第三章:母親にはなれない
やっぱりもう少し厚手のコートにすれば良かった。駅から出てストッキングの脚を通り抜ける冷え冷えとした朝の空気に軽く後悔する。
出掛けに観たテレビの予報では今日は晴れで日中はかなり気温が上がるとのことだったので薄手のコートにしたのだが、まだ動き始めたばかりのオフィス街に流れる空気は肌寒い。
まだ冬には間のある季節だが、だからこそ最高気温と最低気温の振り幅のどちらに合わせて服を選ぶかが難しい。
とにかく早く会社に行って、自販機のホットコーヒーを飲もう。
朝は少し緩めになる黒いオペラシューズの脚を早める。
と、柔らかに甘いコーヒーの香りが鼻先が少しツンとする冷えたアスファルトの匂いを紛らすように流れてきた。
これはスタバからの匂いだ。暗緑の丸い枠の中で二股に裂けたようにしか見えない人魚の微笑むロゴマークが行く手に見える。
会社ビルから駅までの道のちょうど半ばにあるせいか、いつも通り過ぎるだけで立ち寄ったことは数えるほどしかないけど。
そう思った瞬間、栗色の髪を柔らかに切り揃えたおかっぱ頭の首から上と抜き出た厚手の黒タイツの脚は普通なのに、毛布じみたキャメルのロングコートで覆った体は巨大なバレーボールじみて膨張している、一見して違和感を覚える体つきの女が入り口の自動ドアから出てきた。
「あら」
向こうも気付いたらしく薄い化粧を施した面長な顔のオレンジ系のルージュを引いた厚めの唇を綻ばせた。
こちらもすぐに笑顔で頭を下げる。
「
部署は違うが、同じ会社の先輩だ。去年結婚して今は妊娠しており、多分産休も近いはずだ。
というより、このお腹の大きさからすればこの瞬間にも産気づいてもおかしくなさそうだ。
本来はほっそりした人だけに顔や手足に比して膨らんだ腹部が際立って見える。
「おはようございます」
もうすぐ母親になる相手は小さな目を細めておかっぱ頭を軽く下げた。
それをしおに自ずと並んで歩き出す。
田嶋さんはローファーを履いてもオペラシューズの自分より頭半分背が高い。
この人は一般には
いちいち相手に対してそんな品定めをする自分に後ろめたさを覚えつつ頭の中の冷めた部分ではそう断じる。
だが、この人には自信というか明るさ、独特の華すらあるのだ。
「随分早くにいらしてるんですね」
自分も余裕を持って出ている方だが、始業前に喫茶店で一服するほどではない。
ましてこの人のように大きなお腹を抱えて早くに出てくるのは厳しいのではないだろうか。
妊娠中は眠くなりやすいとも聞いたことがあるし。
「このお腹でラッシュはきついから一時間早く出てスタバで始業までの時間を潰してるの」
シンプルな黒いバッグにマタニティマークを下げた相手は苦笑いする。
「今時はこんなのを着けてラッシュの電車に乗っても誰も譲ってくれないし、却って危険なこともあるから」
「そうですか」
こちらは曖昧に笑って頷くしかない。
少子化で妊婦も少なくなっている。
だが、図々しく横柄な妊婦を揶揄して「妊婦様」というネットスラングがあり、その実は妊婦の粗捜しをして排斥を開き直る空気が強いのは産んだことのない自分も知っている。
たった今、乗ってきた電車でも座席は脚を開いて場所を取るスーツ姿の男たちで占拠されていた。
仮に自分がマタニティマークを着けて大きなお腹をしていても彼らの大半は恐らく知らん振りして座り続けるだろう。
無視ならまだ良い方でわざとぶつかってくるような嫌がらせを働く輩だって出ない保証はない。
自宅最寄りの駅の構内を歩いていて明らかにわざとぶつかってきた男に出くわしたのは半月前だ。
「今は変な人が多いですからね」
というより、昔から女というだけで危害を加えようとする人間が一定数いるのだ。
一歩進める度にストッキングの脚を冷えた風が音もなく通り過ぎていく。
「まあ、私は自分が子供欲しいから産むんだけどね」
聳え立つオフィス街のビル群とその上に広がる抜けるように青い空を見上げて隣の先輩は笑った。
こちらの中にある湿った気分まで一気に吹き飛ばすような、カラカラとした笑いだ。
田嶋さんはもう三十歳だったかな。
多分、私より四、五歳年上だ。
イギリスに留学して英語はもちろんフランス語も話せると聞いた。
凄いと感嘆する一方でこういう先輩が同じ部署でなくて良かったとも思う。
「うちの部署だと産休育休を取るのは私が最初みたいだし」
この人の中では“今まで誰も取った実績がない”ではなく“自分が取った最初の実績を作る”なのだ。
「産後に復帰して勤め続ければそれも第一号になる」
会社ビルの入口までの僅かに登り坂の道に差し掛かって、相手は傍目にも重たそうな一人目どころか双子が入っていそうなキャメルのロングコートのお腹を撫でた。
「ずっと独身で働くって子がうちは多いけど、誰か一人が結婚して子供産んでも勤め続ければその分だけ道ができるから」
会社ビルの自動ドアが開き、二人並んで足を踏み入れる。
ふわりと暖かな空気がまたストッキングの脚に触れてきて自分たちが改めて肌寒い中を歩いてきたと感じた。
――バッ、スーッ……。
背後で再び自動ドアの開く音が響く。
サッと吹き込んできた冷たい空気に思わずゾクリとして振り向いた。
「おはようございます」
