も使っていると伝え、帝都ホテルのロビーで会うという誘いに応じた。


 川瀬は佐久間の描いた通り、帝都ホテルで記憶を取り戻した。

 自分が川瀬克巳であり、レフトハンドと呼ばれる殺し屋であるということを思い出したのだ。


 全ては佐久間の掌の上で起きていたこと。

 そう言ってもおかしくはないのである。

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