第四章:青い蛇

「ベトナム語やってるの?」

 隣り合ってベッドに横たわったまま、本棚の隅に目を留めた瞬は切れ長い目を穏やかに細めた。

 月曜日に買ってから毎日帰宅後にパラ読みしながらCDを流し聴きして寝落ちするテキストになって四日目の本は、今は棚の隅の微妙に影になった場所に鎮座している。

「うん」

 敢えて目立たない所に置いたのに見出してくれたことを嬉しく思いながら頷いた。

「年末にはサイゴンに行くからね」

 サイゴンことホーチミンのガイドブックは夏に行ったシンガポールのそれの隣に元からあったように紛れ込んでいる。

「アジアきなんだなあ」

 “台北”

 “香港”

 “北京”

 “上海”

 “シンガポール”

 “ホーチミン”

 姉妹か兄弟のように書棚に並んだガイドブックを眺めて彼は何だか可笑しいような寂しいような笑い方をした。

「中華圏じゃないとこに行くのは今回が初めてだよ」

 だから飾りみたいな母音記号と声調記号の付いたアルファベットの文字列と毎晩顔を突き合わせているのだ。

「瞬は年末、どっかに行くの?」

 誰と、とは口にせずに尋ねる。

「年末年始は家にいるけど」

 プラチナの指環を左手の薬指に嵌めたままの瞬はそこで少し躊躇う風に言い淀んだ。

 沈黙が肩と肩とを接する形でシングルベッドに横たわる二人の間に張り詰める。

 うちのボディソープと瞬の整髪料の混ざった香りが浮かび上がるように匂った。

 先程まで彼を受け入れていた体の奥がカッとまた熱くなる。

「ギリシャに行くことになりそうだ」

 新婚旅行のことだ。

 一月の末に挙式予定だから。

 頭の中に古い神殿の廃墟とミロのヴィーナスの――これはギリシャ当地にはもうないけれど――瞳のない彫刻の面影が浮かんで、正しく可愛い婚約者さんの顔に重なった。

「そうなんだ」

 体の芯に燻るものを抱えながら、胸の内には寒々しい風が吹き抜ける。

「ギリシャとかローマとかに行きたかったの?」

 自分も訪れたことはないままヨーロッパ文明発祥の地として憧れめいたものは抱いていたし、ギリシャという土地そのものには何の罪もないと頭では分かる。

 だが、瞬が他の女と手を携えて赴く場所だと思うと、急速に呪わしくなった。

「向こうが行きたいってさ」

 苦笑いした顔と声の温かさから“向こう”を本当に愛しているのだと分かった。

 私とこんなことをしているのに。

――新婚旅行はギリシャに行くの。向こうが行きたいって言うから。

 正しく可愛い婚約者さんの方がもっとたちの悪い女で今頃冷め切った声で浮気相手にでも語っていれば瞬には良い罰になるのだろう。

 だが、そんな想像をすると却って寂しくなった。

 彼が軽んじられて、どうして私が喜べよう。

 こちらの表情をどのように取ったのか、瞬は毛布を引き上げて私の体を包むようにして髪を撫ぜた。

 よほどしょぼくれた顔をしていたんだろうな。そう思うと、ふっと笑えた。

 まるで本当に笑っているかを確かめるように彼の指が唇をなぞる。

「ベトナムは行ったことないな」

 温かだが、どこか不安げな声だ。

「私も今回のサイゴン行きが初めてだよ」

 日本で言えば、京都や大阪を旅行するようなものだろうか。

 ベトナムの現在の首都はハノイだが、一九七五年にベトナム戦争が集結して南北ベトナムが統一するまではサイゴンが首都であり、現在でも同国最大の都市だ。

 そこからすると、どこかに首都機能移転した後の東京に行くような話かもしれない。

「サイゴンが今はホーチミンだっけ」

 瞬はふと曖昧な記憶を探る顔つきになった。

 暗がりにも浮かび上がるような蒼白い顔からそもそも南国には縁が遠そうだなと頭の片隅で思う。

「そうだよ、『ミス・サイゴン』の舞台になった街が、今はホーチミン」

 首都の地位から陥落して、時の指導者の名前で新たに呼ばれるようになった、ベトナムの古都。

 改名前の「サイゴン」でも改名後の「ホーチミン」でも現役首都のハノイよりも国際的にはより知名度の高い都市というか、ベトナムの現代史そのものを象徴する固有名詞と言えるだろう。