いつもの通勤着姿の――三日前の金曜の夜に自分の部屋に来て帰った時と同じコート姿の瞬が立っていた。
「おはようございます」
自分より先に隣の田嶋さんが答える。先ほどスターバックスの前で私に気付いた時と同じ笑顔だ。
と、その小さい目の面長な顔がこちらに向いた。
「じゃ、私は今日はちょっと受付に寄る用事があるので」
瞬の姿を目にして固まっているこちらをどこか憐れむ風に微笑むと、大きなお腹を抱えた先輩はもうローファーの足で速やかに遠ざかり始めていた。
*****
「すぐ後ろを歩いてるのに全っ然気付かないんだから」
たとえ二人きりでも社内のエレベーターではまるで不文律のようにきっちりと対角線を引くように距離を置いた場所に立った瞬は、静かだが笑いを含んだ声で告げる。
「ガールズトークに夢中だったからね」
こちらも切り替わっていくエレベーターの回数表示を見詰めたまま笑いを潜めた声で答える。
もしかすると、田嶋さんは自分たちのことを知っていて敢えて気付かない振りをしてくれたのだろうか。
胸の
*****
買っちゃった。
乗り換えのターミナル駅に直結したビル内のスターバックス。
湯気立つキャラメルマキアートのカップをテーブルの隅に置いて、先程別のフロアの書店で買ったベトナム語の初級テキストとノートを開く。
月曜日の今日は自分は定時で上がり、瞬は残業することになったので先に帰途に就いた。
普段は真っ直ぐ家に帰るのだが、今日は何となく途中下車して駅ビルの大きな書店に立ち寄った。
足は自然と資格や語学の棚に向かった。
最初はTOEICや
――これだ。
年末のサイゴン旅行の準備もあるが、何よりも自分にとって未知の言葉を新たに身に着けたかった。
会社から離れた乗り換え駅の、人の多く行き交う一角にあるスタバの奥にあるソファ席。
そこで誰にも気付かれずに秘密の自分だけのスキルアップをするのだと思うと、妙にワクワクした。
仮に誰かに見られたところで外国語の勉強なのだから何ら非難、嘲笑されることもないのだ。
そこに安心感も覚えた。
ページを捲ると英語でお馴染みのアルファベットにトッピングじみた細々した母音記号と声調記号が付けられた文字列が並んでいる。
一見すると、アジアではなくヨーロッパのどこかの言語のようだ。
フランスによる植民地支配は漢字やそれを基にした
言葉の響きとしては学生時代に少しだけ齧った広東語に似ている。
というより、広東語の方が話されている地域が地理的に東南アジアに近いため、東南アジア諸語の影響を受けているのだ。
イギリスの統治下にあった香港では中国本土で普及した略字である簡体字が一般化せず旧字体である繁体字による広東語の表記が残ったのは、ベトナム語と比べると皮肉な運命としか言いようがない。
何はともあれ、ベトナム語は学んでおいて損にはならない言語だ。
日本にもベトナム系の人は増えているし、ベトナムという国自体にも日本と違って大きな伸び代がある。
むろん、二十六歳になった今から独学でやっても田嶋さんが仕事で使いこなす英語やフランス語のレベルには到底ならないだろう。
大学時代に留学して身に着けた中国語のレベルにも恐らくは届かないだろう。
だが、私は今の自分の世界を少しでも広げたいのだ。
“Xin chào/おはよう、こんにちは、こんばんは”
“Cám ơn/ありがとう”
一緒に買ったノートにペンで綴る。
バリエーション違いのコンマにしか見えない母音記号はさておき声調記号は中国語のピンインにもあったし、発音自体も中国語に似ているから、そこは入りやすい。
――ベトナム語やってるんだ。
――まだシンチャオ、カムオンくらいだけど。
部屋でベトナム語のテキストを見付けた瞬とそんなやり取りをする場面がふと浮かんできた。
いや、別に瞬に見て欲しいからやるわけじゃない。
むしろ、彼とは切り離された別の世界を広げるために学ぶのだ。
“Sân bay/空港”
“Chuyến bay/フライト”
“Vé/チケット”
今度は空港のロビーをキャリーケースを引いて歩いている自分の姿が浮かぶ。
そのまま異国へ飛び立って二度と戻らず、今のこの薄暗がりから永久に抜け出したい気がした。
何も言わずに姿を消してしまえば瞬は私を忘れずに悲しんでくれるだろうか。
そんなにも自分は彼に執着して欲しいのだろうか。
客観的には婚約者がありながら同僚とも浮気しているデタラメな男なのに。
私なんか所詮は都合のいい浮気相手でしかないのに。
またいつものスパイラルに陥り始めたのでペンを置いてキャラメルマキアートのカップを取り上げる。
少し長居するつもりなのでグランデにしたのだ。
スタバは高いので普段はあまり寄らないし、買ってもショートかトールだが、今日はペイペイのポイントがちょうど溜まっていたのでその分を差し引くとほぼ半額で買えた。
まだ熱いラテは一口吸っただけでもたっぷりとミルクを含んだ甘い味が広がる。
ボリュームがあるし、今日はこれで夕食ということにしよう。カロリーも高いから一食の半分くらいは賄えるだろう。
――ブーン、ブーン……。
不意にソファの隣に畳んで置いたコートのポケットの中からスマートフォンの震える音が響いてきた。
瞬かな?
