青い蛇
吾妻栄子
第一章:狐《きつね》、孤《ひとり》。
「この前の土曜日、結婚式に出る服、買ったの」
素肌の上に藍色のサテンのドレスを着て、白に近いクリーム色のボレロを羽織った。
「ヒールとネックレスとイヤリングもまとめて買ったから」
グレーのビロードの箱を開け、クローゼットの扉に付いた鏡越しにベッドの
「そうなんだ」
律儀にシングルベッドの片側に長身の体を寄せて寝転がった彼は疲れた、どこか寂しい声で答えた。
私は蓋の開いたビロード箱を抱えてベッドに近付くと、もう片方の狭い余白に腰を下ろす。
ふわりとうちのボディソープと瞬の整髪料の入り混じった匂いがした。
「
開いた箱の中には細かいパールを三連ほど
相手は無言で体を起こした。
*****
「綺麗だ」
瞬は奥二重の切れ長い瞳を細めて、だがどこかに疲れの滲む声で告げた。
胸の内で問い掛ける私に向かって相手は苦さを潜めた笑顔で首を微かに横に振って続けた。
「
「そう?」
それは誰と比べてるの?
一度写真を見せてもらった婚約者の彼女は淡いベビーピンクのストールを巻いていた。
艶のある真っ直ぐな黒い髪に透けるような白い肌、リカちゃん人形みたいなパッチリした大きな
会社では同期でも大学在学中に台湾に留学した私は瞬より一つ上(というより、瞬の二十五歳の誕生日はまだ来ていないから今は二つ上)の二十六歳。正しく可愛い婚約者さんより二つも上(こちらももしかしたら三つ上かもしれないけど)だ。
こちらは髪は黒くて艶のある方だけれど天然パーマで少しウェーブが入っているし、色は白い方だけれど顔立ちはいわゆるキツネ顔で一重瞼で細く吊り上がった目をしている。
実際、両親が離婚して転校した小学校では「メギツネ」と仇名を付けられた。
大学生で台湾に留学していた頃は映画「クーリンチェ少年殺人事件」で主演した
あまり期待はせずにネットで画像検索してみると、案の定、細く吊り上がった目をした、日本の感覚で言えば多くの人が「美少女」「可愛い」より「ブス」と評価するであろう制服姿の女の子の写真が大量に出てきてゲンナリした記憶がある。
映画を観ても地味で垢抜けない母子家庭の女子中学生が何故か周りからファム・ファタール扱いされ、彼女を想っていたはずの主人公の少年から呆気なく殺される、正直、罰ゲームじみた扱いにしか見えなかった。
楊靜怡はその一作だけで引退してしまったようだが、台湾でもさほど一般受けして持て囃されるタイプではなかったのだろう。
そんなことを思い出す内にも瞬は元通りスーツを着てコートに袖を通している。
これでごく良識的な、秋冬の通勤姿のサラリーマンだ。
「じゃ、また月曜に」
整髪料の匂いと共に頬に柔らかな唇の触れる感触がして彼は玄関のドアに向かっていく。
「気を付けてね」
遠ざかっていく瞬の左手の薬指に光るプラチナリングを見つめながら極力優しげに声を掛ける。
――ギイイイッ、バタン。カチャリ。
瞬がこの部屋を出る時の、ドアが静かに開いて閉じて、ラッチボルトの嵌まる音。
別に何の変哲もないのに、耳にする度に
――カツ、カツ、カツ、カツ……。
釘を打つのに似た瞬の足音が規則正しさはそのままで遠のいていく。
私が彼と同じ部屋で過ごせるのは金曜の夜の二時間だけ。
この後、瞬はいつも通り私は会ったことのない家族の待つ家に帰って、土日はやはり私は直には会ったことのない婚約者の彼女と会うのだろう。
――ブーン……。
静まり返った部屋にエアコンの作動する音が響く。
鍵を締めなくちゃ。
瞬はこの部屋の合鍵など持っていないので外から開けるのも中から閉めるのも私しかいない。
立ち上がると、足が重くて想像以上に疲れ切っている自分に気付く。
金曜日に彼とこの部屋で抱き合う度にこれが最後ではないかという気がして燃え立ってしまう。
そして、瞬が帰った後は灰になったように感じるのだ。
今日はもうこのまま寝よう。
フラフラとベッドに戻ってきたところで、クローゼットの鏡に髪はしどけなく降ろしたまま、結婚式の招待客用のドレスを纏い、真珠のネックレスにイヤリングまで着けた女の姿が映った。
こんなもの、もう外さなきゃ。
鏡の中の着飾った道化じみた女が苛立った表情に変わると、ぞんざいな手付きでイヤリングとネックレスを外した。
――パン!
