③
正直、僕は乗り気じゃなかった。
きっとその後に『じゃあ飯行こうぜ』と誘われるに決まっていた。だから僕は晃一から届いたそのメッセージには返信せず、そのまま放置していた。
しかし、メッセージを放置したまま丸一日が経った頃に、彼の方から再度『土曜日、どうなんだ?』という催促のメッセージが送られてくると、僕はようやく自分が困った状況に置かれていたことに気付いた。
僕にはもう『空いている』と返信する選択肢しか残されていなかったのだ。今更になって『ごめん、空いていない』の返信はどう考えても嘘くさい。予定が空いているか空いていないかなんて、カレンダーを一目すれば数秒でわかる。何かしら理由をつけて断ってしまえば、きっとコイツは行きたくなかっただけなんだろうな、と勘繰られてしまうのがオチだろう。本当に予定が入っていればすぐに返信して済む話なのだ。
万が一そんな風に思われてしまえば、これを機に晃一は今後一切僕のことを誘わなくなってしまうかもしれない。それはそれで僕としても不本意な末路だった。
僕は欲深い。本当の自分はいつだって誰かに誘われる人気者でありたいと思っていた。でも、そうなれないことくらいはもう知っている。僕は誰かにとって絶対的な存在ではない。代わりはいくらでもいるし、一度でも自分から相手のことを突き放してしまえば、もう二度とその相手が僕のもとへは戻ってこないことを理解していた。
だから結局、臆病な僕は『空いてるよ』と返信してしまうのだ。本当は行きたくもないのに……。
『返信おせえよ』
『ごめんごめん。ちょっと今デジタルデトックスをしてる最中だったからさ』
『なんだそれ。東京で流行ってる横文字なのか?』
『まあね。で、どうかしたの?』
『おいおいテキトーだな』
『わりわり』
『
『晃一っていま東京に住んでるんだっけ?』
『いや、今週たまたま横浜で研修があったんだよ。もちろん来てくれるだろ?』
『ああ、そういうことか』
『あとから店のURL送っとくわ』
『ういー』
その後も当たり障りのない会話のラリーが二、三回続き、言われた通り晃一から店のURLが送られてきた。僕はそれを開いて思わずため息を吐いた。
別にその店の価格設定が高かったとか安かったとか、メニューが不味そうだったとか、そんなことはどうでもよかったし、予想通りの展開になってしまったことに今更落胆していたわけでもなかった。ただ、半ば強制的にでも約束が結ばれた時点で、僕は何故か彼らに対して後ろめたさを感じ始めていたことに呆れていた。こんな思いするくらいなら最初から断っておけばよかったじゃないか、とすかさず自分自身を責める。
たぶん僕は彼らと顔を合わせることを、心のどこかで恐れていた。何を話せばいいだろうとか、どんな立ち振る舞いをすれば嫌われないだろうかとか、そんな不安ばかりがみるみるうちに頭の中に浮かび上がってくる。そのうちきっと仕事の話にもなるだろう。お金の話にもなるだろう。そういう時に僕は上手くその会話に入っていけるかが心配だった。
無職ということを打ち明けたその瞬間から、彼らとの間に見えない境界線が引かれてしまいそうで、その後は何を話すにしても気を使われてしまいそうで、これまでに築き上げてきた対等な関係性に亀裂が入ってしまいそうで怖かった。どんなに明るく振る舞ったとしても無理してると思われてしまいそうだし、会計の時も「働いてない奴から金とるのは申し訳ないよ」などと言われて僕からお金を徴収することさえも遠慮されてしまいそうで、想像するだけでも気が滅入った。
しかし、どんなに僕が不安がっていたとしても時間は同情してくれないし、待ってもくれない。無情にも刻一刻とその日は迫り、そしてあっという間に約束の土曜日を迎えていた。
「いやあ、二人とも久しぶりだよなあ。何年ぶりだっけ?」
唇にビールの泡をつけたままの晃一は並んで座る僕と卓海を交互に見ていた。ネイビーのテーラードジャケットのインナーにグレーのボーダーカットソーを合わせ、黒いスリムパンツを穿いていた彼は今でも社会人チームで野球を続けているらしく、全体的に程よく肌焼けしていた。