“今、終わった。まだ近くにいるなら一緒に夕飯取る?”
白面の孔明人形のアイコンが語り掛けるそんなLINEの文面が浮かんでくると同時に彼からの連絡を心待ちにしている自分に苦笑してスマホを取り出す。
きっと、蓋を開けたら今までにネットショッピングしたついでに登録したどこかの店からの広告とかそんなどうでもいい内容だろう。
先回りしてふっと軽く呆れた溜め息をついてから画面のロックを解く。
あれ、これは……。
通知欄に表示されているのは小さな赤い手が大きな手の小指を掴んでいる写真のLINEアイコンだった。
“
久しぶり! マオは元気でやってる?”
この子、前は結婚後の姓も頭に付けたアカウント名だったのに元の苗字だけに戻ってる。
八割方内容を察しつつトーク欄を開いた。
“久しぶり! マオは元気でやってる?
私は
やっぱり、離婚してたか。
大学の同期だった彼女は卒業後すぐに付き合っていた彼と結婚したはずだった。
そう思う内にトーク欄には数字の「1」の形をした蝋燭を挿したお手製らしいショートケーキの置かれたテーブルの傍らで朱色の楓柄のちゃんちゃんこを着た赤ちゃんを抱いた母親の写真が新たに表示された。
“この子も無事に一才の誕生日を迎えられました”
ミサも老けちゃったな。昔は白桃じみたうっすらピンク色の頬をした丸顔に垂れ気味の丸い目をした、キツネ顔の私に対して愛嬌のあるタヌキ顔をしていたのに。
写真に写る自分と同じ二十六歳の同級生の顔は、むろん目立つ白髪や皺などはないものの、昔より頬の肉も削げて精一杯笑った表情にもどこか疲れた気配が漂っていた。
夫の浮気、不倫、DV。
多分、世間ではそんな風に手垢の付いた言葉で言い表される、しかし、当事者にとってはどうにも耐え難いトラブルによって彼女は擦り減らされたのだ。
かつて私の母がそうだったように。
腕に抱いた希ちゃんが楽しそうに笑っているのが救いだ。
一般的な観点で可愛らしい赤ちゃんであるし、白桃じみたふっくりした頬や垂れ気味の円い目など母親に似たのは疑いようがなかった。そこにも他人事ながら安堵を覚える。
――あんたはお父さんに似たのよ。
十歳の自分を見下ろして言い放った般若じみた顔と忌々しげな声が蘇ってきて、暖房の効いた店内のソファに腰掛けているはずなのに背筋が寒くなった。
“おめでとう”
これだと離婚したことを「おめでとう」と馬鹿にしているみたいだな。そう思い直して入力欄の頭に新たに言葉を付け加える。
“お誕生日おめでとう。希ちゃんかわいいね”
空世辞でなく「かわいい」と書ける子で良かったと思いつつ送信ボタンを押す。
トーク欄に移った次の瞬間には“既読”の二文字が隣に現れた。
“ばあばが離乳食もたっぷり作って食べさせてくれるから前よりぷっくりして元気になったよ”
それでは、実家に帰る前はこの赤ちゃんにとっても恐らく良い環境ではなかったのだ。
もしかすると、ミサの夫(もう『元夫』かもしれないが)は妻にも赤ん坊の娘にも手を上げるような仕打ちをしていたのだろうか。
そう推し量りつつ、極力希望のあるコメントだけを打ち込む。
“お祖母ちゃんもいてくれるなら安心だね”
自分も両親が離婚して母親の実家に戻った時、お祖母ちゃんが優しく迎えてくれた。
――麻緒ちゃん、麦茶と苺、食べるかい?
