七
「今帰った」
俺の予想に反して千円を奪っていった男は帰ってきた。男はいやに身体を濡らして嬉しそうに酒瓶を二つ抱え、ポリ袋に何かを入れてきた。
「酒を買って、いろいろ話して、少し片付けなぞを手伝ったら、酒を一本と食い物も貰ったよ。いやぁ、今時分こんなこともあるもんだって、逆に感心したよ、僕ぁ」
その戦利品とやらの入ったポリ袋を食卓にゴロゴロと置き、それから男は服を脱ぎ出した。
「タオルと服を借りても好いかい、君。雨に濡れたまんまじゃあ、風邪をひいちまう」
俺は男にタオルと服を差し出した。男は着替え終わると、家の中の物干に濡れた服を掛けた。男は服を掛け終えると、俺の煙草を断りも無く一本失敬して、火を付けた。
白い息を吐きながら男は言った。
「僕が逃げると思っていただろう、君。ところがどっこい、僕は逃げやしないよ。千円ぽっちより、君の方が興味深いからね」
相も変わらず偉そうな口調で、俺に話しかけるこの男が、俺にはどこの誰だかも知れないのに、男は俺に興味を持っているのだと云う。
「それで、君は誰なんだい。どうも俺は君を知らないのだが」
「何だい。そんなことは大した問題じゃあないに決まっている。僕は君を知っているよ。梅田だろう。梅田太郎(うめだ たろう)、梅太郎(うめたろう)だろ。常総のどこだったか霞ヶ浦の辺りの家の生まれだろう。大学からこっちに来た。この島に来たんだろう。知ってるよ」
男は少し困ったという風に言った。
「いや、俺は君を知らない。いったい全体、君は誰なんだい」
また男は困った顔をした。
「ソレは一晩付き合えば分かる事に違いないから、とにかく呑もうじゃないか」
「君の所在を聞くまで俺は呑まない」
「君もしつこいなあ。強情だな。それに所在たあ、すこしキザじゃないか」
男はムッとして声の調子を強める。
「しつこくても、強情でも、キザでも俺は君の所在を聞くまでは呑まない。そんなに呑みたいなら、勝手に呑んでくれ」
俺がそう言うと、仕方ないという風に男は本当か嘘か知れない事を吐いた。
「僕は赤塚岳次(あかつか たけし)。出羽の山奥の出さ。僕も大学でこっちに来たんだ。それで、君という好人物が居ると云うので、尋ねたのさ。と言っても、二三度君の後ろをつけてみたことがあってね、君が酔っぱらった時なぞに横で色々聞いたりしたもんだが、君はどうにも覚えてないらしい。まあ、とにかくそんな風な仕切り直しってことで、呑もうじゃないか」
出羽の出身だからって、いったい何だって云うんだ。昨今お相撲取りでもそんな風には言わない。普通、常総なら茨城、出羽なら秋田だかと言う。男に言わせれば、この島はきっと琉球だとか言うのだろう。そもそも出羽の出だとか、そんなコトは俺には関係ないじゃないか。だいたい酔っぱらって居たって俺が覚えてない筈がない。
「まあ、良い。千円をくれてやったのだから、呑まなきゃ損するのは、俺だ。とことん呑んでやるよ。二升あるんだから、俺には一升を呑む義務がある。」
俺がそう言ってぐい呑を二つ出すと、赤塚とかという男はにやにやしながら酒を注いだ。
「そうこなくっちゃなぁ。近頃は酒呑みも少なくなって寂しいもんだが、君はどうやら違うようだ。一升呑もうなんてそこいらの中戸が言う筈もない。君は全くの上戸らしい。」
男は酒を注ぐと、杯を突き出す。
乾杯をし、俺は酒を賞味した。色、香り、味、戻り香、喉越し。悪くない酒だった。水の様に喉を通り、爽やかな吟醸香と甘味、酸味が調和して、まるみを伝えるそんな酒だった。この土地に来てから呑んでいない酒の味だった。千円ぽっちでこれが一升呑めるなら、安いものだと思った。
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