三連の捩れた真珠のネックレスがフローリングの床に落ちる。
真っ直ぐな「一」の字ではなく
何だか蛇みたい。
――あれは
捩れた細かい真珠のネックレスに木の根元でとぐろを巻いた青というより深緑の鱗に覆われた蛇の姿とパパの声が重なって蘇った。
――心配しなくてもいいんだよ、麻緒。
その時に繋いでいた大きな手の温かさまで覚えている。
小学四年生のゴールデンウィーク。あれが家族三人で行った最後のハイキングだった。
休みが明けてすぐ、父は勤め先の部下だった女性と駆け落ちした。
それから二度と会うことはないまま、大学三年生で台湾から帰国した空港で迎えの母から亡くなったと聞かされた。
――お葬式はお父さんの身内でやったし、あんたは向こうにいるから伝えなかったの。
死んだ時には独りだったそうだ。
――サーッ……。
少し汗ばむほど暖まったワンルームにエアコンの静かに律儀に働き続ける音が響く。
鏡の中にはまだクリーム色のボレロに藍色のドレスを着た女が床にへたり込んだようにして座っている。
試着して買った時にはクールで綺麗な色だと思ったが、何だかこれを着たままちょっと疲れると意地悪できつそうに見える。
そういえば、母も元は淡いピンクや白の優しい色合いの服をよく着ていたのに、離婚後は紺や黒の服ばかり着るようになった。
そして、それまではやや吊り気味の大きなアーモンド形の目に小さな紅い唇をした雛人形のような品の良い美人顔だったのが、般若じみた顔つきに変わった。
――メギツネって言われた? そういう顔なんだから仕方ないでしょ。
――あんたはお父さんに似たのよ。
他のことでは褒めてくれても顔形を可愛いと言ってくれた記憶は父と離婚してからは一度もない。
その母も去年の夏に亡くなった。
実家近くのパート先で倒れたと連絡が来て、夜中に新幹線に乗って搬送先の病院に行った時にはもう顔に白い布を掛けられていた。
鏡の中の女が結婚式の招待客より葬式の参列者にこそ相応しい面持ちでこちらを見返す。
私もきっと、独りで死ぬんだろう。
*****
今月も月経が来たか。
土曜の昼近くに起きて、トイレでほっと息をつく。
九割の安堵と一割の失望だ。
昨日、瞬が来る時に始まらなくて良かったという安堵が三割。
出血の量が一番多くて腹痛も辛い二日目が明日の日曜日で会社に行く日でなくて良かったという安堵が三割。
何よりこんな状況で妊娠しなくて良かったという安堵が三割だ。
――堕ろしてくれ。
当然だろ、という調子で冷ややかに告げる瞬を想像すると、微かに痛む腹を抱えながら目の前が暗がりに浸されるように感じる。
――俺には婚約者の彼女がいるって最初から君も知ってたよね?
――本当に俺の子?