「『ミス・サイゴン』って確か『蝶々夫人』のベトナム版みたいな話だよね」

 相手はぼんやりした知識を手繰り寄せる口調で尋ねる。

「そうだよ。一種のリメイクだろうね」

 プッチーニのオペラ「蝶々夫人」を翻案したミュージカル「ミス・サイゴン」。

 アメリカ人の男との間に生まれた一粒種の息子を遺して明治の長崎で死ぬ蝶々夫人マダム・バタフライに対して、ミス・サイゴン《サイゴンのお嬢さん》は二十世紀も後半のベトナムからタイをさまよって命を絶つ筋書きだ。

 後者の方がより悲惨に思えるのは、明治以降の二十世紀では日本が極東の先進国、アジアのフロントランナーになったのに対し、ベトナムが二十世紀の後半になっても欧米列強に隷属を強いられ続けた不遇や同じアジア諸国の中ですら出遅れた後進性が象徴されているとしか見えないからだろう。

 今だってベトナムの人たちは日本でも技能実習生など搾取されることが多く、はっきり言えば、日本人の中では中国や韓国のような近隣の東アジア出身の人たちよりも下に位置付けられ蔑視されている。

「欧米人好みの自己犠牲に死ぬ東洋の女って話」

 実際のところ、欧米人というより日本人の男も好きな形象だろう。そう思うと、空気が抜けるような笑いが口の端から漏れた。

 瞬は黙したままプラチナの指環を嵌めた方の手でこちらの波打つ髪をまるで真っ直ぐに正そうとするかのように撫で続ける。


*****

 いつも通り、彼が服を纏い始める時刻になった。

 もともと蒼白い肌の上に真っ白なランニングシャツを着て、水色の勝った白いワイシャツの袖に腕を通す。

 裸の彼が私との秘密から漂白されていく。

「もうすぐ誕生日だね」

 何が欲しい?

 そこは口に出さずに事実のみを語り掛ける。

「うん」

 相手も素直な調子で返した。と、その白く指の長い手がグレーの地に白と黒の細い斜線の入ったネクタイを取り上げる。

「何か、プレゼントのリクエストある?」

 そうだ、ネクタイにしよう。それなら瞬本人が買った物と紛れて他人に怪しまれもしないだろうし。

 半ば決定に近い感覚を覚えつつ尋ねた。

 振り向いた彼は穏やかに目を細めた笑いを浮かべている。

「麻緒が好きに選んでくれた物でいいよ」

 私は彼のワイシャツの首に掛けられたモノクロの紐を極力優しく結ぶ。

「それでいいのね?」 


*****

「それじゃ、お先に失礼します」

「お疲れ様です」

 返事を寄越した部署のメンバーの中では瞬の声が一番際立って耳に入ったが、水色のワイシャツの背はパソコンの画面を向いたままだ。

 社内では飽くまで同僚。

 それが暗黙の了解だし、仮に私たちが本当に婚約者同士でも職場で露骨にベタベタする訳にはいかないだろう。

 でも、自分たちに関しては、瞬にとっての私に関してはオフィスで伏せたい間柄なのだ。

 出回りや昼食の休憩、一緒に定時に上がった時も人目の無い所で口付ける。

 多分、終わる時も人知れずだろうし、そうあらなくてはならないのだ。

 今更のように胸の奥がキュッと痛みと共に締め付けられる。

 とにかく、今はその時でないからいいんだ。

 これもいつもの呪文だ。


*****

 自動ドアを出た外は、日はもうとうに暮れていた。

 定時に上がったとはいえ、そもそも夜に組み込まれる時刻まで職場に拘束されるのが、そうしなければ自分のような見るべき親の資産もない人間は生活していけないのが前提だ。

 カツ、カツと自分のヒールがコンクリートの地面を叩く音を聞きながら足を進める。


*****

 会社の最寄り駅すぐ傍のデパート。不思議と、というかだからこそ個人のプレゼント用の買い物にはあまり行かない場所だ。

 まして瞬への贈り物となると。珍しく定時に上がったとはいえ会社の人に見られたらまずいかもと思う一方で、飽くまで堂々として私自身の買い物という顔をしていれば怪しまれないだろうとも感じた。

