殷仲堪12 破滅と子供

やがて桓玄かんげん楊佺期ようせんきを攻撃しよう、と計画、先んじて殷仲堪いんちゅうかんに以下のように告げる。

「いま、沔水べんすい入りして楊佺期を排除せんと計画している。已に兵は江口こうこうに駐屯している。もし貴様がおれに逆らうつもりもないのであれば、貴様の元にいる楊佺期の兄、楊廣ようこうを殺害せよ。受け入れぬのであれば、掛かってくるがよい」


殷仲堪はすぐさま桓玄の兄である桓偉かんいを捕らえ、從弟の殷遹いんいつらに水軍七千を与え江口の西に派兵した。桓玄は郭銓かくせん苻宏ふこうに迎撃させ、殷遹らは敗走した。桓玄は巴陵はりょうに入り、その地の兵糧を自らの元に引き入れた。桓玄はまた楊廣を夏口かこうにて破った。


殷仲堪が抱えていた巴陵の兵糧を失い、また諸將がみな敗れたのを受け、江陵こうりょうの人々は大いに恐れた。城內にはまともに食料もなく、胡麻をちびちび食いつなぐありさまであった。殷仲堪は大慌てで楊佺期を召喚した。楊佺期もまた兵を率いてやってき、長江を渡り桓玄を襲撃するも、敗北。襄陽じょうようまで逃げ落ちた。殷仲堪もまた江陵を捨て酂城さんじょうにまで逃げたが、桓玄が放った追っ手に捕らわれ、自殺を迫られた。このため殷仲堪は柞溪さくけいにて自死。このとき弟の子の殷道護いんどうご參軍さんぐん羅企生らきしょうらもあわせて殺された。


殷仲堪は幼い頃より道教を信奉していた。心の粋を尽くして神に尽くして神に仕え、その供え物をケチることも一切なかった。とは言え道教の重要な要点である互助には無関心であり、誰かの苦難を救援しようなどとも考えなかった。桓玄が攻め上ってきたと聞いても、いまだもって祈祷に精を出すありさまであった。人情を集めることには長けており、病を得た者に対して自ら脈を測り、薬を与えたりはしていた。一方で持ち出す計略等は無闇矢鱈と煩瑣であり到底実用に耐えるものではなかったため、結局は敗北するに至るのだった。


子の殷簡之いんかんしは殷仲堪の遺骸を引いて建康けんこうにまで下り、丹徒たんとに葬り、墓の側で日々を送った。劉裕りゅうゆうが決起すると家で抱えていた従僕や客らを率い桓玄の追討に従軍。桓玄が死ぬと、殷簡之はその肉を食った。桓振かんしんが反攻してきたときに義軍は体勢を大きく崩され一時引かねばならなくなったが、このときの混乱に巻き込まれ、殷簡之は陣中にて死亡した。

弟の殷曠之いんこうしには父に似た気風を抱いていた。剡令しょうれいにまで至った。




頃之。桓玄將討佺期,先告仲堪云:「今當入沔討除佺期,已頓兵江口。若見與無貳,可殺楊廣;若其不然,便當率軍入江。」仲堪乃執玄兄偉,遣從弟遹等水軍七千至江西口。玄使郭銓、苻宏擊之,遹等敗走。玄頓巴陵,而館其穀。玄又破楊廣于夏口。仲堪既失巴陵之積,又諸將皆敗,江陵震駭。城內大饑,以胡麻為廩。仲堪急召佺期。佺期率眾赴之,直濟江擊玄,為玄所敗,走還襄陽。仲堪出奔酂城,為玄追兵所獲,逼令自殺,死於柞溪,弟子道獲、參軍羅企生等並被殺。

仲堪少奉天師道,又精心事神,不吝財賄,而怠行仁義,嗇于周急,及玄來攻,猶勤請禱。然善取人情,病者自為診脈分藥,而用計倚伏煩密,少於鑒略,以至於敗。

子簡之,載喪下都,葬於丹徒,遂居墓側。義旗建,率私僮客隨義軍躡桓玄。玄死,簡之食其肉。桓振之役,義軍失利,簡之沒陣。弟曠之,有父風,仕至剡令。


(晋書84-28)




殷仲堪評がなんかめちゃくちゃなのがヤバい。え、そこ並列してなんか楽しいの!? って素でツッコみたくなってしまった。ともあれぐだぐだにもほどがある殷仲堪伝が終了。いやー、清談って最悪でしたねー。ぜったいに触れたくねえって思いました。


それにしても殷仲堪と楊佺期と桓玄は、三者の伝をきっちりマッシュアップしないとぜんぜん訳わかんなさそうですね。これは桓玄伝が終わり次第着手してみたいと思います。

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