⑥
「こんばんわ、菅野将大です。2022年10月12日水曜日のこの時間は菅野将大がお送りしてまいります──」
充電中のスマホから一昨日放送のラジオ番組が流れ始める。
「えー、なんとね、今回で放送300回目を迎えたわけですけども──」
壁に寄せたシングルベッド、白い天板のローテーブル、グレーのビーズクッション、32インチの液晶テレビを載せたテレビボード、畳んだ洋服を直置きしているシルバーラック、掃き出し窓の横から延ばした電源タップ、と必要最低限なものしか置いていない七畳の部屋の中で、
「美味っ」
時刻は夜の八時を回っていた。
きっと今頃、職場の同僚たちは夜の街に繰り出して華金を楽しんでいるに違いない。その誘いを毎回断ってるうちに沙耶香はすっかり呼ばれなくなっていた。
元々、大人数ではしゃぐのは昔からあまり得意じゃなかった。喧騒の中に身を置いていると、いつもどこか肩に力が入ってしまって楽しめないのだ。せっかくアルコールで得られた高揚感も、誰かしらの視線を感じるとそれが半減してしまう。仮に粗相なんてしてしまえば、きっとみんなから白い目を向けられるに決まっていた。それなら、最初から何も気にせずお気に入りのラジオを聴きながら独りで晩酌するくらいがちょうどよかった。
「いやー、それにしても驚きだよね」
「何が?」と沙耶香は反応した。
「
「ああ、それね」
「二人とはドラマで共演したことがきっかけでプライベートでも一緒に遊びに行くくらい仲良かったから、交際してることはずっと前から知ってたんだけどさ、いやー、やっぱさ、改めてお似合いな二人だなって思っちゃうよ」
「うーん。でも、篠崎真也って女癖悪いってイメージあるんだよねえ」
大人数いる酒の場が苦手とはいえ、沙耶香は酔うと口数が増える。だからいつもこうして菅野将大のラジオ放送にそれっぽく合いの手を入れていた。
「ただ、ファンの間では『田倉ロス』と『篠崎ロス』がすごいらしいね」
「私は全くのノーダメージだったけどね」
沙耶香はそう言ってビールを一口飲んだ。
「なんかちょっと羨ましいよ、そういうの」
「どういうこと?」
「もしさあ、俺が結婚したらリスナーのみんなは『菅野ロス』を起こしてくれるのかな?」
「そんなこと言わないでよ。結婚なんて私が絶対に許さないんだから」
考えたくもない未来だった。沙耶香にとって菅野将大は人生で唯一の癒しであり、楽しみであり、支えであった。決して誰にも汚すことを許されない神の領域にいる人間。この世で最も格好良くて面白くてお洒落で演技が上手くて完璧な人間。それが菅野将大であり、沙耶香は彼を産んでくれた両親にも最大の敬意を払っていた。
初めて彼を見つけたのは、まだ沙耶香が高校二年生だった頃──
クラスの女子が読んでいたファッション雑誌の隅の方に、カーハートのデニムのオーバーオールに白い半袖Tシャツを着ていた彼が載っていた。その姿が視界に入った瞬間、全身に電流が走ったような衝撃を受けたことは今でも鮮明に覚えている。それが人生で初めての一目惚れだった。
周りのみんなが既に世に知れ渡っていた他のモデルや俳優たちに釘付けになっている中、沙耶香だけはまだ無名だった菅野将大から目が離せなかった。
それから彼はいつの間にか雑誌の表紙を飾るようになり、深夜ドラマで俳優デビューを果たすと、すぐさま各局のテレビ番組で『ネクストブレイク俳優』として紹介されるようになり、ゴールデン帯に放送されるドラマの初主演、月9ドラマデビュー、映画デビュー、日本アカデミー賞新人俳優賞受賞、その翌年に主演男優賞受賞──と、ここ四、五年のうちにトントン拍子に芸能界を駆け上っていった。
今でこそ彼は国内でも一、二を争う人気俳優になっているわけだが、沙耶香はここ数年でファンを名乗り始めたような『にわか』共とは明らかに違う。彼女にはもう十年以上も彼のことを追いかけている歴史があり、彼の載っている雑誌や写真集は毎回三冊ずつ買うほどの愛情深さがあり、ブルーレイの録画リストを彼の出演した番組で埋め尽くす一途さがあった。彼がシャンプーを替えたと言えば、翌日の仕事終わりに立ち寄ったスーパーで彼と同じシャンプーを買い占めたし、彼がスマホゲームにハマっていると言えば、すぐに同じアプリをダウンロードして苦手だったゲームに毎日没頭した。