 ついでにストッキングとか替えの手袋とか自分で使う物も見て買えばカモフラージュになるだろうか。

 そういえばこのデパートは確か地下にスイーツも売っていた。前々から何となく気になって買わずにいたクッキーでも買って帰ろうか。そして、この金曜日にプレゼントを渡すついでに一緒に瞬と食べようか。彼はあまり好き嫌いはないけれど、クッキーを喜んでくれるだろうか。

 鏡張りの壁と天井に覆われたエスカレーターをゆっくり上がりながらあらゆる角度から映し出された会社帰りのOLである自分の姿に囲まれる。

 それ自体は何の変哲もないが、上に流れていく黒い階段には自分と少し離れた段にいるリュックサックを背負った小学四、五年生の男の子しかいない。

 もう小学生の子が出歩くには遅い気がするけれど、多分塾か習い事の帰りだろう。そう言えば、このデパートの上の方には子供向けの英会話教室もあった気がするから、そこの生徒でこれから行くのかもしれない。

 田舎の母子家庭の娘で習い事といえばせいぜい両親の離婚前から続けていた通信教育しかなかった、夕刻以降はそもそも一人で出歩くこと自体がまず有り得なかった私と違って、都会の子供は選択肢も行動範囲も格段に広いのだ。

 そんなことを思いつつ、男性向けの服飾品を扱うフロアでエスカレーターを降りる。


*****

 ネクタイをプレゼントとして買うのは初めてだ。

 実の父親に対してはそうした実用的な服飾品を贈るにはまだ幼い内に生き別れた。

 阿雲と付き合っていた時にはまだ二人とも学生だから正装に関わるプレゼントを贈る感じではなかった。

 社会人になって公の場所に出ていくための装飾品を初めて買って贈る相手が寄りにもよって秘密の関係にある人なんて皮肉な話だ。

 苦笑しつつリボンと帯の中間じみた、蛇で言えばコブラに似た太さと形状に縫い合わされた布が並んで垂れ下がっているコーナーに近付く。

 こんな首元を締め付ける以外には何の現実的な役割もない、健康や安全の上ではむしろ危険ですらあるものを何故男性が着けていくのがマナーになるのかと思わなくもないけれど、女性の自分にとってのストッキングやヒールと恐らくは同じだろう。

 コツコツと自分の靴音ごと誰かに見張られているような感じを覚えながら、垂れ下がったネクタイの中から一際鮮やかなマリンブルーの一本を手に取ろうと近付いた。

 これは青大将どころか輝く海色のコブラだ。手に取ればひやりと滑らかなサテンの感触がした。


*****

 買っちゃった。

 プレゼント用のラッピングをされたネクタイはまるで二重の秘密のようにデパートのロゴの入った紙袋に収まっている。

 これで一見したところでは何を買ったのかは私以外には分からない。

 そこに安堵を覚えると同時にそんな自分がいかにも小心なくせに不正を働いている馬鹿に思えて情けなくなる。

 大体、今は瞬と一緒でもないのだからいちいちビクビクする方が自意識過剰なのだ。

 他人から見れば、勤め帰りに一人でぶらついて買い物しているOLに過ぎないし、このデパートに買い物に来る客層にも当たり前に紛れる装いだ。

 取り敢えず、後はアリバイも兼ねて自分の買い物して帰ろう。

ストッキングも手袋もここは近場の店やネットショッピングで普段買っている物より明らかに高めだから、地下のクッキーだけでも……。

 誰かが遠くから見張っているような、それでいて近くに立つ誰も自分には目もくれないような感じを覚えながら、重さはない代わりに手の内でゴワゴワと擦れる紙袋の取手を握り締めてカツカツと疲れの滲み始めたヒールの足をひたすら進めた。


