楊佺期1 強獷粗暴

楊佺期ようせんき弘農郡こうのうぐん華陰県かいんけんの人で、かん太尉たいいであった楊震ようしんの子孫である。曾祖父は楊准ようじゅん太常たいじょう。楊震から楊准にいたるまでの七世代のものはみな德ある者として名が知られた。祖父は楊林ようりん、幼い頃より才望ありとされたが争乱に巻き込まれ胡族のもとに没した。父の楊亮ようりょうははじめ五胡王朝に仕えたが、後に晋に帰属。梁州刺史りょうしゅうししとして生涯を終え、貞幹ある者として名を知られた。


楊佺期は沈着勇猛、果断果敢でこそあったが、兄の楊廣ようこうや弟の楊思平ようしへいらとともに威張り散らし、粗暴であった。自分たちの継承している家門は江南のどの家門よりも上であるとし、あるものからその門地を琅邪王氏の顕名であった王珣おうしゅんと比較されたとき、その者に怒りや恨みを抱いた。とは言え当時の人々は長江を渡るのが遅く、姻戚も失ってしまった以上もはや排され抑え込まれるしかないではないか、と語っていた。このことが楊佺期ら兄弟を歯ぎしりさせ、ならばのし上がってやろう、と言う志を逞しくさせるに至った。


楊佺期は幼い頃より軍府に仕えた。成帝せいていの時代に兵を預かり成固せいこに駐屯。苻堅ふけんの將の潘猛はんもう康回壘こうかいるいを守っていたため、楊佺期は攻撃を仕掛け敗走させ、その兵らをことごとく投降させた。この功績から廣威將軍こういしょうぐん河南太守かなんたいしゅに任じられ、洛陽らくよう守備となった。苻堅の將の竇衝とうしょうが兵を率い皇天塢こうてんうを守る平陽太守へいようたいしゅ張元熙ちょうげんきを攻撃してきたため、楊佺期が迎撃に出、敗走させた。楊佺期は湖城こじょうから潼關どうかんにまで進み、連戦連勝。討った者や捕獲した者は千を数え、九百世帯あまりを降伏させ、洛陽に帰還。龍驤將軍りゅうじょうしょうぐんに進んだ。しかしここで病を得、新野太守しんやたいしゅに移り、建威司馬けんいしばを兼務した。間もなく唐邑太守とうゆうたいしゅとなり、督石頭軍事とくせきとうぐんじとされたが、病の回復が思わしくなったため職を去った。時に荊州刺史けいしゅうししとなっていた殷仲堪いんちゅうかんが楊佺期を司馬しばに抜擢、江績こうせきの代わりに南郡相なんぐんしょうに任じられた。




楊佺期,弘農華陰人,漢太尉震之後也。曾祖准,太常。自震至准,七世有名德。祖林,少有才望,值亂沒胡。父亮,少仕偽朝,後歸國,終於梁州刺史,以貞幹知名。佺期沈勇果勁,而兄廣及弟思平等皆強獷粗暴。自雲門戶承籍,江表莫比,有以其門地比王珣者,猶恚恨,而時人以其晚過江,婚宦失類,每排抑之,恆慷慨切齒,欲因事際以逞其志。

佺期少仕軍府。咸康中,領眾屯成固。苻堅將潘猛距守康回壘,佺期擊走之,其眾悉降,拜廣威將軍、河南太守,戍洛陽。苻堅將竇沖率眾攻平陽太守張元熙於皇天塢,佺期擊走之。佺期自湖城入潼關,累戰皆捷,斬獲千計,降九百餘家,歸於洛陽,進號龍驤將軍。以病,改為新野太守,領建威司馬。遷唐邑太守,督石頭軍事,以疾去職。荊州刺史殷仲堪引為司馬,代江績為南郡相。


(晋書84-29)




楊佺期つええ。なんだこいつ。「皇帝の刃」じゃなくて「誰かの刃」として機能できてたら、めちゃくちゃヤバい軍功挙げられたんでしょうねえ。弘農楊氏の誇りから皇帝以外にかしづくつもりもなかったでしょうし、もうなんていうかいくら頑張っても破綻しか見えないのがキツい。

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