――電車にずっと乗ってきたから疲れたよね?
新幹線に乗っている間もずっと固く険しい面持ちを崩さない母親の隣で小さくなっていた私もお祖母ちゃんの小さいが円な瞳の目尻に柔らかな皺を刻んだ笑顔でやっと息が吐けたのだった。
そんなことを思い出しながらキャラメルマキアートに口を着けると、程好い温かさに落ち着いていた。
そういえば、お祖母ちゃんもキャラメルが好きで良く小さな箱入りのを買ってきては二人で分けて食べたな。
おまけの外国の風景写真入りのカードを集めて棚に大切に仕舞っていた。
もしかすると、ずっと田舎住まいだった祖母の中には海外への憧れも強くあったのかもしれないし、そんな所も孫の自分は似たとは思う。
“希はばあばが見るから私には仕事を早く見つけろと言ってる”
母子の手を映したアイコンから新たな言葉が発せられた。
もしかすると、ミサにとってはあれこれ孫の世話を焼く実母が煩わしくも感じられているのだろうか。
頼れるお母さんがいるならいいじゃないの。
だからこそ、赤ちゃんを連れて実家に帰ったんでしょ?
今となっては母も祖母も亡くした自分にはそう思える。
“うちも両親が離婚してからは母親とお祖父ちゃんが働いてお祖母ちゃんが普段の面倒見てくれたよ”
普段の食事や洗濯はもちろん学校の授業参観や家庭訪問もお祖母ちゃんが対応していた。
土日に開催する運動会のお弁当などはお母さんとお祖母ちゃんの二人で作るので他の家より豪華ですらあった。
“ミサのところとは事情は違うとは思うけど、うちはそれで何とかやっていけたよ”
自分が離婚母子家庭でいじめられてもグレずにいられたのは、高校生の時に相次いで亡くなるまで家で何くれと面倒を見てくれたお祖母ちゃんと穏やかな言葉を掛けてくれるお祖父ちゃんがいたからだ。
余裕をなくした母親と二人きりの家庭だったらもっと息詰まるような悲惨な子供時代だっただろう。
“そうなんだ”
赤ちゃんの小さな手が母親の小指を掴んでいるアイコンが答えた。
“ところで、マオは最近どんな感じ?”
向こうとしては気を遣って話題を変えたのかもしれないが、一番聞かれたくない質問が出た。
“私は相変わらずの社畜生活だよ”
婚約者のいる同僚と付き合ってます、なんて言えないよ。
ミサの夫が仮に不倫や浮気の類いをしていなかったとしても、結婚に破れて傷付いている相手にそんな話をするのは侮辱でしかないだろう。
少なくとも、自分が彼女の立場ならされたくない。
“マオのとこは大手だから大変だね”
客観的にはスタバで飲み物を啜りながら外国語の勉強をしている自分の方がシングルマザーになって職探しをする相手よりずっと恵まれているし、正直、逆の立場でなくて良かったとも思う。
だが、そんな風に相手の不遇に安堵を覚える自分を嫌らしく小さい人間にも感じた。
ミサは私を信頼しているからこそこうして連絡をくれたのだろう。
むしろ、他人の良い可能性を素直に信じる人だったからこそこうなったのかもしれない。
それに対して舌を出す自分でいたくなかった。
まだ互いに刺さる傷が深くならない内に切り上げたい気持ちで新たなメッセージを打つ。
“今度、時間ができたらゆっくりお茶でもしようよ”
すぐに“既読”の二文字が付いた。
“そうしたいね”
母娘の手のアイコンが答えたところでスマートフォンを電源ごとオフにする。
ふっと息を吐いてコートのポケットに画面が真っ暗になった機器を滑り込ませた。
もし、この後、ミサから新たなLINEが来ていたら、帰りの電車に乗っていてトンネルで圏外になって気付くのが遅れたと言おう。
口を着けたキャラメルマキアートはまだ程好い温かさを残していたが、まだ大量に余りの残っているグランデのカップが妙に重たく感じた。
テーブルの上に広げた真新しいベトナム語のテキストとノートも何だかその新品の色鮮やかさが却って空々しい、いかにも無駄な散財をしてしまった虚しい眺めに映る。
今日はまだ月曜日だし、勉強はこのくらいにして、飲み物だけ飲んだら帰ろう。
今週はまだ四日も残っているのだと思うと、ストッキングの脚に疲れが纏い付いて冷え冷えする空気がまた通り抜けていく気がした。
だが、自分一人で自分一人を養って生きていくにはそこから逃げられないのだ。
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