そんな自分が周りと比べて異常だということは十分に理解していた。推し活のせいで日常生活に支障をきたしているという自覚もあった。寝不足上等、金欠上等、菅野将大以外の男なんて誰も愛せない、そんな自分に満足していた。
沙耶香にとっては菅野将大こそが、たった一つの生きがいだったのだ。
仮に菅野将大が結婚したという報道が流れてみろ。刺し違いになったとしても、結婚したというその女性を迷わず殺しにいってしまうだろう。
「まあ、結婚する予定なんてまだまだないんですけどねっ」
おどけた口調で彼は言った。
「金輪際、そんな冗談は言わないでよ」と沙耶香は口を尖らせた。
やがて缶ビールが空になると彼女はラジオを一時停止させ、冷凍庫からキンキンに冷えた缶チューハイを持ってくる。「知ってる? このホワイトサワーめっちゃ美味しいんだよ」とスマホ越しの菅野将大に宛てた独り言を口にし、またラジオを再生させた。
「そういえばさ、みんな聞いてっ」
声を弾ませた菅野将大が可愛くて、つい顔が綻んでしまう。「どうしたのよ?」
「こないだの日曜日の話なんだけどさ」
「えっ、もしかして私が髪切ったことに気付いてくれた?」
もちろん彼がそれにうんと返事してくれるはずがない。なにしろ相手は既に録り終えたラジオ放送の中にいるのだから。
そんなことはわかっていながらも、今更そんなことを気にする様子もなく沙耶香はプルタブを開け、缶チューハイに口を付ける。
「実は昔からずっと大好きだった人に会えたんだっ」
途中まで傾きかけていた缶チューハイをつい咄嗟に止めてしまった。
「……えっ?」
一瞬で思考回路が遮断された頭の中に、大好きな人──というその言葉だけが張り付いて剥がせなくなった。これまでに、そんな話はテレビでもラジオでも雑誌でも、一切聞いたことがなかった。
「どういうことなの? ねえ、説明してよ……」
沙耶香はローテーブルの上に缶チューハイの底を思い切り叩きつけた。その勢い余って注ぎ口からホワイトサワーが溢れ出たことなどお構いなしに、彼女は充電していたスマホの画面を凝視していた。が、彼はこちらの気持ちなど汲み取るはずもなく、意気揚々とした声で話は続いた。
「我ながらめっちゃくちゃテンション上がっちゃっててさ、たぶん、向こうには変人に見えてたと思うんだよねー。まじで失敗だったなあ」
「そんな話はどうでもいいって。相手は誰なのっ? 女優? タレント? それともスポーツ選手?」
沙耶香はスマホ越しの菅野将大を問い詰めた。
すると、まるでこちらの声が聞こえたかのように彼は訥々と話し始めた。
「まあ、これは初めて話すことなんだけどさ。あれは何年前くらいだったか、たぶん、俺がまだモデルデビューして間もない頃だったと思うんだけど……」
沙耶香は一言一句聞き漏らさぬよう、すぐさまスマホの音量を最大値まで上げる。
「実は昔からあるブロガーの追っかけをやってたんだよ。追っかけっていうか、まあ、ファンだよね。『むこせいのつねと』っていう人なんだけど、みんな知ってる?」
「……ブロガー。誰よそれ、聞いたこともない」
そう吐き捨てると、またもや彼との会話が噛み合った。
「まあ、知らなくても無理はないと思う。だってそのアカウント、誤解を恐れずに言うけど、10人くらいしかフォロワーがいないんだよ。しかも、ブログ記事にコメントするのも毎回俺だけだし──」
沙耶香はすかさず『むこせいのつねと』と検索バーに打ち込んでいた。検索予測の欄には『無個性の
これだ──と思った時には人差し指が勝手にそれをタップしていた。
「なんか感情移入しやすいっていうかさ、俺もデビューしたてで苦しい時期とかあったけど、その記事を読んで毎回救われてたんだよ。この人も俺と同じで何かを掴もうと必死にもがいてるんだろうな、って思えてさ、仲間じゃないけど、同じように戦ってる人がいるって知れただけでもなんだか心強くてさ──」
沙耶香は菅野将大の影響力の大きさに改めて驚かされた。どうやら、彼が良しとするものを無条件に良しとみなすファンは自分以外にも数多く存在していたらしい。まだラジオが放送されてから二日しか日が経っていないにもかかわらず、画面に表示されている『無個性の凡人』は一万人以上ものフォロワーを抱えていた。