「どのくらいだろうな」と卓海が先に口を開く。「こうして三人で集まるのはもう七年くらい前なんじゃないかな。最後に飯行ったのが大学卒業したくらいだったはずだから」
卓海はグレーのカーディガンに白のカットソー、濃い目のジーンズを穿いていた。相変わらず肌白で鼻梁が高く、大きな猫目をしている彼の見た目はまだ二十代前半だと言われても全く違和感を覚えない。間近で見ても毛穴が見当たらないほどきめ細かいその肌からは、普段の入念なスキンケアが窺えるようだった。
「七年ぶりかあ。いやあ、感慨深いもんだな」
晃一はそう言うとまた一口ビールを啜った。
「ちなみに俺と賢治は三年前くらいにたまたま新橋の飲み屋で会ったから、それ以来だよな?」
「そうだったね。確かお互いに会社の飲み会をやってたんだっけ?」
卓海は肯いた。「会社の飲み会抜け出して賢治と二人で飲み直したもんな」
「ああ」と僕は当時のことを思い出しながら声を漏らす。「あの日って確か、二人で飲み直した後にさ、五反田まで移動して風俗行ったよね?」
「行った行った」と首を縦に振る卓海は笑いながらこちらを見た。「賢治がめちゃくちゃハズレ引いちゃったやつな」
「マジそれなっ」
掘りごたつ式の半個室で向かい合っていた僕らはついつい話し声が大きくなっていた。だが、それも仕方ない。橙色の照明を浴びた温かい雰囲気の店内は同じくらいの年代の客で満杯になっており、どこそこから笑い声が飛び交っていたのだ。席をコの字に囲っていた三面の壁の上部は空いており、分煙なんて関係なく煙草の匂いは充満していた。
「お前らはいいよなあ」
唐突に晃一はそう言った。
「何がだ?」
「だって気軽に風俗とかいけるじゃんか。俺なんてもう行けないんだぞ?」
晃一の左手の薬指には銀色の指輪が嵌められていた。そういえば彼は四年ほど前に大学の頃から付き合っていた彼女と結婚していたな、と僕は今更になってそのことを思い出す。確か子供も二人いたはずだった。その都度報告は受けていたが、直接彼の奥さんや子供たちに会ったことはなかった。
「本当はお前も奥さんに隠れて行ってるんじゃないのか?」
そう言ってニヤつく卓海に晃一は「そんなわけないだろ」と言ってかぶりを振った。「行きたくても行けねえんだよ。俺、仕事終わりは絶対に家まで真っ直ぐ帰らないとめちゃくちゃ怒られるし、飲み会がある日も絶対30分おきに電話しなくちゃいけねえし」
「おいおい、嘘だろ?」と卓海は険しい顔つきで言った。「お前、尻に敷かれすぎなんじゃないか? たまには男の威厳ってもんを見せてやった方がいいって」
「晃一の奥さんって結婚する前からそんな感じだったの?」
僕は遅れて二人の会話に参加する。
「あれっ。お前らってウチの嫁と会ったことないんだっけ?」と晃一は言った。
「ないよ」と僕は首を振る。「だって結婚式すらやらなかったじゃん」
「そうだったな。まあ、ウチの嫁は誰かに祝福されるのとか嫌う人間だから仕方ないんだよ。『人生のピークを結婚式に持ってくる女なんてロクなもんじゃない』とか平気で言うタイプだし」
まるで愚痴のような口ぶりだったが、時折こぼれる「ウチの嫁」という言葉からは明らかに幸せが滲み出ているように思えた。
「でもさあ」
卓海は唐揚げに箸を伸ばした。そのせいで中途半端に間延びしてしまう。やがて咀嚼し終えた唐揚げを飲み込んだ彼はようやく途切れていた言葉を紡ぎ始めた。「そういうこと聞いちゃうとさ、俺はもう絶対に結婚できないなって思っちゃうんだよなあ」
待たされた割に卓海は大したことを言わなかったため、僕はつい拍子抜けしてしまう。すると晃一はしばらくして、尻すぼみに途切れそうになっていたその会話を辛うじて繋いでくれた。
「卓海は昔から結婚できないって自分で言ってたもんな。まあ、それはモテるからこそ許される悩みなんだろうけど」
晃一はそう言うとグラスに残っていたビールを飲み干し、近くを通りかかった女性店員を呼び止めた。「芋焼酎の水割りをもらっていいかな?」
しかしその女性店員は見るからに接客態度が悪かった。晃一がついでに料理を追加で注文をしようとすると明らかに彼女の方から舌打ちの音が聞こえてきたのだ。金髪で耳にピアスを開けていた厚化粧の彼女はいかにも素行の悪そうな見た目をしていたが、その立ち振る舞いもまさにその見た目通りだった。晃一がその無礼な店員にムッとしていることくらいは僕の目から見てもすぐにわかった。