*****

「誕生日プレゼント買った」

 瞬がコートを脱いでスーツのジャケットのボタンに手を掛けたタイミングを見計らってパールブルーのスターボウの飾りが付いた紙包みを差し出す。

「ああ」

 一瞬、虚を突かれた表情になってからどこか苦いものを含んだ笑顔に変わる。

「ありがとう」

 いかにも贈答用の包装の、星型に組まれた紙リボンの辺りを切れ長い瞳が移ろう。

「どうせだから着けて帰って?」

 私は何も気にしていない風にデパートの空々しい程鮮やかな包み紙をロマンティックなパールブルーの飾りごとバリバリと破る。

 そうだ。最初から知っていたことだ。私からのプレゼントはそのままの形では持ち帰れない。

――それは誰に貰ったの?

 婚約者かのじょでなくても家族の誰かが目にして尋ねれば、その時点でこの秘密の間柄に辿り着く糸口になってしまうから。

 そんな馬鹿は私たちは最初からやらない。

 彼の眼差しが無造作に包装を剥ぎ取るこちらに注がれるのを感じた。

 私はこうしてあなたと正しく可愛い婚約者さんの間柄を守る手助けをしてやってるんだよ。

 急速に胸の奥で黒く燃え立つものを覚えた。

 初めから全部知っていたはずなのに何故今になってまんまと利用された怒りを感じるのだろう。

 抑え込もう、消し止めようとしても黒い炎は勢いと熱さを増して目眩がしてくる。

 わざわざ瞬に贈るためにデパートで頼んだ包装はあっさり二人の足元に散らばる紙クズになった。

 ひやりとすべらかなマリンブルーのコブラに似た形の紐が私の両手に握られている。

 これを今からあなたの首に掛けて結ぶのだ。

 瞬の首に青いタイを結んで思い切り絞め上げる場面が浮かんだ。

――ガーッ……。

 エアコンの作動音が耳に浮かび上がるようにして響いて青のネクタイを持つ手に汗が滲む。

「麻緒」

 呼び掛けた彼の声は寂しかった。

 相手はスーツのジャケットを脱いで簡単に畳んで床に置き、その上にグレーの地に白と黒の斜線が細く入ったいつものネクタイをスルリと外して落とす。

 そうすると、一瞬遅れて瞬の整髪料の苦みを潜めた香りが微かにこちらまで匂った。

 これから飛び込み自殺する人が靴を脱いで揃えるような挙動だ。

「よろしく頼むよ」

 空の両腕を開いてこちらを見詰める顔は何かを諦めたように侘しく微笑んでいた。

 この人は私が何をしようとしているか知っている。

 その上で受け入れようとしているのだ。

 シュッと黒く燃え立っていたものが沈められるのを感じた。灰黒色の煙は尾を引かせながらも。

 私はいつも瞬のネクタイを結ぶ時のように手にしたマリンブルーの紐を彼のワイシャツの首周りに極力優しく掛けた。

 緩やかに作った結び目をゆっくりと喉元まで押し上げていく。

 このネクタイの先をずっと持っていられたらいいのに。犬のリードみたいに。

 そうしたら、瞬は私から離れられない。少しでも遠ざかろうとすればたちまち首が締め上げられてしまうから。

 そんなことを思いつつも指先で小さくなっていく結び目をワイシャツの一番上のボタンに届く半歩前で止める。

 次の瞬間、バッと背中ごと抱きすくめられた。

「ありがとう」

 吸い込めば鼻の奥がツンとして目が微かに滲んでくる整髪料の匂いの中、こちらを抱き締める彼の顔は見えない。

「着けていると凄く気分が上がるよ」

 こいつはチョロい女だと嗤っているのだろうか。

 それとも、面倒なことになったとウンザリしているだろうか。

 どちらにしても気付かない、思い至らない愚鈍な女でいよう。

「ずっと着けて?」

 何も察せられない馬鹿な女でいた方が彼はまだ一緒にいてくれるのだから。

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青い蛇 吾妻栄子 @gaoqiao412

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