「毎日欠かさず記事が更新されてるんだよ。だから、リアルタイムで『凡人』さんの近況を追えるんだ。上京した時のこととか、セミナーに通い詰めて失敗したこととか、二年前にリストラを味わったこととか、全部ブログにさらけ出してくれるから読んでるうちにだんだん親近感が湧いちゃってさ。だからたぶん、この前もあんなにガツガツいっちゃったんだろうなあ──」
人気記事のトップに躍り出ていたのは『お婆さんにもらった黒糖飴』という二年前の記事だった。その下には菅野将大がついさっき紹介した通り、『会社をクビになりました』という記事が並んでいる。
沙耶香はそれらの記事をランキング順に上から血眼になりながら閲覧していき、その主語がどれも「僕」であったことにふと安心していた。それから彼女は五つほど記事を読み終えた後、画面表示を新着順に変更した。
すると今度は『まさか本当にクルトが進化する時がくるなんて……』という記事が一番上に表示され、彼女はそれをタップする。「クルト」というのは何やらカードゲームに登場するキャラクターらしい。「デュエマ」という言葉は小学生の頃に、クラスの男子がよく口にしていた覚えがあった。
「リスナーのみんなにも是非彼の記事をたくさん読んでもらいたいな」と菅野将大は言った。「みんなで一緒に彼のことを応援してあげようよ──」
そこに自分の意思がどれくらい含まれていたのか正確にはわからない。そもそも、『無個性の凡人』という人間の人柄や生き様を知らない沙耶香には彼のことを応援する義理なんてなかった。
ただ、菅野将大を産んでくれた両親に最大の敬意を払っているのと同じように、彼のことを支えてくれた『無個性の凡人』にも最大の敬意を払ってあげようではないか。
それがファンとしての最低限の務めであるような気がした沙耶香はいつの間にか怒りも忘れ、その親指は迷わず『いいね』をめがけて伸びていた。
『──まさか僕のもとに書籍化の話が舞い込んでくるなんて、十年前の僕は想像もつかなかっただろう。その連絡のおかげでこれまでの何もかもが報われた気がした。
もしかすると僕の人生はこれをきっかけに色付き始めるのかもしれない。そんな兆しが見えた今、僕はやっぱり夢にしがみつき続けた過去の自分を褒めてあげたい。潔く夢を諦めきれず、自分のことをずっと心のどこかで過大評価し続けていた自分自身に今日くらいは拍手を送ってやりたい。
運が良かった。たぶん、それが全てなんだと思う。
それでも心の隅の方では、今の僕が在るのは惨めで情けない経験をたくさんしてきた自分がいたからであり、それをブログに投稿し続けた過去があったからであるとも思ってしまう。
諦めが肝心、なんて言葉もあるくらいだ。夢を諦めることが人生の中ですごく重要なことなのは知ってる。
実際、夢を追い続けたところで大半の人生はこれといったトピックが起こらないまま終わっていくんだろう。
でも、人生は何が起こるかわからない。それを今日、肌で感じてしまった。
もちろん、これから先もどんな未来が待ち受けているかわからない。これまでよりもっと酷い運命を辿ることになる可能性だって大いにあるだろう。
それでも、一筋の希望の光が見える限り、それを理由に僕は夢を追い続けてしまうんだと思う。むしろ、それは僕にとっては楽な選択なのかもしれない。だって僕は弱い人間なんだから。弱い人間はいつだって楽な道を選ぶ。
僕は何か大きな支えがないと生きていけない。支えのない人生なんてまともに歩いていけない。その支えが僕にとっては夢だった。
別に漠然とした夢でもいい。たぶん、持っていないよりは真っ直ぐ歩ける。
だから、夢を諦めるなんて、僕からすれば強い人間のすることだ。
才能もなく平凡で無個性の僕は、進化を待ちわびて盤上に居続けたクルトのように、これからも死に物狂いで夢にしがみついていくことでしか満足に生きていけない。
きっとこれから先、僕はそんな弱い自分のことを幾度となく恨むだろう。
でも今日だけはそんな弱い自分に言わせてほしい。
過去の僕よ、本当にありがとう。よくしがみついたね。
そして未来の僕よ、これからはもっともっと頑張るからね』
クルト(No.3) ユザ @yuza____desu
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