大切な人1


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 検査台を囲うように覆っていた様々な器具が台の側を離れると、そこに横たわっていたリン型アンドロイドが姿を現わした。

 彼女は閉じていた瞼を上げると、緩慢な動きで上体を起こしてからため息をついた。


「今日は何だか疲れたわ」


 この記憶は、年に二回の健康診断の時のものだ。

 健康診断は生前のリンが最も嫌がることの一つだった。子供の頃は健康診断と聞いただけでも飛んで逃げ出すほどで、その時は私と博士でリンを捕まえるのに苦労したのを覚えている。

 それでも歳を重ねるにつれ、徐々に大人しく検査を受けてくれるようになった。結局は逃げられないのだから、嫌なことは早く終わらしたほうがいいと学んだのかもしれない。それでも決まってあまりいい顔はしないが。


「身体に負担はないはずですが」


 検査は台に寝そべっていれば三十分程度で終わるものだ。その際に血は抜かれるが少量ではあるし、その後の行動にも支障はない。

 私の言葉にリン型アンドロイドは眉をひそめた。


「じっとしてるだけでも疲れるの」


 そう不満げに口を尖らせる彼女を見て、私は場にそぐわない安心感を抱いていた。

 それはリンが脚立から落ちた図書館での記憶で、彼女が我慢していたことを知った影響だろう。

 あれからリンの記憶と過ごす内に、彼女は暗い感情ほど笑顔で誤魔化す癖があることにも気づいた。

 だからこのように素直に不満を露わにする彼女を見ると逆に気持ちが楽になる。今は何も我慢していないのだと明確に知ることができるから。


「読書の時は検査時間以上にじっとしています」

「楽しいことは疲れないの」

「理屈が分かりません」

「気持ちが違うの」


 検査疲れの所為かリン型アンドロイドは少し投げやりにそう言うと、検査台の横に置いていた衣類を持って部屋の隅に移動した。検査着から着替えるためだ。

 背後から衣類が擦れる音を聞きながら、空中のディスプレイを操作する。生前のリンの検査履歴一覧が表示される中から、今回の記憶のものと思われる結果を選択した。

 写し出されたのはリンが十九歳の時のものだ。そこには簡略された人体図と結果をまとめた文字列が並んでいる。


「この検査って意味あるの?」


 振り返るとリン型アンドロイドが背後から覗くように、ディスプレイに映された検査結果を見ていた。それは文字通り本当に見ているだけで、内容を読んでいる様子はない。説明には専門用語が多く使われているのもあり、読んだところで理解できないことを彼女は知っているからだ。


「あります。汚染病の進行度や、新たに生まれた病原体を見つけることができます」

「病気に関しては分かるけど、汚染病はほっといてもいいじゃない」


 身体が汚染されることでかかる汚染病は、目立って身体に悪影響を与えるものではない。

 風邪のような症状が出る場合もあるが、それは希有な症例だ。大半の場合は寿命の殆どを元気な状態で過ごし、最後は気力を失ったように眠るように死に至る。

 故に汚染病は別名、寿命を喰らう病、とも呼ばれていた。


「そういうわけにはいきません。進行度を記録しておくことにより――」


 その先に言うべき台詞を前にして、私は思わず言葉を止めていた。それがあまりにも今の自分の気持ちに反する言葉だったからだ。

 自分のことながら信じられなかった。以前の私がそれを簡単に言うことができたのが、リンの前で何の感慨もなくそれを口にすることができたのが。

 言葉を止めたことにより、リン型アンドロイドの動きも止まる。

 まるで再生を止めた記憶メディアのように、表情を固まらせたままこちらを見ている。

 言うべきことを言わなければ記憶は進まない。この記憶だけをスキップすることも可能だが、端からそれは選択肢に無い。

 たとえ心がなかったとしても、私がそれを口にしたのは事実だ。

 その事実から、リンの記憶から逃げるような真似だけは、したくはなかった。


「貴女の寿命を、確実に把握することができます」


 それを聞いた瞬間、彼女の表情に変化はなかった。

 ただ、視線を逸らすと何てことのないように言った。


「色々と準備が必要だものね」


 我慢している、と今なら分かる。

 何でもない振りをして、本当は気にしているのだと。

 私の心ない言葉が、彼女の心を傷つけてしまったと。

 リンは子供の頃から私に心が宿ると信じていた。ずっと願ってくれていた。けれどそれは逆に考えると、私が心を持たないアンドロイドだということを理解していたことにもなる。


 それでも、それが分かっていても、寂しかったのだと思う。

 私がリンの死を事務的に捉えていることを。


 怖かったのだと思う。

 目を背けていたかった死を突きつけられたことを。


 けれどもリンはその気持ちを露わにすることはなかった。傷つけた相手に感情をぶつけることもなかった。ただ笑って誤魔化していた。触れれば消えてしまいそうな儚い微笑みを浮かべて――。


「てことは、お母さんの時も分かってたんだ」

「はい」


 博士は自分が汚染病にかかっていることをリンに話していた。ピクニックで外に連れ出す以上、汚染風の危険性を説く必要があったからだ。しかし自身の寿命に関しては最後までリンに伝えなかった。私にも、もしリンに訊かれたら誤魔化すようにと言っていた。

 今思えば、博士に口止めされていたことは後にも先にもその一点だけだった。


「分からないって二人とも言ってたのに」

「博士が貴女の悲しむ顔は見たくないと」

「もう、自分勝手なんだから」


 亡き母親に対して彼女はそう言うと、すっと目を細めた。その眼差しはここではない何処かを見据えているように見える。おそらく昔を懐かしんでいるのだろうと思った。短命を憂うことなく、気持ちを我慢することなく、リンが最も自由でいられた、母親が生きていた日々を――。


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