しばらく経って店に戻った僕は、テーブルの上に五千円札を一枚置き、先に帰ることを二人に告げた。

「えっ、どうしたんだよ急に」と晃一は言った。「何かあったのか?」

「……ちょっと仕事がね」

 僕は平気で嘘をついていた。

「えっ、でも今日土曜日だぞ?」

「うちの会社は土曜でも営業してるんだよ」と僕はまた嘘を重ねる。

「でもお前、酒飲んだまま仕事行くのか?」

「まあ、それでも来いって言われてるんだから仕方ないよ」

「まじかよ。お前が勤めてた会社ってそんなにブラック企業だったのか」

 僕は伏し目がちに「わりいな。せっかく誘ってもらったのに」と謝った。すると晃一は怒るどころか「大変なんだな、お前んとこも」と同情してくれた。研修とはいえ、せっかく地元から東京まで来てくれたのに本当に申し訳ない。僕は心の中で二人に再度謝った。変な嘘ついてごめんよ──

「そっか。でも仕事じゃ仕方ないよなっ」

 一方で、卓海はどこか安堵した様子に見えた。おそらくは、僕が無職じゃなかったと思い込んで安心しているのだろう。そんな彼を前にして、今更本当のことを打ち明けられそうにもなかった。もちろん、打ち明ける気もさらさらなかったのだが……。

「でもお前、目元が赤くなってるけど大丈夫なのか?」

 僕は思わずハッとした。

「さっき電話で上司と揉めちゃってさ」

 そう言って慌てて目を擦ったが、上手く誤魔化せていたかはわからなかった。ただ、たとえ二人がどんなに察しが良くても、ついさっき僕がアルバイトの面接に落ちていたとは考えもしなかっただろう。

「無理すんなよ? 一応、俺たちもまだしばらくは飲んでる予定だからさ。仕事が早めに片付いたらいつでもこっち来いよっ。愚痴くらいなら聞いてやるから」

 晃一の言葉につい目の奥がじんわりと熱くなった。

「そうしてもらえると助かるよ」

 僕はそう言い残してテーブルを離れた。

 すれ違う居酒屋の店員たちは店を出て行く僕のことを「ありがとうございましたーっ」と元気な声で送り出してくれる。きっとこの店のルールなのだろう。その中には卓海に見惚れていた金髪ピアスの女性店員もいた。彼女は相変わらず面倒くさそうにこちらに頭を下げている。さっきまでは気付かなかったが、彼女の胸元には『研修中』と記された名札が提げられていた。

「なんでしょうか?」

 いつの間にか僕は女性店員の胸元をじっと見つめていたらしい。彼女は変態を見るような目つきでこちらを睨んでいた。

「いやっ、なんでも」と僕はかぶりを振って逃げるように店の出口に向かった。

 あんなに接客態度が悪くてもきっと彼女は僕と同じ工程を踏んでアルバイトに応募し、見事に受かったのだろう。でも僕はさっき落ちた。つまりは彼女の方が社会にとっては有益なのかもしれない。

 そんな事実をまざまざと突きつけられたようで、僕は何故かさっきまで嫌悪感すら抱いていた彼女に対して羨ましいとさえ感じてしまっていた。

 店を出ると、生ぬるい風が首筋にまとわりついた。空は薄らと雲に覆われ、月の輪郭はぼやけていた。立ち並ぶ飲み屋の暖色の灯りが不気味にそびえ立つ黒いオフィスビルの足元を照らしている。大きな交差点の近くに見えたドンキホーテはまるで昼間のような眩い光を放っていた。

 僕はそんな光の陰に埋もれるように道の端っこの方を歩き、自分自身の惨めさに途方に暮れながら帰路についていた。

 駅の改札を抜ける時も、エスカレーターに乗っている時も、電車に揺らされている時も、人混みに紛れて横断歩道を渡っている時も、ずっと僕は僕という存在の価値のなさに幻滅し、やるせなさと情けなさに押し潰されそうになっていた。

 ふと顔を上げると、目の前の青信号が点滅していた。

 僕は一本目の白線に踏み入れていた足を慌てて引き戻し、やがて赤に変わった信号が再び青に変わるのを縁石の内側で待っていた。

 すると、その途中で僕は何か棒のようなもので後ろから足元を突かれた。どうやら点字ブロックの上に立っていたらしい。ちょうど背後からやってきたお婆さんが手に持っていた白杖はくじょうが、僕の右足の踵にぶつかったのだ。ライトグリーンの襟シャツにチノパンを穿いたお婆さんは夜だというのにサングラスをかけていた。

「あら、すみません」とお婆さんは言った。

「ごめんなさいっ」

 僕がそう言って慌てて点字ブロックの上から立ち退くと、お婆さんは白杖の先端を地面に滑らせながら一歩、そしてまた一歩と前に進んでいた。その姿をすぐ隣で見守っていた僕はふと、このお婆さんは赤信号であることに気付いているのだろうか、と不安になってしまい、いよいよ点字ブロックの切れ目に差し掛かっていたお婆さんに思わず声をかけていた。