「なあっ」
注文を取り終えた女性店員がテーブルを離れようとしたその直後、卓海の鋭い声が彼女を襲った。
ほんの一瞬だけ緊張が走る──
僕はてっきり卓海が晃一の代わりに彼女に文句をつけるのだろうと思っていた。が、彼はまたもやその後に拍子抜けする言葉を続けた。「俺も芋の水割りを一つもらっていいかな?」
こちらを振り返った金髪の彼女はまたかよ、といった具合に眉をひそめていた。しかし、卓海と目を合わせた途端に彼女の瞳は明らかに一変し、さっきまでの無愛想な態度からは想像もつかないほど人当たりの良い笑みを彼に向け始めた。
僕は彼女のあまりの変わりように目の前で何が起こっていたのかをすぐには把握できなかった。きっと晃一も同じように混乱していただろう。
しかし、よく思い返してみればこういうことは高校の時から往々にしてあった。結局、女はイケメンに弱い。女性店員は先ほどまでとは打って変わって、最後の最後まで可愛い乙女のような顔で丁寧に対応していた。
僕は30歳を超えてもなお若々しい容姿を保っている卓海を羨ましく思った。それはある種、憧れにも似た感情だったのかもしれない。
たぶん僕は卓海のようになりたかった──
卓海は僕なんかとは違って、格好良くて頭も良くて仕事ができて金も十分すぎるほどに持っていた。東大卒で外資系IT企業に就職していた彼は既に年収2000万円を超えており、さらには港区のタワーマンションの一室に住んでいる。八年ほど前に上京してきたばかりの僕も本来は彼のようなわかりやすい成功を掴みたかったに違いない。決して無職で四畳半のボロアパートに住むような未来像を目指していたわけではなかった。
女性店員がテーブルから立ち去った後、僕はつい卓海に質問していた。「何をどうすればそんな風になれるんだ?」
「急にどうしたんだよ」
「いや、ただ、卓海が羨ましくてさ」
「なんだよそれ。さては、お前、あの会社で嫌なことでもあったんだろ?」
僕はそれにかぶりを振った。嫌なことは確かにあったが──というかつい最近絶望的なことが起きたばかりだが──今はそれを忘れて何事もなかったかのように振る舞った。「別に何もないよ。ただ、どうすれば卓海みたいに人生の勝ち組になれるんだろうって思ってさ」
上京したての頃の僕にはそれが自己啓発セミナーだと信じていたし、偉い人たちとの人脈を広げることだと思っていた。もっと言えば、大学を卒業する前の僕は上京すること自体が成功につながると本気で思っていた。
しかし、それらは全部失敗に終わった。
きっとその時点で自分には才能がなかったんだと見切りをつけていれば、今こうして惨めな思いをしなくても済んでいたのかもしれないし、懲りずに大して意味のないセミナーに通って多額の損失を被らずに済んでいたかもしれない。少なくとも四畳半には住んでいなかっただろう。
でも、僕は諦めの悪い人間だった。
「成功するために何か人と変わった特別なことをしてることがあるなら、詳しく教えてくれないかな?」
職を失った今でも、どうしても何者かになりたいと思っていた。ここまでくると病気かもしれないと自分自身を疑わずにはいられなかったが、だからといって自分自身に嘘はつきたくなかった。そんな頑固で往生際が悪い自分がほとほと嫌になる。
「才能だよ、才能っ」
卓海が答える前に晃一がきっぱりとそう言い切った。「だってコイツは高校の時から俺たちなんかよりも数段ハイスペックな奴だったじゃないか。賢治もそれくらいはわかってただろ?」
「それはそうかもしれないけど……」とつい歯切れの悪い返事をしてしまう。
やがて、さっきと同じ女性店員が芋焼酎の水割りを二つテーブルに持ってきた。彼女はまたもや卓海にだけ愛想よく接客し、僕と晃一には一切目もくれなかった。
「ああ、でも──」
グラスが目の前に運ばれた卓海は唐突に何かを思い出したように口を開いた。僕は咄嗟に耳を傾ける。
「俺、子供の時から占いとかが好きでさ。今でも定期的に通ってるんだよね」
「へえ、占いか……」
なんだか意外だった。
