第二章:初恋のあなた

「はいはい」

 敢えて口に出して今度はテレビの電源ごとオフにしてベッドに座っていた体勢から寝転がる。

 そういう自分をふてぶてしく小さい人間に感じたが、どうにも白々しい感触が抜けなかった。

“終戦後間もないベトナムのサイゴンで旧家の女中になった少女の成長と初恋を描いたアジアンニューウェーブの金字塔的作品”

 そんな概要を知った上で「青いパパイヤの香り」を観たわけだが、今の自分には入り込める作品ではなかった。

 十歳のあどけない、大きく円な瞳の可憐な少女ムイが旧家の使用人になり、本来は同じ年頃の娘を亡くした主家の奥様から目をかけられる。

 主家には三人の息子がおり、幼い末息子から嫌がらせを受ける描写はあるものの、年老いた女中頭も基本は幼いムイに優しく、児童労働者とはいえそこまで悲惨な虐待を受けている印象はない。

 食材として繰り返し出てくるパパイヤは熟す前は野菜、熟した後は果物として扱われる。

 そこに少女から大人に成長する主人公が重ね合わされている意図は明白だ。

 包丁で割れば真珠のように艶やかな白い粒の揃ったパパイヤ、色鮮やかな外の草花や昆虫など南国特有の自然や風俗の描写にはさすがに魅力があった。

 主家の長男の友人として現れた男性に憧れを抱く場面もその限りでは共感できた。

 しかし、主人公が成長し、演者が子役の円な瞳の少女から頬骨の高くどこかギョロついた鋭い目つきの大人の俳優に代わると、物語の空気も一変する。

 主家の長男が結婚し、その妻から口減らしのために暇を出され、娘のように慈しんでくれた奥様と涙の別れを経たムイが新たに女中として仕えるのは初恋の音楽家であった。

 フランス帰りのインテリの彼にはやはり欧米化された教育を受けた富裕層の婚約者がおり、ムイは女中として仕えつつ他の女性と彼の関係を透き見するようになる。

 その辺りからどうにも白々しくなった。

 無知でも無垢でひたむきな主人公という設定なのだろうが、明らかに大人になって、しかも目玉のギョロついた、はっきり言ってキツそうな顔つきの俳優が演じると、

「この女、絶対にインテリの主人を狙ってあわよくば奪おうとしてるだろ」

とあざとく感じた。

 裕福に育った婚約者の女性を浮薄な風に描いている点にも嫌な感じを覚えた――今の自分の立場からすれば随分妙な話ではあるけれど。

 物語の視点は飽くまでムイに同情的だ。新たな主人が元からの彼女の初恋の男性であった点で結果的に婚約者の女性から彼を奪う展開が肯定されている。

 そのために「婚約者こそ後から現れて彼をヒロインから奪おうとする軽薄な女である」という、いわばもう一人の傷付く女性を貶める描き方に居心地の悪さを覚えたのだった。

 彼の心がムイに移ったことを知り、エメラルドの婚約指輪を置いて彼の家を後にする婚約者の令嬢。

 今の日本では婚約指輪にはダイヤモンドが定番だが、恐らく当時のベトナムの上流層ではエメラルドがトレンドだったのだろう。

 後はひたすら夢物語だ。

 晴れて妻になったムイに夫は文字を教え始める。

 そこで改めて当時としては大人になった主人公が文盲だったと観客にも思い起こされる。

 最初の主家の幼い息子は嫌々学校に通っていたが、雇い人だった少女は端から字を習う機会すら奪われていたのだ。

 それまでの遅れを取り戻すように文字を覚え、知識を吸収するヒロイン。

 最後は夫を凌駕するまでに知的な女性になったムイは詩をそらんじる。

 その詩句に答えるかのようにお腹の子が反応し、驚きと喜びの声を上げる彼女の笑顔を映して物語は幕を閉じる。

「良かったねえ」

 こちらは微かに痛む月経の下腹部を抱えながら呟く。

 確かにあの物語としてはあのラストが一番良いんだろう。

 欧米人が作った「ミス・サイゴン」のヒロインのように男から捨てられて死を選ぶ結末よりも。 あるいは婚約者が正妻になり、ヒロインが妾になるような封建的な男女関係に組み込まれる結末よりも。

 だが、“not for me”というか、今の自分には入り込める、共感できるドラマではなかった。

 もし、私と瞬の関係が皆に知れたらどうなるんだろう。

 これまでも繰り返しシミュレートした事態が嫌でも頭の中に映る。

――この泥棒猫!

 写真でしか見たことのない瞬の「正しく可愛い」婚約者さんが映画のように私の頬を平手打ちする場面が浮かんだ。

 実際にそんな修羅場になったら当事者はこんないかにも芝居じみた大時代な台詞は言わないだろうけど(『青いパパイヤの香り』の上流ベトナム女性の婚約者だってそんな発言はしていない)。

――あんな女、何でもないよ。

 瞬が婚約者の彼女を宥めながら二人並んで去っていく姿が浮かんでくる。

 その手にはしっかりプラチナの指環が嵌っているのだ。

 会社でも、私とこの部屋で抱き合う時も外したことはない、こちらも見て見ぬ振りして敢えてその存在を口にすらしない、小さなかせ

 グレージュのカーテンを締め切った薄暗い部屋の中で、天井の消えたLED電灯のくすんだ真珠じみた蒼白いカバーを見上げて息を吐く。

 学生時代から付き合っていた、一つ年下の婚約者。

 会社の同僚として知り合った、一つ年上の女。

 婚約者と出会う前から昔から見知った相手だとかもっと年下の立場の低い女の子だとか言うならともかく、こちらには何の正当性も同情すべき背景もない。

 後から出てきたいけずうずうしい女でしかないんだ。

――人目を引く美人だとかいうならまだしもあんなキツネみたいな顔したブス。

――どこが良くてあんな女と浮気したんだ。

 多分、無関係な人からもそんな風に言われるんだろう。

 これもいつものシミュレーションだ。

 今日にでも、今、この瞬間にでも私から別れを切り出すのが正解なんだろう。

“もう終わりにしよう。これからも職場ではいつも通りで”

