新しい一日
「明り消しますね」
「うん」
遠隔操作で明りを落とす。徐々に室内が暗くなっていく。
「……ねぇ、ケイ」
闇が訪れる中でリンが呼ぶ。
「はい」
「ケイは一つだけ勘違いをしてる」
天井を向いていた私は、顔を横に向けてリンを見た。けれど室内はすでに薄闇となっており、その顔をはっきりと認識することはできない。
「ケイは私に何もしてあげられなかったって言ったけれど、それは違う。貴女は私に沢山のことをしてくれた。貴女がいてくれるだけで、人間の私は幸せだった」
「……リン」
「それだけは、覚えておいて」
「――はい」
薄闇の中でリンが微笑む気配がした。
「おやすみ、ケイ」
「おやすみなさい、リン。良い夢を」
これまで言ったことのない文句を最後に付け加え、私は瞼を閉じた。
視界が薄闇から闇へと変わる。
以前は目を閉じても、眠れないことがよくあった。この闇を見つめながら得体の知れない不安に襲われ、寝るのが怖く感じることさえもあった。
だが、今日はそれがなかった。
不安に襲われることも、こうする前まで感じていた不安も私の中にはもう見当たらない。
闇の中でも側に感じる体温が私に――そう、安心を与えてくれている。
リンが側にいる。
これが夢か、夢ではないのかはまだ分からないけれど。
しかし、それでも彼女の存在は、リンの温もりは私を、心を持ってから初めての安らかな眠りへと
目の裏に刺激を感じて、意識が浮上する。
瞼の裏が明るい。そう思いわずかに瞼を開けると、暖色がかった光が目に入ってきた。これは自室の明りの色ではない。疑似太陽光灯の明りだ。
それで思い出す。ここはリンの寝室だと。
「おはよう」
聞き慣れた声がして、私は瞼を全部開けた。
目の前にはそれこそ見慣れている、リンの顔が見える。
「ね、夢じゃないでしょう?」
彼女は青い瞳を細めて微笑むと、私の頬に触れてきた。
毎朝必ず、彼女が私にする行為だ。だが、それはこういうシチュエーションで行なわれることではない。そもそもそれ以前に、私より先にリンが目覚めていること自体も初めてだ。
朝を迎えたことと、そのいつもと違う状況が、これが夢ではないのだと教えてくれる。
……そうか、現実なのか。
その事実に、じんわりと胸が熱くなった。感激にも似た嬉しさが込み上げてくる。
「――はい。そうですね」
そう答えると、リンは、ふふふ、と楽しそうに笑った。
「朝からご機嫌ですね」
「始めてケイの寝顔が見られたからね」
「それは、見て面白いものなのですか?」
「とっても」
そう言ってリンはまた笑う。相当に私の寝顔がお気に召したらしい。人の寝顔を見てどう楽しむのか私には理解できないが、それでも彼女が楽しいと感じているのならそれだけでいいと思った。
「これまでだって何度言っても一緒に寝てくれなかったし。アンドロイドは人間の寝台に入ることを許されていませんとか何とか、そればかり言って。そういえば訊いたことなかったけれど、それって何かの決まりなの?」
「都市のアンドロイド法です」
「それなら関係なかったじゃない」
言われてみれば確かにと思う。このシェルターも周辺の土地も全て太陽の一族の所有物だ。だから都市の管轄下には入っておらず、都市法に縛られる所以もない。そして私自身も都市で製造されたわけではないのだから、それに従う必要はなかった。
しかし、心が無かった私はそのことに気付きもしなかった。知識としてアンドロイド法を取り入れた時から、深く考えることなくそれに遵守していた。……どうやらアンドロイドというものは頭が硬いらしい。
「今は更に関係がなくなりましたね」
「お互いアンドロイドだものね」
リンは得意顔で笑うと上体を起こした。私も後に続く。
「横を向いて寝たの、何十年振りかも」
そう言いながら彼女は手を上げて背伸びをした。
リンはいつも上を向いて、手を胸の下で組む体勢で寝ている。だから私もリンが横を向いて寝るのを見たのは、彼女が十歳の時以来だった。
「そういえば、どうしてリンは上を向いて寝るようになったのですか?」
これは心が無かった頃には湧かなかった疑問だ。今の私は些細なことでも、リンのことならば何でも知りたいと感じている。
「それはね、眠り姫みたいになれるからよ」
「眠り姫」
口にしてそんな絵本があったなと懐かしい気持ちになった。眠り姫は幼かったリンのお気に入りの絵本の一つだ。眠り続ける姫を王子が目覚めさせる物語で、よく博士が彼女を寝かしつけるのに読んであげていたのを覚えている。
「それはつまり、毎朝、貴女を起こしている私は王子様ということになるのでしょうか」
「そうね」楽しそうにリンが肯定する。
どうやらリンは、眠り姫という物語の主人公になった気持ちで毎朝を楽しんでいたらしい。
その行動は私の持ちえる人間の知識でも理解できる。
人間は自分以外の誰かに憧れを抱く生き物だとされている。その対象は現実に留まらず、映画やドラマや物語など実際には存在しない架空の人物にまでも及んでいる。
その影響からか都市では誰もが主役になれる演劇型アトラクションや、主人公として物語を体験できるダイブ型ゲームなどが人気を博している。リンの行動も方法は違えど、それらと似通ったものなのだろう。
「それなら、リン。ダイブ型の――物語が夢のような感じで体験できる機器がありますので、今度そちらを試してみてはいかがですか? 探せば姫になれるソフトもあると思います」
「へぇ、そんなのがあるんだ。それってケイと一緒にできるの?」
「いえ、体験型は一人用だったと思います」
「それなら興味ないかな」
「? どうしてですか」
「意味がないもの」
「意味がない、とは」
「王子様が別の人では意味がないってこと」
別の人では意味が無い。
それはつまり、王子様が私でないと駄目だということだ。
「それは、どういう意味ですか」
姫の体験ができるのならば、王子が私でもゲーム内のAIでも変わりないと思うのだが……。
私の疑問にリンは「んー」とひとさし指を口元に当てて何やら考え始めた。
それから少ししてこちらを見ると、意地悪げな微笑みを浮かべて言った。
「教えてあげない」
私は思わず瞬きをして彼女を見てしまう。
「だって私の気持ちを理解できるよう努力してくれるんでしょう?」
「これも、含まれるのですか」
「もちろん。だから考えてみて。どうして貴女でないと意味がないのか」
……なるほど。これは言わばリンからの課題ということなのだろう。
人間を理解するための、リンを知るための私に課せられた課題。
「分かりました。考えてみます」
頷くと、リンは微笑んだ。
「さ、今日は随分と寝坊してしまったわ。身支度して朝ご飯にしましょう」
ベッドから降りたリンがクローゼットへと向かう。
その背を見ながら、私は思う。
夜が明け、リンが目覚め、また一日が始まると。
けれど、それはこれまでの繰り返す日々ではない。
過去をなぞるだけの毎日ではない。
過ぎ去った記憶に捕われる日々は終わりを告げたのだ。
今日からは新しい毎日が待っている。
私もリンも知らない、二人で作り上げる今日が、未来が――。
「どうしたのケイ。もしかしてまだ眠いの?」
クローゼットで服を選んでいたリンが、動き出さない私に向けて言う。
「――いえ。今、準備します」
私は自然と微笑みを浮かべてそう答えると、ベッドから下りた。
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