「最新の汚染濃度は?」


 昼食後、私室のソファで本を読んでいたリンが唐突にそう訊いてきた。

 彼女は読書の最中に話しかけてくることや、朝食時以外に気象を再確認してくることはまず無い。ごく稀にそれが起こるときは、決まって天候に恵まれず外出できない日々が続いた時――つまりリンの我慢が限界の時だけだ。

 この流れはよくないと理解しながらも気象予報プログラムにアクセスする。

 天候は曇り。汚染濃度は最低濃度。汚染風の確認は出来ず。ここまでは朝の気象予報と同じだが、昼過ぎから夕方にかけて気温が二度ほど低くなる予報に変わっている。

 曇りの日はただでさえ気温が低くなるというのに、それを更に下回る予報――外出が出来るか出来ないかと問われれば、適切ではないという状況だ。

 しかし適切ではないということは、不可能ではないということでもある。

 そして仮に不可能だと伝えることは、主人に嘘をつくことにもなる。

 例え主人の身を案じての嘘だとしても、アンドロイドは主人に嘘を付くことは出来ない。


「最低濃度です。が、お勧めできません」


 なので私はこう答えるしかない。

 そして駄目と言わない限り、リンが返す言葉は分かっている。


「でも行くわ」


 行きたい、でもなく、行く。

 揺るがない意思で、いつも彼女はそう言う。

 決めたら何を言っても無駄だということは分かっている。

 ……本当に、幼少の頃から頑固なのだ。

 私はソファから立ち上がると、クローゼットからコートを手に取った。そして同じく立ち上がっていたリンにそのコートを着させる。彼女は銀のウェーブした長い髪をコートからすくい出すと言った。


「行きましょう」




 地下一階。シェルター入口。

 五メートル四方の簡素な空間であるその部屋は左右に防護服を着用する部屋に繋がる扉が、正面には地上へと通じる防扉があった。そして防扉の上には外の汚染濃度を表わす数値計が設置されている。

 今表示されている数値は七~十。

 汚染濃度は気象の急激な変化により上昇することも少なからずある。そういう時は数値の変動差が激しくなるのだが今日はその兆候は見られない。予報通りの最低濃度だ。

 本来は最低濃度でも毒性があることには変わりない。だがその影響を受けるのは健康な人間と普通のアンドロイドだ。私たちにそれは当てはまらない。

 防扉の前に着くと、リンは小走りに防扉の右側にある端末へと近づいた。そして慣れた手つきで端末にパスコードを入力していく。

 リンが操作している端末は防扉のロックを解除するためのものだ。いつの頃からかそれを行なうのは彼女の役目になっている。リンは機械に対して苦手意識を持ってはいたが、この端末だけは別だった。おそらくこの端末が従来のホログラムタイプではなく今時珍しい実物タイプだったのと、パスコードが十桁の数字を入力するだけのシンプルなものだったからだろう。それに加え、端末=外に出られるという行動と結果の結びつけが、この端末限定で苦手意識を克服させたのかもしれない。リンは外に出ることを何よりも楽しみにしていたから。

 パスコードによりロックが解除された防扉がゆっくりと上がり始める。それを側に戻ってきたリンと静かに待つ。そこから何枚もの防扉を抜け、私たちはようやく外へと繰り出した。

 外は室内よりも薄暗かった。天候が曇りなのと周辺が木々に埋め尽くされている所為だ。

 私たちが住む地下シェルターは広大な森に隠されるように作られている。そして森そのものも〈太陽の一族ニベルファルン〉の技術により、経路を知らない者には辿り着けないよう目くらましがされているらしい。その理由が暴徒から身を守るためだったのか、はたまた一族が人間嫌いだったのかは知らない。


「生憎のお天気だけど、やっぱり外はいいわ」


 リンは空に向けて背伸びをしてから、振り返って嬉しそうに微笑んだ。


「出来れば、もう少し天候が良い日にして頂きかったです」

「うん。ごめんね。いつもわがまま言って。反省はしてるのよ」

「反省されてるということは、何度目のわがままか覚えているということですか?」

「七回目ぐらい?」

「五年で一二回目です」

「わぁ、私ったらわがままし放題」


 リンは悪びれも無くそう言うと、楽しそうに笑った。

 姿形が少女から女性に成長しようとも、こういう時の顔は幼少時代となんら変わりがない。

 無邪気で天真爛漫――博士はリンをそう評していた。

 研究の邪魔をされても、悪戯をされても、笑って許していた。

 あの時の私には博士の心情が理解できなかった。でも今は――。


「……予報によるとしばらく天候は小康状態ですが、その通りに行くとは限りません。急ぎましょう」


 胸に湧いたものを押さえつけて、リンに左手を差し伸べた。彼女は私の手を取って握る。

 外出時に手を繋ぐのは、幼少の頃から続く行為の延長によるものだ。

 本来は目を離した隙に何処かに行ってしまうほどに活発だったリンが外で迷子にならないようにと始めたことだったが、大人になった今でもこれを続けているのは彼女が望んだからだ。

 主人が望んでいる以上、私に拒む権利はない。それに手を繋ぐことでリンの体温を把握することも出来るので私にもメリットはある。だからこの行為自体には何も不満はないのだが――。

 歩き出した彼女の歩幅に合わせながら、私は言った。


「リン、こういうのを聞きそびれたというのでしょうが」

「うん」

「どうして手の繋ぎ方が変わったのですか」


 訊いてから私は繋いだ手に視線を落とした。私の手をリンは指を絡めるように握っている。

 幼少の頃は普通に握られていた手は、いつの頃からかこの握りかたへと変化していた。

 疑問に感じながらも私はこれまでこの事に関して言及することはなかった。

 それを今この時に訊こうと思ったのは、ふと気になったからだろう。

 リンは「随分と聞きそびれたのね」と、くすくす笑うと続けて言った。


「こっちのほうが深く繋がれるし、それにあったかいじゃない」

「肌が接触する面積的な意味合いで言っているのなら、大して変わりはないと思います」


 私の言葉にリンはまた面白そうに笑うと、手を繋いだまま私の前に一歩踏み出した。

 そして振り返って繋いだ手を自分の胸へと引き寄せると、笑顔を浮かべて言った。


「心がよ」


 ――人工心臓が大きく跳ねた。

 あの時以来、乱れることのなかった作り物の心臓が強く波打つ。

 その耳に届くほどの異常な心音は、私に一つの予測をもたらした。

 もしかしたらこの時だったのかもしれないと。


 この時から私は――壊れ始めていたのかもしれないと――。


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