卓海は手に持った焼酎グラスの縁に口をつけ、それをゆっくりと傾けていた。それから頬をほんのり赤く染めた彼は
「お前でも不安になる日があるんだな」と晃一が言った。
「あるに決まってるだろ。俺のことなんだと思ってんだよ」
卓海はふっと笑ってそう答えた。
「だったらさ、これからは俺らにも相談してくれよ。なあ? 賢治」
「えっ? あ、う、うん。そうだね……」
友人を気遣う晃一をよそに、僕の興味は全く別のところにあった。
「ちなみに卓海はなんていうところに行ってるの?」
卓海は焼酎グラスをテーブルに置いて答える。
「『占いの館メーロン』ってとこ。知ってる?」
僕と晃一はほとんど同時にかぶりを振った。
「占い好きの間じゃかなり有名なところなんだ。今じゃ全国から予約が殺到してて二年待ちとかになってるんじゃないかな」
「二年っ?」
晃一は目を見開いて驚いた。きっと僕も彼と同じような反応をしていたに違いない。額に深いしわが寄っている感覚があった。
試しにスマホの検索バーに『占いの館メーロン』と打ち込み、スペースを空けてみると入力予測の欄には『当たりすぎて怖い』とか『予約取れない』などといった店の評判を裏付けるようなポジティブワードばかりが並んでいた。
「興味あるなら二人も今度行ってみろよ。マジですっげえ当たるから」と卓海は言った。
「いやあ、俺はいいよ。そもそも占いとか信じちゃいないから。それに、わざわざ占い目当てで東京に来れるほど暇じゃないしさ」
晃一はかぶりを振ってアルコールを口に含んだ。
しかし、僕はそんな彼に隠れて早速手元で予約を入れていた。
成功を手中に収めた卓海が価値があると断言したものを試さない手はなかった。僕は二年以上も先の日付が記されていた予約完了画面に目を落とし、定期的な周期で襲われる「僕は一体なにをやってるんだろう」という馬鹿馬鹿しさにため息を吐きたくなる衝動を必死で堪え、画面を閉じたスマホをテーブルの上に伏せて置いた。
「そういえばさ、今思ったんだけど賢治って何の会社に勤めてるんだっけ?」
何の前触れもなくそう言った晃一は唐揚げに箸を伸ばし、視線をこちらに向けた。不意を突かれた僕はつい咄嗟に俯き、黙り込んでしまう。
「どうかしたのか?」
やがて下から覗き込むようにこちらを見た晃一はそう言った。
「ああ、いや。えっと、なんの話だったっけ?」
「ん? 賢治はどこで働いてるんだっけ、って話」
「ああ……」
二人の注目を一身に浴びる。経験上、もう誤魔化せそうにないことを僕は悟っていた。が、この期に及んでもなお本当のことを打ち明ける決心がつかず、結局は最後の悪あがきのように、そのまま黙り込んでしまう。
すると今度は卓海がその異変を察したかのように「おーい」とこちらに何度か呼びかけ、それにもほとんど反応しない僕を見た彼は怪訝そうな顔つきになっていた。そして「もしかしてお前、何か隠してること──」と口にし始めた彼は、明らかに何かを勘付いている様子だった。
が、次の瞬間、突然テーブルの上がガタガタと揺れ始めた。
何かと思えばうつ伏せに卓上に置いていた僕のスマホが小刻みに振動していたのだ。
僕は慌ててスマホに手を伸ばし、画面に目を落とす。そこに表示されていたのは身に覚えのない番号だった。
「ちょっとごめんっ」
僕は咄嗟に二人に断りを入れ、席を外した。
普段は知らない番号からの着信は無視していたが、今は状況が違う。いち早くこの場から逃げ出したかった。きっと今頃、卓海の喉元にはまだ消化しきれていない疑問が残っていたに違いない。でも今はそんなこと気にしていられる余裕もない。
スマホを握りしめ、一目散に店を出た僕はやがて安堵感に浸されたその声で「もしもしっ」と通話口に向かって喋っていた。
「もしもし。わたくし、株式会社スマイルの人事担当をしております秋山と申します」
「……はい、なんでしょうか?」
つい顔が強張ってしまった。会社名と担当者の名前を聞いてもピンとこなかったのだ。最初は以前まで担当していた取引先のどこかかと思った。しかし、ふと、電話越しの相手が人事担当であることに引っかかってしまう。
「この度は弊社へのご応募ありがとうございました」