 わざわざ話し合わなくてもLINEでそんなメッセージを送れば良いのだ。

“分かった”

 瞬の方でもそんな風にあっさり承諾してくれておしまいだ。むしろ、相手はそれを待っているのが本当のところかもしれない。

 そもそも、彼にとっての自分は浮気相手と呼べるほど恋愛感情を持たれているだろうか。下品な言葉でいう「セフレ」、セックスフレンドとかいう位置付けではないのか(そんなに変態じみた特殊な行為を要求されたりこちらからも希望したりしたことはないけれど)。

 確かに五月の私の誕生日にロクシタンのギフトセットはくれた(付属のネイビーブルーの化粧ポーチはいつもバッグに入れて使っている)。

 だが、それにしたって「自分とのことを口外してくれるな」という一種の口止め料的な贈り物かもしれないし、婚約者の彼女には同等以上のプレゼントをしているだろう。

 私の立場で彼に誠実さなど期待出来ないし、客観的には婚約者がありながら会社の同僚とこんな関係になる時点で瞬は既に誠実ではないのだ。

 こちらの立場で真っ当な行動といったらこんな不倫と大差ない関係に蹴りをつけることしかない。

 それでも、私は正しい方に踏み出す勇気がまだ持てないのだ。このまま手遅れになるかもしれないと知りながら。

――サー……。

 締め切ったカーテンの向こうから雨の音が幽かに響いてきた。

 いつの間に降り出したのだろう。

――今日はついてないな。

 不意に胸の奥にどこかぎこちない日本語を語る声、そして琥珀じみた明るい褐色の肌にやや赤味を帯びた癖毛、太い一文字眉に比して人懐こい大きな二皮目ふたかわめで雨空を見上げる横顔が浮かんできた。

阿雲アユン

 台湾に留学していた頃に付き合った、初めての恋人だ。

――あなた、何の果物、買いたいですか?

 現地に着いてすぐ果物の屋台で言葉が出てこず立ち往生したところで彼が声を掛けてくれたのが出会いだった。

――僕もこちらの大学で日本文学を専攻している。

 言語交換したといえば聞こえが良いが、実際のところは私の中国語より彼の日本語の方がレベルはずっと上で助けてもらってばかりだった。

――高雄タカオの叔母さんから旺來オンライが来たから一緒に食べよう。

 パイナップルを一から包丁で捌ける男の人を初めて見た。

 阿雲は台湾人男性としてもやや小柄で華奢な体型だったけれど、琥珀色の肌をした手は人一倍大きくて温かかった。

 火龍果ドラゴンフルーツでも荔枝ライチでも彼の手で剥くと中の実がまるで待っていたかのように皮から傷付かずにそのままの形で出てきた。

 ふと、瞬の整髪料の薄まった匂いが思い出したように鼻先を通り過ぎる。

 阿雲からはいつもうっすら八角じみた匂いがした。

 抱き合って大きな琥珀色の手から体を撫でられていると自分が硬い皮を剥かれた美味しい果物になって料理されている気がした。

――マオは自分で思うよりずっと綺麗だし、良い人だよ。

 とても優しかった。どこにも嫌なところなどなかった。

――君は日本に帰るけれど、僕はまだ本当に好きだ。

 だからこそ、あなたが私に冷めて去ってしまう時が来るのが怖くて連絡を絶った。

 グレージュの薄暗がりの中、バラバラと雨のつぶてが窓ガラスを打ち付ける音がする。

 両のこめかみを最初は熱く、しかし、通り抜けた後はひやりと冷たい雫が伝い落ちて耳を濡らした。

 酷いことをしたのは向こうではなくこちらだ。

 今更泣く資格などないのに、どうして涙が出てくるのだろう。

 シャーッと雨の路面を車の駆け抜けていく音が響いてきた。

 紙をはさみで切り裂くのに似た、それでいて路面を洗い流しているようにも聞こえる音だ。

――日本人の女の子と付き合ったこともあるけど、もう連絡も取ってないよ。

 阿雲の寂しく笑って語る顔が浮かんだ。

 それとも、こちらが心配しなくても、もう思い出すことすらないのだろうか。

 あれから五年も経っているし、きっともう台湾で彼に相応しい素敵な彼女が隣にいるだろう。

 私と同い年だから阿雲も二十六歳。結婚には少し早い気もするけれど、一つ下の瞬があと四ヶ月で挙式しようとしているのだから、彼がそうなっていても別におかしくはないのだ。

 それでいいんだ。

 勢いをつけてベッドから立ち上がる。

 私は所詮、あの人には相応しくなかったんだから。

 不倫して家庭を捨てた父親の血を引く、自分も婚約者のいる同僚と隠れて付き合う、ろくでもない女なんだから。

 阿雲からすればハズレくじが自分から消えてくれただけの話だ。

 今日はもう雨も降っていて外に出る用事もないから、洗面所の掃除や整理でもしよう。

 そろそろ外出用の日焼け止めクリームよりハンドクリームやリップクリームの方を家でも外でも消費する季節だからそちらの買い置きも確かめないと。

 私のケアをするのは結局、私しかいないのだから。

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