「あの、お婆さんっ」

 僕はついお婆さんの肩を思い切り掴んでいた。驚いたように身体をビクつかせたお婆さんは恐る恐るこちらを振り返り、肩の感触を頼りに僕のことを白杖で探していた。

「いま赤信号なんで危ないですよ」

「……ああ。どうも、ご親切にありがとうございます」

 お婆さんは僕の顔から僅かに右にずれた位置を見上げてそう言うと、深々とこちらへ頭を下げた。

 やがて信号が青に切り替わると頭上で聞こえた『信号が青に変わりました』というアナウンスを皮切りに、ひよこの鳴き声のようなピヨピヨという音が周囲に響き始めた。

 そこでようやく僕はつい先ほどのお婆さんへの心配が杞憂だったことに気付いた。たちまち顔全体に熱を帯びる。また出しゃばったことをしてしまった。そりゃそうだ。都会なんて大体どこも音響式信号機が設置されている。

 よくよく冷静になって考えてみれば、お婆さんはこれまで幾度となく横断歩道を渡ってきたはずなのだから、僕みたいなお節介な通行人がいなくとも何らかの手段を使って無事に向こう側まで辿り着くこともできたはずなのだ。それなのに僕は何も考えずにお婆さんに声をかけてしまった。もし、お婆さんが周囲に余計な心配をされたくない人だったらどうだっただろう。結果的に僕は無駄に周囲の注目をお婆さんに集め、嫌な思いをさせてしまっただけなんじゃないだろうか。

 誰だって欠点を晒すのは勇気がいる。晃一と卓海から憐みの目を向けられるのが怖くて、結局は二人に無職だと打ち明けられなかった居酒屋での僕の立ち振る舞いもそれと全く同じだったではないか。そっとしておいた方がいいことなんていくらでもある。たとえ目が見えなくたって周囲の視線をなんとなく肌で感じ取ることができるかもしれない。身体的にハンデを負った人たちがこれまでに日々の生活でどれほどの苦痛を味わっていたのかなんて、きっと僕なんかの想像では追いつかない。いや、そもそもお婆さんが盲目ではない可能性だってあった。それなのに僕は何も考えずに……。

 いつもこうだ。やることなすこと全てにおいて軽率で、表面的な見方しかできない。思い返してみれば、僕は職場でも余計なことはするなと上司に釘を刺されることが何度かあった。もしかすると誰からも必要とされなくなったのはそのせいかもしれない──

 僕は白杖で地面を叩きながら歩き出したお婆さんを後ろから追いかけ、横断歩道を渡りきったのちにお婆さんの肩に今度は優しく手を置き、それから声をかけた。「さっきはすみません。余計なお世話でしたね」

「あら、さっきのお兄さん?」と言ってお婆さんはかぶりを振った。「いえいえ。決してそんなことはありませんよ」

 お婆さんはやはり僕のやや右側を見上げていた。ピヨピヨと背後で鳴いていた信号もやがて赤に変わる。道路を往来しているヘッドライトの白い光線は僕たち二人の足元を照らし、長く伸びた影がしきりに地面を駆け回っていた。

「先ほど、私はあなたの優しさにちゃんと救われていましたよ」

「……いや、でも、僕はさっき──」

 するとお婆さんは僕の言葉を遮るように、おもむろにチノパンの左ポケットに手を突っ込み、中から個包装されていた黒糖飴を取り出した。

「これはほんのお礼です。もしよかったら受け取ってください」

 正面からやや右側に差し出されていたお婆さんの手を僕は両手で包み込み、そのしわくちゃな手のひらに載せられていた黒糖飴に目を落とした。

「いいんですか?」

「もちろんよ。でもごめんね、こんなものしか持ち合わせがなくって」

 僕はかぶりを振った。「……そんなことありませんっ」

「お兄さん、お名前は何ていうの?」

 お婆さんはそう言って優しく微笑んだ。

「賢治です。田中賢治っていいます」

「けんじさん……いい名前ね」とお婆さんは言った。

 穏やかで柔らかなその声は生ぬるい夜風に乗って僕の肌に浸透した。やがて全身が心地よい温もりで覆われる。お婆さんはいつの間にか小刻みに震えていた僕の手のひらの上に黒糖飴を載せ、今度は僕の両手を外側から包み込んだ。

「けんじさんのような心優しい人が居てくれるおかげで、私たちは安全に暮らすことができてるんですよ」

「……僕は、誰かの役に立ってるんですか?」

 声を発するたびに今にも僕の中の何かが崩落してしまいそうだった。

「当たり前じゃないですか。あなたのおかげで救われている人はたくさんいるはずですよ」

 お婆さんはこちらに手を伸ばし、僕の肩を優しくさすってくれた。

「本当にありがとうね」

 サングラスに映る僕は酷い顔をしていた。まるでお婆さんの手のひらのようにしわくちゃで、脆くて、弱くて、惨めで、情けない顔だった。

 しかし、成功を掴み取って、大金が舞い込んできて、豪邸に住んで、高級料理に舌鼓を打って、高級車を乗り回して、女の子に囲まれて──と、そんな思い描いていた理想の未来とはまるっきり違う自分の姿に、今は不思議とがっかりしなかった。

 それからしばらくして、お婆さんはまた地面を白杖で叩きながら僕の家とは反対方向へと歩き出した。その後ろ姿を見送り、やがてその背中が見えなくなると、ようやく僕も帰路についた。

 道すがら、僕は汗ばんだ手で握りしめていた黒糖飴の封を開け、口の中で飴玉を転がした。すると、ほどなくして優しく甘い味わいが全身を包み込み、また瞳が潤み始めた。

 いつの間に涙腺が弱くなってしまったんだろう──

 僕はそんなことで老いを実感していた。

 生ぬるい風が乾いた頬に触れる。見上げれば、薄い雲に覆われていた空は少しだけ晴れ、その隙間から柔らかな光を放つ月が顔を覗かせていた。

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