夢――懺悔


 気づけば今日も殺風景な廊下を歩いていた。

 周囲には誰もおらず、風景だけを見るとこれが現実なのか夢なのか判断するのは難しい。

 しかし今日は手に持たれているものでここが夢の中だと認識する。両手に持たれたトレーの上には、紅茶のティーセットとジュースが乗せられている。博士とリンのものだ。

 二人が存在しているのは夢――記憶の中だけだ。

 現実にはもう二人はいない。いるのは私とリンの記憶を持った人形だけ。

 そう考えると私は現実でも夢でも、過去と過ごしていることになる。

 ならばこの夢も心情の表われなのだろうか。


 リンを失った現実から目を背け、リンが存在しない未来を見たくないという私の心の――。


 私の行き先は図書館だった。図書館のソファには博士とその膝で眠るリンの姿がある。

 博士が本を読んであげている最中に眠ってしまったようだ。

 サイドテーブルにトレーを置くと、博士が言った。


「隣に座ってくれる?」

「はい」


 博士の右側はリンの身体があるので、私は左に回って腰を下ろした。

 すると博士が軽く寄りかかってきた。初めてのことだった。


「お疲れですか?」

「ううん。少しね、昔を思い出していただけ。よくここでこうやって本を読んでいたから」

「博士がですか?」

「エンが。私は物語が好きではなかったから。やっぱりりんは彼女に似たのね」


 そう言って博士は娘の頭を撫でた。触れられてもリンは微動だにせず小さな寝息を立てている。リンは一度寝入ってしまうと、ちょっとのことでは起きることがない。それを分かっているから博士もリンの頭を撫で続ける。愛おしむような微笑みを浮かべながら。

 しばらく博士は喋らなかった。だから私も黙って二人の様子を眺めていた。


 幼いリンがいて、博士がいて、三人で過ごす、なんてことのない時間。

 けれど今では、この時間が何ものにも代え難い尊きもののように感じる。


 もう手の届かない、もう二度と手に入れることができない、

 夢のようで、本当に夢となってしまった日々――。


「ケイ」


 感傷に浸っていると不意に、博士が私の名を呼んだ。

 沈黙から十分後のことだった。


「はい」


 返事をすると、博士はリンを見据えたまま言った。


「この子は、長くは生きられない」


 それは小さく、だがはっきりとした重い声音だった。


「エンの遺伝子が原因ですか」

「えぇ。原因を取り除こうとはしてみたの。でもそれはエンの一族ですら出来なかったこと。彼女が言うには、一族の短命は神の力を行使してきた代償なんですって」


 神の力の代償――それは科学者一族が使うにはあまりにも非化学で非現実的な言葉だった。

 博士はまだリンを見ていた。それでも、顔を見なくても私が考えることが分かったのだろう。彼女は苦笑して言った。


「冗談みたいでしょう? でもエンは本気でそう言っていたわ」

「それでしたら何故、博士の遺伝子のみでリンを生み出さなかったのですか」


 博士が、はっ、としたようにこちらを見た。

 その表情が驚いているのは、私の言葉が博士を非難するようなものだったからだろう。

 しかもそれは言葉だけではなく、口調にも表われていたから尚更に――。

 当時の私は自分の内に観測することができない何かを感じてはいた。

 けれどそれを分析しようとも、博士に報告しようとも思わなかった。

 それよりも私は知りたかった。ただ理由が知りたかった。

 何故リンが短い命で生み出されなければならなかったのかを。


「たとえ高度汚染をしていたとしても、博士の遺伝子だけならばリンは長く生きられたのではありませんか」


 汚染病にかかった人間から生まれた子供は、確実に親から汚染度を引き継いでしまう。

 けれどそれは自然交配の場合であり、クローンは当てはまらない。クローンならば生殖機能の低下を引き起こす原因を取り除くことができずとも、汚染度をクリアな状態で生み出すことは技術的に可能であったし、リンもその技術により生み出されていた。

 それなのにリンは短命だった。全てはエンの遺伝子が原因だ。

 最初から博士の遺伝子だけならば、リンが若くして命を落とすことはなかった。

 エンの遺伝子さえ混ぜなければ、リンはまだ、生きていたのだ。

 私には分からなかった。

 多くの親にとって子供は自分の生命よりも大事な存在だという。

 その子供が短命になると分かっていて博士は何故、エンの遺伝子を掛け合わせたのか……私には分からない。


「その通りよ」

「では何故ですか」


 博士は私の詰問から逃れるように視線を落とすと、


「私の、我儘よ」


 小さく、まるで懺悔をするかのようにそう言った。


「この子には恨まれるでしょうね」


 淡く悲しい微笑みを浮かべながら。



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