邪魔者を眺める眼差しで言い放ち去っていく、可能な限り最悪な、酷薄な、醜悪な彼の姿を頭に思い浮かべて、いつも通り血を流している自分はまだ幸運なのだと言い聞かせる。
だが、胸の中ではお腹に命を宿した私を抱き締めるもう一人の瞬が浮かぶのだ。
――大丈夫だよ。もう決めたから。
次いで、彼そっくりの優しい奥二重の切れ長い目をした可愛らしい赤ちゃんを愛しげに抱き、産院のベッドに寝ている私に見せる姿が現れる。
――俺らの子供だよ。
「あはは」
自分でも笑っちゃうような、あまりにも虫のいい夢物語だ。
婚約者の彼女が妊娠すれば結婚への道がより強化されるだろうが、私が妊娠してもお腹の子供ごと周りの皆からはより望まれない存在になるのだ。
仮に瞬が婚約者の彼女と別れて新たに私と結婚してくれたとしても、他人はもちろん彼にとってすら「お腹の子供を盾に無理やり結婚を迫った、狡猾で卑劣な、本来は妻に望んでいなかった女」と軽蔑される家庭生活の始まりだろう。
――あの人、本当は旦那さんには他に婚約者がいたのに子供が出来たって既成事実作って略奪婚したんだって。
――男はハメられたんだろうな。
間違いなく陰ではそう噂され、むしろ不幸にならなければならないかのような目線に常に晒される。
――子供が出来なきゃお前となんか結婚してなかった。
今度は憎しみを込めて罵倒する瞬の姿が浮かんだ。
――ジャーッ……。
血溜まりを流して立ち上がる。
とにかく、今はその最悪の事態でないからいいんだ。
*****
何だか昨日から急に肌寒くなったし、生理痛でお腹の調子も良くないから、お昼はホットココアとSOYJOYのブルーベリーを一本食べるくらいにしよう(こういう外に出たくない休日を想定して、普段から近所のドラッグストアで栄養補助食品からその時々で割安になったりポイントの還元率が高くなったりした商品を買い溜めをしている)。
「一人暮らしで良かった」
食事も食べたい時に食べたい物を食べたい量だけ摂れる。
休みの日に家でゴロゴロするのも外に出掛けるタイミングも自分の心次第。
大学に入ってからかれこれ七年以上もそんな生活をしている。
二十六年の内、七年だから四分の一以上、三分の一未満だ。
多分、これからもその比重が大きくなっていくんだろう。
何だかんだ言って、自分はこの気楽さが好きだから。
今だって、瞬はせいぜい週に一回、ほんの数時間だけやってくるお客さんに過ぎない。
実質的な時間に換算すれば、一緒に部屋飲みする女友達くらいの、というよりそれよりもっと短い滞在だ。
冷蔵庫から出したパックの牛乳をグラスに注ぎ、電子レンジに入れて温めるボタンを押す。
電子音と共にオレンジ色の照明を浴びながら狭い箱の中でグラスが緩やかに回り始めた。
食器棚から二つ並んだ陶器のマグカップの内、無地の紺色ではなく白地に青紫の
ふわっと広がる香りはチョコレートの甘いそれだが、これはカカオ七十パーセント以上で固形チョコレートで言えば「ビター」に該当する風味だ。
ブルーベリー入りのクッキー(と呼ぶには愛嬌に乏しい栄養補助食品だが)と一緒に飲むから、ココアはちょっと苦めで良い。
竜胆の花のマグに焦げ茶色の粉末を入れてから、視線は食器棚の紺色のマグに移ろう。
竜胆の花のマグはこの部屋に越してきたばかりの頃に近所のスーパーで買ったもので、紺色のマグの方は去年か一昨年、ブックセンターで本を買った時に景品で貰ったものだ。
一人暮らしを始めた時からどれかを割った時の予備としてマグカップは二個以上常備しているし(どれだけ気を付けて扱っても陶器は思わぬ時に割れたり欠けたりするものだ)、今ある二つも瞬とは無関係に入手した。
だが、こうして使われずに片方だけ棚に残っているマグカップを目にすると、何とはなしに置き去りにされた気分になる。
聞き覚えのある電子音のメロディが鳴り響く。
狭いワンルームの小さな箱の中で一人分のホットココアを作るための牛乳がもう温まったようだ。
*****
取り敢えず、腹は満たしたからAmazon Primeで映画でも観るか。
口の中でカカオの苦味とブルーベリーの酸味が中和せずにまるで不協和音のように尾を引いて残るのを感じながらシングルベッドに寝転んで傍らのナイトテーブルに並んだテレビの黒いリモコンとメタリックブルーのスマートフォンの内、黒い方に手を伸ばしたところで隣の青い方がブルブルと震えた。
――自分の方を先に取れ。
いかにも機械的な彩色を施された機器がまるでそう主張する生き物のように卓上で振動している。
きっと瞬だ。
いや、昨日のカード払いの通知メールみたいなどうでもいいやつかも。
前者であって欲しいような、そうなると怖いような気持ちで震える方の機器を取り上げ、画面に現れた点をなぞってロックを解除する。
“昨日はちょっとお疲れだったけど大丈夫?”