そして僕は秋山という女性の「ご応募」という言葉でようやく思い当たる節を見つけた。
「もしかして、アルバイトの件ですか?」
「左様でございます。先日、田中様からご応募いただいていたホテルニューシティーの清掃スタッフのアルバイトの件に関しまして、多数のご応募がありましたので厳正な選考を行わせていただいた結果をお伝えしたく、連絡いたしました」
「ああ、はい」とつい間抜けた返事をしてしまう。
そういえばバイト掲載アプリでホテルの客室清掃スタッフの時給がやたら良かった求人を見つけ、思わず応募していたことを今更になって思い出していた。
ようやく一時的な収入源を確保することができそうだ──と僕はホッと息を吐き、強張っていた顔の筋肉が緩む。
しかし、その直後に耳元で放たれたその回答は、予想していなかったものだった。
「残念ながら、田中様の採用を見合わせていただくことになりました」
「……えっ?」
秋山という女性のあまりに流暢なその喋り口調に危うく聞き逃してしまいそうになってしまう。それはまるで思わぬところから槍で突かれたような感覚だった。
「ご希望に添うことができず申し訳ございません」
秋山という女性は丁寧に謝った。
しかし、僕は未だよく状況を飲み込めていない。
「え、あ、いや、えっとその、採用を見合わせる、と言いますと?」
声は若干震えていた。
「はい。今回、田中様の他にも多数のご応募がありましたので、こちらに届いたエントリーシートを参考に厳正な選考を行わせていただきました。その結果、残念ながら今回は田中様の採用を見合わせていただくことになりました。ご希望に添うことができず申し訳ございません。田中様の今後の活躍をお祈りしております」
まるで機械のように繰り返されるその言葉に僕は慌てた。
「えっ、ちょ、ちょっと待っ──」
僕はなんとか詳しい事情を聞き出すためにも秋山という女性を引き止めようとしたが、無情にも僕の声が彼女に届く前に「それでは、失礼致します」という声が聞こえ、やがて通話は向こう側から切れてしまっていた。
そのうち機械的な電子音がこだまし始めると、僕はただただ呆然としたままその場に立ち尽くし、しばらくその虚しい音に耳を傾けていた。
いくら会社から戦力外通告を受けた身とはいえ、まだ無職になって一週間も経っていない。それなのにアルバイトとしても必要とされないだなんてあり得ないだろ。きっと何かの間違いに決まってる。大体、今は売り手市場なんじゃないのか? 世の中は31歳の労働者をいとも簡単に切り捨ててしまうほど残酷にできているのか? そんなの絶対に間違ってる。僕はアルバイトにもこぎつけないほど哀れな人間じゃないはずだ。それなりに良い大学だって出たし、ついこの間まで当たり前のように正社員として働いていたじゃないか。それに、大して役に立ってはいないにせよ、自己啓発セミナーやビジネス書で学んだ知識はそれなりに心得ている。きっと同世代の中では人脈も多く触れていた方だ。それなのにどうして僕ばっかり──
どうやら僕は手の腹に爪が食い込むほど拳を強く握りしめていたらしい。手のひらが痛い。
「……きっと何かの間違いだったに決まってる」
心の声はいつの間にか独り言となって口の外へと滑り落ちていたらしい。
「ねえねえ、ママっ。なんかあの人さっきからブツブツ言ってるよ?」
「こら、指差さないのっ」
偶然目の前を通りかかった親子のうち、小学生と思しき男の子が僕の方を見て指差していた。母親は必死にそれをやめさせようと注意していたが、男の子は全く耳を傾けようとせず、こちらに駆け寄ってきた。
「ちょっと、待ちなさいっ」
母親の声が飛ぶ。
「おじさん大丈夫?」
男の子は僕の目の前まで来ると、こちらを見上げてそう言った。その手には何故かハンカチが握られていた。
「何が?」と僕は少年に聞き返す。
すると男の子は不思議そうな顔で言った。
「だっておじさん、さっきからずっと泣いてるよ?」
僕はそこでようやく、頬を伝う涙が止めどなく顎の先から足元へ滴り落ちていたことに気が付いた。
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