画面の上の通知に白い
やっぱり、瞬だった。
ふっと息を吐いて、手にした扇子と同じように真っ白な顔に黒く真っ直ぐな眉と切れ長い瞳の人形のアイコンを見詰める。
――川本喜八郎の人形は品があって好きだ。
――この人形の諸葛亮孔明の方が生身の俳優が演じる孔明より神がかっている。
瞬がそう語ってLINEのアイコンにしている軍師の人形は髭を剃り落とせば白い面といい切れ長い目といい彼本人に似ている。
すぐにLINEのトーク画面を開いて“既読”の通知を付けると、いかにも彼からの連絡を待ちわびていたようで自分が惨めになるし、何より相手から軽んじられる事態に繋がる気がするので、少し時間を置いてから開いて“既読”の知らせが相手に届くようにしている。
そんな駆け引きめいた小細工を自分に課して腐心する時点で既に敗けているのだ。
いつもの結論に辿り着くのを感じつつ、取り敢えず、スマートフォンを傍らに置いてリモコンを取り上げ、Amazon Primeの画面を開く。
ウォッチリストに入れた一覧の中から十歳くらいの
“青いパパイヤの香り”
今日はこれを観よう。
年末にはベトナムのサイゴンに行きたいのでその予習だ。
もう帰る実家も共に過ごす家族もいない私には盆暮れは好きな場所に一人で遊びに行く絶好のシーズンなのだ。
取り敢えずの時間潰しの作業が済んだので、またスマートフォンを取り上げて画面のロックを解除する。
――元気だよ。瞬は大丈夫?
頭の中で返すべき文言を用意してLINEのトーク画面を開く。
“昨日はちょっとお疲れだったけど大丈夫?
うちのチビも昨夜帰ったら具合悪くして寝てた。
急に寒くなったから体調崩したんだと思う。
今日はもっと気温低くなるみたいだから気を付けて。”
ふっと吐きたくないのに溜息が出た。
長く書いてあると思ったら半分は私のことではなく「うちのチビ」こと瞬の弟さんのことだ。
――弟は俺が中三の時に生まれたから、こっちが大学四年でもう卒業するって年に小学校に上がったんだよね。
いつかそう話していたから多分、今は小学四年生。両親が離婚した頃の私と同じくらいだ。
むろん、両親も揃って年の離れたお兄さんもいる「チビちゃん」は父親から母親共々捨てられた一人っ子の自分のような陰鬱な子供時代を送ってはいないだろうが。こんな風に心配してくれるお兄ちゃんもいるのだから。
瞬を小さくしたような男の子(弟さんの本当の顔は知らないがそんな子が浮かんでくる)が布団に寝ていてその額に瞬本人が手を当てる姿が浮かんできて何とはなしに苦笑いする。
“こっちは大丈夫。”
これだけではさすがに素っ気ない。入力したまま送信はせずに躊躇する。
「チビちゃんもお大事に」と続けるのも弟さんとは何の面識もない私が言うのは変だ。
そもそも瞬にとっての自分はまだ幼い弟に存在を知らせたい人間ではないだろう。伝えるとしても「職場で一緒の人」とかそんな無毒無害な皮を被った形になるはずだ。
そう思い至ると、胸の奥が塞がると同時にベッドの上に投げ出した剥き出しの足に触れる空気が寒々しくなってきて毛布の下に身を沈める。
“そっちも着るものとか暖かくしてね。”
毛布の
カッと体の芯が熱くなってスマホを持たない方の腕で毛布を抱き締める。
“外に出る時は特に気を付けて。”
今日は
それとも、向こうにはもっと違う風にするの?
本当に言いたいことは伏せたまま送信のボタンをタップする。
当たり障りのないメッセージがトーク画面に映り込むのを確認してスマホを電源ごとオフにする。
とにかく映画を観て、自分だけの時間を持とう。
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